2024年12月31日火曜日

ジェダイが暗黒面に堕ちることの意味がよくわかったこと


さて、雷光です。雷光と言ったらもちろんスーパーウルトラエキサイティングでオーセンティックかつドラスティックなフォーリンラブ煎餅、ひざつき製菓「雷光(旨塩味)」以外にありません。


ことの発端は、見たことのない煎餅をたまたまスーパーで見かけたうちの人が買って食ったことにあります。「閃光の如く旨味が走る」というマッチョでドスの効いた惹句の通り、ひと口で閃光に舌と脳髄を貫かれてしまい、それからずっと飢えた獣のように血眼でいるのです。

もちろん、また買えばいいんだからふつうは血眼になる必要はありません。ではなぜこんなことになっているかといえば、あちこち探し回ってもなかなか見つからないからです。

最初に見かけたスーパーにいそいそと買い足しに出かけて、「広告商品だったのでもうありません」と言われたときの、奈落に突き落とされたようなうちの人の絶望を想像してみてください。あわてて思いつくかぎりのスーパーを十数店駆け巡るものの、これがまたどこにも置いていないのだから、進退極まるとはこのことです。血眼から真っ赤な涙が流れるのも無理はないし、ジェダイが暗黒面に堕ちるとしたらまさにこんなときだろうと痛感せずにはいられません。

ネットでいいじゃんとお思いでしょうが、直営のオンラインショップやその他のサイトで売られているのは1セット16袋であり、気軽に買うには多すぎます。何しろひと抱えもある段ボールでドンと届くのです。煎餅くらい、もうちょっと気楽に買いたい。

というようなことをお店でお客さんに話していたら、そばにいたうちの人がバツの悪そうな顔をして言うのです。「もう注文してしまいました…」

背に腹は代えられません。ほどなくしてうちに16袋入りの段ボールが届きます。すぐに食べ切れる量でもないので、布教のためにせっせと知人にお裾分けしていきました。アグロー案内の片割れであるタケウチカズタケもその一人です。

そして僕が先月の「アグローと夜」でこの話をし、みんなでふむふむ、そんなら一度買ってみよ、と思ったらまじで生活圏のどこにも売ってない、というわけでひと月以上が経過した今もまだドタバタと探索劇が繰り広げられているのです。

おそらく、すぐに手に入るものならとうにほとぼりも冷めていたでしょう。そしてまったく売られていないならあきらめもつくのに、じつはそうとも言い切れず、あるところにはあるらしいから困るのです。そして運よく雷光を射止めた人々はやはりもれなく閃光に貫かれていることがまた、この状況と焦燥に拍車をかけています。煎餅リテラシーのほとんどない僕ですら、あれは美味しいと本当におもうし、うちの人が煎餅ソムリエと崇める古書店仲間もびっくりして太鼓判を押すくらいなので、見かけたら即買いでまず間違いありません

僕も相当の範囲であちこち駆け巡っているつもりですが、最初に見かけたとき以来、今も実店舗では巡り会えていません。ひざつき製菓の煎餅にはちょいちょい出会うようにはなりましたが、雷光はない。ついでに言うと「城壁」もない。

ちなみに栃木のメーカーなので、栃木近郊ではわりと難なく手に入るそうです。まだそこまで広く浸透しているわけではないとも言えるけど、むしろ一部のメーカーがちょっと幅を利かせすぎなんじゃないのかとおもう。

こうしてSNSや知人、うちの人の古書店ネットワークから寄せられるわずかな手がかりを元に、一縷の望みをかけてあちこち出向いては空振りを繰り返し、あと一歩で出会えそうな、パチンコで言うとあと5000円ぶっこめば出るみたいな根拠のない期待感だけが募るまま、雷光を再び手にすることなく2024年が暮れようとしています。うちにあるのはあと2袋です。とてもじゃないけど、開封できる気がしない。

したがって、今年もいろいろあった気がするけれど、一年をひと言で表せと言われたら雷光の2文字に尽きるでしょう。いったいなぜこんな報われない恋みたいなことになっているのか、つくづく無念と言うほかありません。もう以前と同じ日々には戻れない、そんな気にさえさせられます。今の僕らにできるのはただ、ひざつき製菓の公式キャラクターのはずでありながらLINEスタンプ以外ではまったく見かけない「ひざつきボーイ」のスタンプを日々連打することだけです。おちおち年も越せません。


