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センシティブな作品

概要

1896(明治29)年9月15日、の故郷愛知県岡崎市(現)生まれ(この当時の一家居住地は横浜)。

「槐多」といういかにも絵描きの筆名あるいは雅号のような名前は本名で、その命名者(とされているの)は母双方に縁があり、この夫婦の引き合わせ主だった「DQNネームの帝王(?)」こと文豪森鷗外

4歳から18歳まで京都で暮らす。いわゆる「早熟の天才」で絵や作等をよくし、その才能に気づいた従兄の画家山本鼎の勧めもあり本格的にその道を志すも、反対する父と対立し不仲に。これが最初の不幸の影となる。

上京後は二科展入選を果たすなど評価こそ得るが、この頃から極度の貧困や失恋を問わず)の連続等があり、びたりになるなど更なる転落が加速。

遂には1918年に当時「の病」と呼ばれた結核を発症、これが結果的に大きな痛手となって肉体的にも精神的にもすさみ、奇行に走るなどする(も、絵を描くのだけは止めなかった)。

1919(大正8)年2月20日、22歳の若さで夭折。当時世界中で猛威をふるっていたスペイン風邪に罹患し、高熱にうなされる中真冬の降る夜の野外に飛び出しの中で倒れているところを発見され、寝床へ連れ戻されたもののうわ言(これまでの失恋相手の名前など)を口にしながら息絶えるという、それまでの短くも激しい一生を象徴するような壮絶な最期だった。

代表作は『尿(いばり)する裸僧』『乞食と女』『カンナと少女』『バラと少女』『自画像』、小説作品『悪魔』など。

作風

自らの造語で「アニマリズム」と称した野性感情溢れる荒々しい筆タッチと、ガランスのようなくすんだ茜色)を多用した独特の色彩が特徴。

デカダンス(退廃的)思想が色濃い作品が主として世に知られているが、信州千葉等を旅行した際に描かれた比較的落ち着いた画風の風景絵や、単色木炭デッサン画なども多い。

満22歳という短い生涯のわりには(習作や下絵の類も含め)現存作品数は約200点程と多めで、しかも長年所在不明だったり生前未発表のそれが近年多く見つかったりしている。

当然のようにその作品価値は今日高い(あの某お宝鑑定TV番組でも超高額査定を記録したことがある)が、ただこうした「金になる」芸術作品の常として贋作も多く出回っているので(これまた同番組でもニセモノが幾度も登場)、素人はくれぐれも注意が必要。

著名関連人物

高村光太郎:生前そのアトリエによく出入りしていた。彼のことをだるま槐多」と表した哀悼詩を残している。

有島武郎 芥川龍之介:やはり槐多の死後、その遺稿集を賞賛。

江戸川乱歩:たった3篇しか書かれなかった槐多の怪奇小説を絶賛。自宅書斎へ飾るのに是非にもと熱望して槐多の『二少年図』を入手、ずっと愛蔵していたことがミステリファンの間で有名。

(乱歩)は今、ほの暗い書斎の中に、村山槐多の夢とともに住んでいる。

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