すべての非モテは恋愛強者である

そもそも、恋愛に相手は要らない。相手に左右される恋愛など不純ですらある。

今更な話かもしれない。が、ともかくすべての恋愛は独り相撲である。だから「最高の恋愛は片想い」なんてことがいわれる。或いは、「恋する自分に恋する」だとか。要するに、恋愛とはそういう娯楽なのである。悪い意味でいっているのではない。妄想力さえあれば誰でも参加可能な素晴らしい娯楽だとさえ思う。そんなことはない、非モテは辛いのだ。そう思う向きもあるかもしれない。そう、辛い。むしろ、それこそが恋愛の本丸である。いや、幸せな恋愛というのもあっていい。けれども、より娯楽性が高いのは辛い恋なのだ。恋愛物語の傑作は失恋の物語と決まっている。

合コンで知り合って、なんとなく付き合ってはしっくりこずに別れる。そんなことを繰り返すリア充は恋愛弱者である。彼らの別れは失恋ではない。そこには胸を裂くような慟哭も、涙を涸らすカタルシスもない。失っても平気で生きていられるようなものが恋愛であるはずがない。彼らはお仕着せのロマンティックラブを形式的になぞっているだけだ。人生のリハーサルだ。そうでなければ、刹那的に獣欲を満たしているだけである。彼らだって願っている。恋愛がしたい、と。つまり、今しているこれは恋愛ではない、と彼らは自覚している。自覚しながら、半ば諦めてもいる。

だからリア充だって、恋愛できている人なんてそうはいない。むしろ、非モテ以上に恋愛を諦めている。恋愛という娯楽を愉しめない体になっている。それは、妄想力の弱いリハーサルを繰り返しすぎたせいでもあろう。恋愛になんて、さしたる期待も幻想も抱いてはない。非モテは違う。恋愛のハードルを上げ、妄想を膨らませ、ロマンティックラブをちゃんと信仰している。そして、自分はなんて非モテなんだと嘆いている。恋愛について思い悩んでいる。悶々としている。自分はどうすれば人とうまく付き合えるんだろう。うまくいったならあんなことやこんなことをするんだ。

非モテの書く匿名ダイアリーやブログの非モテエントリーは暗い。ダメダメな自分語りや、希望のなさや、失敗経験の告白に溢れている。これは「予め失われた恋愛」の物語である。忘れたくても忘れらない。捨てたくても捨てられない。グルグルと脳内を駆け巡り悶々として妄想を焚きつける。そうやって恋愛を渇望している。立派に恋に恋している。同時に、立派に失恋している。これ以上ないくらい純粋に、正しく恋愛している。恋愛の醍醐味である身を切るような苦しみを味わっている。そう、非モテたちはまったく勘違いしている。すでにしているそれこそが恋愛なのだ。

恋愛強者とは、決して手に入らない本当の恋を渇望し続けられる人のことだ。


【インスパイアされたエントリー】
非モテ諸君に告ぐ
#これもひとつの恋愛強者の姿である。

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