本来であれば今年はタケウチカズタケとのアグロー案内やその実演版である「アグローと夜」を筆頭に、ドームツアー、海外進出、チャンネル登録者数100万人突破、紅白出場、M-1連覇、テイラースウィフトから直々のオファーが来たりと、そんな夢を見て目が覚めたら朝だった話の数々を、感謝とともにあることないこと振り返っていたはずですが、今となってはそれも儚い、泡沫のようにも思われます。初めからぜんぶ泡沫でなかったとも言い切れませんが、この際それは問題ではありません。


ともあれ今年もここでこうして、また来年があることを前提に(←重要)ご挨拶ができるのも、ときどき思い出しては訪れてくれるみなさまのおかげです。アグロー案内を聴いてくれてありがとう。初日と最終日を兼ねたライブに足を運んでくれてありがとう。

何より、10年もの間アウトテイクのまま留まっていた「コード四〇四/cannot be found」のこれ以上ないほど完璧な正規リリースや、当人たちですらまったく想定していなかった「紙芝居を安全に楽しむために」のライブにおける発展形は御大タケウチカズタケの存在なくして語ることができません。とりわけ「紙芝居…」はライブでなんかできるわけないと思っていたのが、今やライブでないと意味がないくらいの域に到達しつつあります。難があるとすればそれほど需要がないことですが、考えてみたら元から需要の多い立ち位置でもないので、今さら気にすることもないでしょう。「コード四〇四」だってここまで一分の隙もなく鮮やかに披露できる日が来るとは夢にも思っていなかった。

僕にまだ少しでも追う価値があるとするなら、それはひとえに彼のおかげです。去年感じたよりもまだもうちょい先がありそうだと心から思える、それだけでもまちがいなくこの1年の甲斐はあったと断言せずにはいられません。

僕が取り返しのつかない何かをやらかさないかぎり、この道はまだ続きます。どうか引き続きもう少し、よろしくお付き合いくださいませ。

今年もありがとう!そしてよいお年を!

あとうちの人を暗黒面から連れ戻すための情報もお待ちしています。

2024年12月27日金曜日

思うところあって、書き留めておきたいこと


いろいろあって、裁判の原告側にいるのです。

ややこしい話ではありません。むしろ裁判になるのが不思議なくらい、一般的にはシンプルな話です。もちろんいきなりそんな展開になったわけではなく、最初の交渉を破棄され、次に代理人を通じて通知書(これは法的な効力を有すると同時に、交渉の意志があることを伝えるための文書です)を送付し、それもスルーされてしまったので、やむなくここに至ったという次第です。

せっかくなのでいちおう書いておくと、もし法律事務所や弁護士から通知書が内容証明郵便で送られてきたら、それは相手も本気ということなので、絶対にスルーしてはいけません。ふつうに堂々と、反論したらよろしい。個人としてはもちろん、会社の場合は社会的な信用にも関わります。今回は小さな会社が相手なので、会社としてやらかしてはいかんことをここでも重ねてしまっているわけですね。

とはいえ、ことの顛末とか是非をここで問いたいわけでは全然ありません。この件を通じてあれこれと考えさせられることがあった、という話です。差し障りがあってもいけないので具体的には書きませんが、別の例に置き換えてみましょう。

クマちゃんの粗忽な振る舞いで、ウサギくんの大事なものを壊したとします。ウサギくんはせめてクマちゃんに謝ってほしかったものの、結果としてクマちゃんは責任を認めず、謝りもしませんでした。

実際の状況とはまるっきり違うんだけど、これくらいシンプルな話である、という意味では同じです。誰がどう見たってクマちゃんが100%悪い。ウサギくんにとって大事なものならなおさらです。

ではウサギくんが裁判所に駆け込んで、「クマちゃんに大事なものを壊されたんです!」と訴えたとき、裁判官は「おお、それはひどい。クマちゃん、謝りなさい」となるだろうか?

