「日本酪農の中興の祖」と呼ばれた雪印乳業の佐藤貢氏は、1999年9月に永眠されました。享年101歳でした。
佐藤氏は北大農学部を卒業後、北海道の農業を変える道筋を求めてアメリカのオハイオ州立大に留学しました。
米国では学業の傍ら、近くの乳製品工場で働きました。学費を稼ぐのが目的でしたが、酪農の本場・オハイオの工場はバターやチーズ、アイスクリームの製造技術を体得するもう一つの学校となりました。
柔道の稽古(けいこ)中に挑みかかってきたレスリング選手を投げ飛ばし、旅先のメキシコでは就寝中に襲ってきた強盗をゲンコツで撃退したという逸話もあります。
帰国とともに、米国から北海道に乳製品の量産技術を持ち込みます。北海道製酪販売組合に入り、札幌郊外の工場で日本で初めて本格的なバターづくりを手がけました。
●雪印乳業までの歩み
当初は、原料のクリームを自ら馬車で運んでバターを製造、かめに詰めて塩蔵するまでの作業をたった一人でこなしたということです。
国内市場が舶来品に独占されていたため、単身、上海まで売りに出かけるなど、苦労を重ね、販路を広げていきました。
おなじみの雪印のトレードマークも、佐藤氏が中心になって考案したものです。
母校・札幌中学(現札幌南高)の校章(雪のマーク)をヒントにしました。
戦後、1950年に設立された雪印乳業の初代社長を13年、会長を8年務めました。その後も私立酪農学園大学(江別市)の学長、理事長などを歴任しました。
道外でも積極的に事業展開し、雪印乳業を「全国企業」に育て、看板商品のバターのシェアは5割を超えた時期もあります。
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