目からウロコ!あなたの文章がツマラナイ5つの理由と処方箋

最近、頭髪が斑になるほどツマラナイ文章が増えた。

主にはブログやそれに類する文章の話だ。暇つぶしのファイナルウエポン、心の隙間を抉じ開ける脳髄のゴミ捨て場、我らの愛するウェブ世界がこんな有様では大変に困る。誤解してはイケナイ。ツマラナイ文章が増えたといっても、面白い文章が減ったなどといっているのではない。当然、どちらも増えている。だがしかし、だ。指数関数的に増え続ける「ツマラナイ文章」に対して、増えてもせいぜい主婦のヘソクリ程度でしかない「面白い文章」はあまりに非力である。ことソーシャルがきっかけで目にする文章のツマラナサは格別だ。どうやら無粋な文章作法の氾濫がことここに至って効いてきているらしい。では、具体的にどんな文章がツマラナイのか。


1. タイトル負けが酷すぎて殺意を覚える

たとえばこの記事だ。セオリー通りに飾り付けられたタイトルが実に白々しい。目からウロコ!…などと下手なコピーライター気取りも鼻につく。もちろん、読者の目にこびりついて層をなした頑固な鱗をブルドーザーの如くごっそり剥ぎ取る自信でもあるならそれもいい。が、さしたる確信も気概もなく人を釣らんがためだけにこんな冠をつけるのは粗忽者のやることだ。詐欺臭いばかりかオリジナリティの欠片もない。まだある。3とか5とか10とかいう数字も鬼門だ。キリがよくてキャッチーな数にしたいばかりに、兎の糞みたいな些末なネタでなんとか数を合わせようとする。そんな水増しを面白おかしく書ける才など、そうそう誰にでもあるものではない。


2. シンプル化の効能を盲信して凡庸が極まる

平易、簡潔こそ至上である。そんな教義を広めた宣教師の罪は深い。盲信者らが進んで自ら個性を削り取り、ただただ読みやすいばかりの凡庸な文章を量産する。既視感溢れる標語のような見出しが並び、もうそれなら見出しだけでいいじゃないか、と思うような本文が付け足しのように書かれている。まず凡人の発する言葉のほとんどは、その骨子においては「車輪の再発明」にすぎない。それでも面白い点があるとすれば、それはその人だけが持ち得た紆余曲折であり、ニュアンスの差異である。凡庸な内容をあえて凡庸な文章にして何が愉しいのか。読みやすさは目的ではなかろう。そもそも、無駄を省けとは無体な話である。ブログが丸ごと消えてしまう。


3. 読ませるテクニックだけがあって読ませる内容がない

これこそ、見出しがすべて。説明は不要だろう。ただし、ここでいう「内容」とは「書かれた内容」のみを指しているわけではない。その文体や筆者のキャラクターまで含めた、広義の「コンテンツ」を意味している。朝起きて飯を食って仕事して疲れて家に帰って酒を呑んで寝た。そんな退屈の粋を集めたような日記でさえ、文体やキャラクターが遥か天高く聳え立っていれば十二分に面白い文章たり得る。当世流行のライフハッキングな文章作法のために滅菌漂白され、加齢臭すら消え去ったツマラナイ文章の大攻勢に遭って、脂ぎった面白い文章たちが無人の凍土に追いやられ、不当に蹂躙されていく様を見るのはあまりに忍びない。一文が長くて何が悪い。


さて、律儀にもタイトル通りあと2つ書こうかと思ったけれど、もう飽きた。

別に、俺様のウェブにツマラナイ文章を書くんじゃない!などと特大のブーメランをぶん投げるつもりはない。イノベーションだのクリエイティブだのとドヤ顔も極まった善良なる人々が、まるでイノベーティブでもクリエイティブでもないライフハック記事をお作法通りに量産する。悪くはないがツマラナイ。先人が敷いたレールの上にイノベーションがあるものか。アフィリエイトで口を糊するプロブロガーにでもなったのなら仕方がない。そりゃあ、読者よりアクセスだろう。いずれ、その手のノウハウが生み出すのは「誰でも書ける文章」であって「あなただけの文章」ではない。書く目的によっては有効でも、「面白い文章」にとっては害悪でしかない。

作法なんて糞くらえ!基準は俺だ!…そういう人が増えた方がウェブは愉しい。

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