答えはNOです。

裁判官が当事者でない以上、それが事実であることを示す証拠がないかぎり、客観的な判断ができません。この時点で提示できる明確な物的証拠は「壊れた大事なもの」だけなので、これだけで「クマちゃんひどい」とは言えないのです。したがって、クマちゃんの言い分も聞く必要があります。

クマちゃんの代理人弁護士の言い分はこうです。「粗忽な振る舞いは認めます。ウサギくんの大事なものが壊れたことも認めます。ただし、粗忽な振る舞いによって大事なものが壊れた、という点は否認します。なぜなら、大事なものが壊れたのは粗忽な振る舞いが直接の原因であると立証されていないからです」

おいおいおい、ふざけんなよ、まじでふざけんなよ!!!とウサギくんは激昂するでしょう。僕だって頭にきます。

しかし裁判ではそうはなりません。なんとなれば裁判官はお互いの言い分と証拠でしか客観的な判断が下せないからです。したがってこう言うでしょう。「なるほど、確かに一理ある。ウサギくん、クマちゃんの粗忽な振る舞いが壊れた直接の原因であると主張するなら、その根拠を示してください


めちゃめちゃシンプルな話だったはずなのに、気づいたらクソめんどくさい話になっている。ですよね?しかし実際のところ、当事者ではない第三者が客観的に判断するというのはこういうことなのだ、と今の僕は心の底から痛感しています。そしてこれこそがこの話の主旨です。

ウサギくんは裁判官の指摘に対して根拠を示すことができるかもしれないし、できないかもしれません。しかしできなかった場合、クマちゃんの主張には一定の合理性が認められることになります。要するにクマちゃんが勝訴する可能性があるわけですね。

もしこれが世間の注目を浴びるようなニュースなら、「大事なものを壊されたとしてウサギくんがクマちゃんを提訴」みたいなことになるでしょう。なぜ提訴に至ったか、その詳細も記事になっているはずです。一般市民である僕らの印象としては「ひどい!クマちゃん謝るべき!」となります。

そしてクマちゃんの勝訴です。

一般市民の僕らとしては、到底納得のいく結論ではない。

ここで注意したいのは、ウサギくん敗訴=クマちゃんが正しい、という意味ではないことです。クマちゃんに明確な責任があると断定できないことと、クマちゃんが正しいことはイコールではない。でも一般市民かつ第三者である僕らとしては、この状況でウサギくん敗訴とかあり得ない、裁判官まじ頭おかしい、弾劾しろ!という気持ちになってもおかしくありません。ここにはすべての精査と法的な観点がないかぎり埋められない、めちゃめちゃ大きなギャップがある。

僕は正直、人生観がちょっと揺さぶられました。少なくとも、新聞、テレビ、SNSで伝えられる裁判の経緯と結果をそのまま鵜呑みにはできないと考えるようになっています。第三者が客観的に判断することは一般市民である僕らが思うほど単純な話ではないと言い換えてもいい。

もちろん裁判官も同じ人間なんだからやらかすことも絶対にあるはずだし実際にときどき取り返しのつかないことをやらかしてると思うけど、少なくとも僕らが目にしているのは常に海面よりも上の氷山だけだということを、改めて肝に銘じておきたいのです。伝わってるだろうか…?


ちなみに、以上のようなたいへんニュートラルな視点を踏まえた上で、いま直面している裁判の相手(被告)は、唖然とするほど人としてあり得ないタイプです。そしてもし僕が相手方の弁護士なら、明らかに不要かつ絶対にやめてほしい、自ら不利になるようなことをガンガンやらかしています。提訴後ですらやらかしていて、向こうがガッツポーズを決める可能性はゼロです。まじで何がしたいんだろう…と常識的な人なら誰でも首を傾げるレベルなので、これについてはまあ、ふつうに忘れてください。

世の中には金を払ってでも絶対に謝らない人がいる、と代理人弁護士に言われて驚いたんだけど、それを今じわじわと実感しつつあります。

要は「客観的に正しくあってほしい」「主観的な印象に沿っていてほしい」を当たり前みたいに混同してはいけないよ、という話です。みんなも気をつけてね。

2024年12月20日金曜日

いずれ消えゆく足跡も、歩みとして残るたしかな道のり


かつて頭が真っ白になる驚天動地の美白効果でコスメ界に殴りこみをかけ、今ではその界隈で知らない者はいないと言えたらよかったのにとよく言われる、名実ともに美のミスリーディングカンパニーとして成長を遂げた奇跡の化粧品メーカー「ゴルゴン」

ゴルゴンの沿革についてはこちらをご覧ください

2013年のポテンヒット商品

「美白というよりもはや漂白」と人に言わしめるほど白さにこだわり、またそれが広く世に受け入れられたことから、多くの犠牲を出しながらも振り返ることなく猪突猛進で究極の白さを追い求めた結果、いつしか企業としての理念、計画、目標までまっさらな白紙でなければ生み出す白さも説得力に欠けるという妄信に陥り、失えるものはだいたいぜんぶ失うところまで凋落する、文字どおり空白の時期があったことはあまり知られていません。

片っ端からすべてが白紙に戻ってようやく、白さのために頭どころか未来まで真っ白になっては元も子もないことに、ゴルゴンは気づきます。

しかし何もかもが無に帰したからと言って、これまでの歩みまでもが無に帰すわけではありません。踏み出しさえすれば、いつもそれが新しい一歩になります。回り道もまた、まだ見ぬ道へとつながる立派な道のひとつです。

「消えゆく足跡も、たしかな歩み。」

創業210年目にしてゴルゴンは過去の慢心と増長を受け入れ、否定はしないがなるべく見なかったことにする強靭な企業理念を新たに掲げ、伝統を守りながらも変化を恐れずに明日へと進みます。


そんなゴルゴンの決意表明として、全国紙に一面広告を出す予定が数千万かかると知って消沈し、やむなく町中の貼れそうなあちこちに無断で掲示しながらも狭量な苦情の殺到で回収を余儀なくされた渾身の広告を、若干名の方におすそわけいたします。

ご希望のかたは件名に「ゴルゴン再起の一面広告」係と入れ、

1. 氏名
2. 住所
3. わりとどうでもいい質問をひとつ

上記の3点をもれなくお書き添えの上、dr.moulegmail.com(*を@に替えてね)までメールでご応募くださいませ。

そして今年も!わりとどうでもいい質問にNG項目を設けます。「二択」は禁止です。去年はそれによって応募数が1/3くらい減ったという、考えようによっては耳寄りな事実も明記しておきましょう。

締切は12月27日(金)です。(仮に抽選となった場合でも、いただいたメールには必ず返信しています)

応募多数の場合は抽選となりますが、世に数多ある抽選の中で最も、そして異常なほど当選確率が高いことをここで堂々と請け合っておきましょう。元気を出して!という励ましのお便りも手ぐすね引いてお待ちしております。

今年もありがとうー!

2024年12月13日金曜日

ムール貝博士のパンドラ的質問箱 その435


さて、#アグローと夜 というタグがすっかり #ひざつき製菓 に置き換わってきたことでもあるし、そろそろまた通常運行に戻るといたしましょう。


全自動ケンタッキーさんからの質問です。(ペンネームはムール貝博士がてきとうにつけています)


Q. もしハチ公が犬ではなくミミズだったら..もしくはおよそペットとは言えない動物であったら渋谷駅には謎の動物の石像がたっていたんでしょうか


渋谷駅近くには、ハチ公と同じように待ち合わせのシンボルとして親しまれる、謎というならこれ以上の謎はない石像が設置されています。ちょうど今、長く鎮座していた場所から別の場所に移設の真っ最中だったと思いますが、「モヤイ像」というやつです。

モヤイ像それ自体に謎はありません。ラパ・ヌイ(イースター島)のモアイをモチーフに、新島固有の岩石を彫刻したちょっと大きめのオブジェです。あちこちに寄贈されて日本の各地にあります。

しかしそのオリジナルであるモアイは今もって謎の塊です。モアイだけでなく、ラパ・ヌイにはかつてロンゴロンゴと呼ばれる文字が存在し、この島でしか使われなかった上に現存する資料(木片)がごくわずかしかないため、今も解読されていません。島の歴史からして謎に満ちています。

島の歴史やモアイについては科学的な見地から「たぶんこういうことだろうと思われる」という解釈である程度落ち着いてはいる印象ですが、とはいえ当時のことを書き記した記録が他に何も残されていない以上、あくまで現代の感覚で納得できる解釈でしかなく、それを踏まえてもまだ不可解なことがちょいちょい散見されるので、ピラミッドなんかと同じく、やはり人類史に刻まれた大きな謎のひとつと言ってよいでしょう。とくにモアイは数百年ものあいだ人力で継続的にせっせと拵えるにはどう考えてもデカすぎる上に多すぎるというめちゃシンプルな点からして、なるほどと頷ける説明は全然できてないとおもう。

ことほどさようにモアイが今も本質的には謎であるとしか言いようがない以上、それをモチーフにした新島のモヤイもまた、何だろなこれ程度にはやはり謎であり、したがって新島から寄贈された渋谷のモヤイもまたこの謎を当然まるっと受け継いでいます。実際、何だろなこれというほかありません。

ここでやっと、ぎゅーんと話を戻しますけれども、もし公共の場にミミズの銅像が建てられるならば、多くの人が共感するような美談や人気がその背景にあるはずです。そうでなければ銅像にはなりません。

セミをゾンビ化する驚異の真菌マッソスポラだろうと、範馬勇次郎に匹敵すると言われる地上最強の生物クマムシだろうと、それは同じです。おそらくそこには誰もが納得する理由があります。

ミミズやマッソスポラやクマムシが銅像になっていないのはまだ人の胸を打つストーリーを伴っていないからであり、いずれ涙なしには聞けないマッソスポラくんの物語が日本中に広く知れ渡らないともかぎらないのです。そうして建つ像を謎とは、やはり誰にも言えません。モヤイのほうが無限に謎です。

何より、これは強調しておかなくてはいけない気もしますが、「およそペットとは言えない生物」は地球上に存在しません。どうあれ愛情をもって日々をともに過ごすなら、それはペットであり、当人にとっては家族です。

かくいう僕も、今では糠床を愛すべき家族として受け入れています。なんとなれば糠床は、ちいさな森と言っても良いくらい、多種多様な菌の相互作用によってそれ自体が複雑な生態系を成しているからです。手入れを怠って糠床をダメにするのは森が全滅するのにも等しいことであり、同程度の糠床に復元するためには数年の歳月を要することから、僕なんかはふつうに立ち直れなくなるでしょう。何であれ対象が生物であり、かつ当事者が愛情をもって日々を共にしているかぎり、それがペットでないと否定することは誰にもできないのです。糠床の銅像まではさすがに考えたことないですけど。

以上をふまえた僕の結論としては、こうなります。


A. 建っていたでしょう。それも堂々と。




質問はいつでも24時間無責任に受け付けています。

dr.moule*gmail.com(*の部分を@に替えてね)


その436につづく!


2024年12月6日金曜日

アグロー案内 VOL.8解説「名探偵の登場/the adventure of solitary cyclist」


こればっかりはどうあっても説明しなくてはなりますまい。

名探偵山本和男が縦横無尽にやらかす冒険活劇のシーズン1は、アグロー案内VOL.5に収録された「名探偵の死/the final problem」にて、肝心の山本和男がライヘンバッハっぽい滝に足を滑らせて落ちたっぽいという、劇的なシーンで幕を閉じ、絶大な反響を呼び起こしました。

「ウソでしょ、ここでシーズン1終了!?」
「打ち切りじゃないよね!?」
「和男が死んだ!」
「寝覚め悪すぎ」
「え、次の主役、加藤?

等々、SNSでのバズりっぷりはかの有名な滅びの呪文「バルス」に匹敵するほどだったと言います。

それから1年…待ちに待ったどころかみんなしびれを切らしてちょっと忘れかけていたシーズン2のスタートが、アグロー案内VOL.7に収録の新しいテーマソング「名探偵は2度起きる/the return of you-know-who」にて発表と相成りました。

そして今回のアグロー案内VOL.8に収録された「名探偵の登場/the adventure of solitary cyclist」でいよいよ、完全に死んだと思われていた、もしくは完全に死んだと思われていることになっていた山本和男がまるで何ごともなかったかのような顔でしれっと奇跡の大復活を遂げたと、こういう流れになっております。

説明しなくてはなりますまい、というのはむしろここからです。

曲中には4人の登場人物がいます。1人目はもちろん山本和男です。「なんだあのセスナ機は?」という何者かの発言から、セスナに乗っていることがわかります。しかし「あの中肉中背のパッとしない男は」との発言からすると、全身が視認できる状態であり、セスナを操縦してるわけではない、つまり機体の外側に屹立しているようです。

2人目は、先の発言をした人物です。彼が犯人だと山本和男に看破されてひどく悔しがっていることから、どうあれ何らかの犯人であったことは間違いないように思われます。

3人目は、助手の加藤くんです。「やまもとーーー」と歓喜の声を上げているのが、彼ですね。探偵でもないのに何をしていたんだろう。

4人目は先の犯人とちがってきちんと名前がある新キャラ、山口警部です。自ら名乗ってくれているあたり好感が持てますが、事件の解決にはとくに寄与していないようなので、今後の活躍が待たれます。ちなみに彼が食っている煎餅はひざつき製菓「雷光(旨塩味)」です。


よくよく考えるとセスナを操縦しているのは誰なのかという問題もなくはないですが、これはあらかじめ自動操縦にしておいた、ということで良いでしょう。したがって山本和男がひらりと飛び降りた後、あのセスナ機は楽曲に描かれていない遠く離れたところで地面に激突して爆発、炎上しているはずです。

そもそもセスナが滑空できるほどのだだっ広いところで3人は何をしていたのか、加藤くんと山口警部を除けばあとは謎の男しかいない状況で何に行き詰まることがあるのか、セスナ機に立って颯爽と登場する山本和男のイメージ以外はほぼすべてが謎に包まれている印象ですが、事件があって犯人が判明した以上、それ以外のちまちました謎など問題ではありません。いつでもカッコいい場面とその瞬間のみに全力を注ぐ作家タケウチカズタケの真骨頂がまさしくここにあります。

それよりもむしろ、曲の最後に残された不可解な呟きのほうがはるかに重大です。何しろこの楽曲それ自体が、事件の発端であることを示唆しています。

山本和男を讃える言葉の数々が忽然と消え失せている…。これは事実です。このシリーズにおける多くの例と違ってそういうことになっているわけではなく、ここには実際に言葉がありました。実際に書いて録音した僕が言うのだから間違いありません。あったはずの声が楽曲から失われるという、他に類を見ない前代未聞の事態です。

どこの誰が何のために声を盗んだのか、そしてこれを取り戻すことができるのかどうかが、華々しく幕を開けたシーズン2を左右する、でなければ上下する重大なカギになっていると申せましょう。

ただし、山本和男がカギを見つけても拾わないばかりか気にも留めないタイプの名探偵である点には注意が必要です。何しろそういう人なので、こればっかりは僕らでも如何ともし難いところがあります。

アグロー案内シリーズ屈指のフィリーソウル感も楽曲として最高なんだけど、ともあれどんな声と言葉がそこに乗っていたのか、想像しながら聴くのもまた一興かもしれません。

あ、あとそうそう、タイトルの英語部分、 ”the adventure of solitary cyclist(孤独な自転車乗り) は、シャーロック・ホームズシリーズの一編から拝借しています。こうしてみると山本和男のことにしか思えないけど、実際にこのタイトルを冠した短編があるのです。よかったら探して読んでみてね。

2024年11月29日金曜日

アグロー案内 VOL.8解説「空に身を投げてふわりと着地する/my dear Socrates」


人でない何かが決定権を持つ時代に向けて、いよいよ土壌が整ってきたなあ、と最近はよくおもうのです。人ではない何かとは、昔ならコンピュータで、今ならAI、たぶんまた新たなフェーズに移行して呼び名も変わるだろうけど、とにかく人工的な知能、もしくは少なくともそう見えるものを指しています。

今がその時代であるとはまだ全然おもいません。土壌が整ってきたと表現したのは、そのためです。ひょっとしたらまだ種すら蒔かれていないかもしれない。でも蒔けば自然と芽が出る、そんな土壌はもうできつつあるとおもう。

形あるものにしろ、形なきものにしろ、あらゆるものがネットワークで結ばれている状態がデフォルトになれば、次にくるのは端末の最適化です。アクセスする側の特性に合わせて、どんどん使い勝手が良くなっていきます。使い勝手が良くなればなるほど、それがないことを不便と感じるようになるでしょう。現時点ですでにそう感じている人も、たぶんいますよね。

膨大な情報が外からも内からも端末に蓄積されていき、それを元に今度はこちらが操作しているはずの端末側から別の選択肢を提示できるようになります。あなたはこれも好き「かも」から、あなたはこれが好きな「はず」になり、いずれ最終的には「あなたはこれが好き」と断言されるようになっても、全然おかしくない。

今というよりも、すこし先の、未来の話です。

人はみな誰でも、自分で考えて、正しく判断できると信じています。ただしその根拠は僕らが自分で感じるほど盤石ではありません。そしてそのことが人類の、高度なテクノロジー社会における致命的な弱点でもあるとおもう。本当に自分で判断しているのか、それともそう判断するように仕向けられているのか、僕らはその違いを区別することができるだろうか?

たぶんできないな、というのが僕の考えです。仕向けられている自覚がないなら、そりゃいつだって自分が自分の意志で判断しているとしか認識できないわけだから。

つまり僕ら人類は結果として、いずれ外からコントロールされるための土壌を自らせっせと耕している、とも言えるのです。

批判ではありません(←重要)。良し悪しでもなく、むしろこれは自然で不可逆な流れです。人が好ましいと感じるごくごく些細なことの積み重ねとその結果でしかない。仮に時間を100年巻き戻してもやっぱり同じ未来を迎える気がするし、そういうもんなんだろうなとおもう。進歩の副次的な作用、と言ってもいいのかもしれません。

一方で、そうした流れに抗う人は未来にもたぶんいっぱいいて、それもまたごく自然なことだと僕は考えています。希望とか絶望の話ではなくて、もっと単純に、自然な作用には自然な反作用があるはずだ、みたいなことですね。


例によって前置きが長くなってしまったけれど、「空に身を投げてふわりと着地する/my dear Socrates」はそんなあれこれから生まれた作品です。

こうありたいとか、こうあるべきという強い意志では全然なくて、ただふとそんな選択をしてみる気になったこと、今までそんなこと考えもしなかったから足がすくむし、不安にもなること、でもそれはすごく自然なこと。

先の作用と反作用で言うなら、蛾の羽の「舞い上がるためにある」が作用で、「舞い降りるためにある」が反作用にあたります。

その選択が正しかったかどうかは誰にもわからないし、それを知る必要もありません。ただ彼女はそうした、というだけです。ふわりと着地して何ごともなかったようにそのまま立ち去る、その後ろ姿はなんとなく、以前よりも凛として見えます。そこに美しさがあるならそれでいいなと、僕はおもうのです。

できればその後ろ姿を、見えなくなるまで見送りたい、そんな気持ちもあって曲の余韻をたっぷりとれたらうれしいな、と考えていたところにカズタケさんの思惑もぴたりと重なって、最終的にこの曲は最初からそう意図していたように感じるほど、理想的な形に昇華されています。感無量というほかありません。

僕のイメージが「彼女の後ろ姿が見えなくなるまで」だとしたら、カズタケさん主体の Part2 はそこから視点がゆっくりと空へと移り、大気圏を突き抜けて、宇宙へと向かっていくイメージです。ソロになることでふくらむ浮遊感がとにかく良いんですよね…。とりわけ Part1 の終盤からそっと顔を出し始めるリフがもう!も〜〜〜〜!そりゃ体もプカッとなってフワフワ〜ッてなるじゃん!(語彙)

そんな浮遊感に身を委ねながら、広大無辺をふわふわ、ぷかぷか、くるくる遊泳してもらえたらとおもいます。