プレイステーションが発売未遂に終わったSFCのCD-ROM拡張ハードを企画のルーツに持ち、ナムコのアーケード基盤を基に開発されたガチガチのゲーム機だったのに対し、3DOはそもそもゲーム機ですらなかったからです。
あくまで3DOは"マルチメディア端末(セットトップ・ボックス)"であって、その本質はスカパーや地デジのチューナーのようなものでした。ソフトは番組であり、ユーザーに届ける手段として、電波による放送の代わりにCD-ROMという形をとったに過ぎません。3DOはTVゲームというものを、マルチメディア普及のための踏み台にしようとしていたわけです。松下はMSXパソコンをその最期、3DOを手掛ける直前までまる10年近くやっていたので、けしてゲーム業界の新参者ではありませんでした。米3DO社のボス、トリップ・ホーキンスはEAの創業者だし、その友人で3DOジャパンを立ち上げた小玉章文氏は「シムシティ」を日本に持ち込んだ人。別に素人集団ではなかったんですよ。にもかかわらずここまでボタンを掛け違えたのは、3DOがアメリカ発の(ゲーム機とは違う)新ジャンルのハードであり、ゆくゆくはビデオデッキに取って代わるという「未知の大型商品」だったからに他なりません。
そんな気負いの空回りもあって、フタを開ける前から3DOはハードの価格からソフトのコピー対策までやることなすこと地雷を踏みまくり、迷走を続けます。それを反面教師にして伸びていったのがプレイステーションです。SCEに3DOと同じ野望がなかったはずがありません。しかし彼等はポーカーフェイスを通し、ゲーム屋として振る舞いました。任天堂との兼ね合いで流通面で独自の路線を取ったりもしましたが、マルチメディアには近寄りませんでした。結局、そのポーカーフェイスを通している間、SCEの栄光は続いたと思います。つまり、PSXを出すまでは。
ちなみにセガは良くも悪くも両者の中間のスタンスを取り続けました。結局、そのどっち付かずさがハード屋として命取りになったんじゃないかと思います。
そして今、当時3DOがやろうとしていた事を体現しているのは、本来一番遠いところにいるはずだった任天堂のWiiだったりします。何のことはありません、結局みんな3DOになりたかったのです。先駆者3DOが泥をかぶって開けた突破口から、彼等は道を拓いてきたのです。現代のゲーム機は形はどうあれ、32bit機史上最初の敗者3DOが掲げた思想の影響下にあるわけです。みんな未来の野次馬なんですよ。
……という、踏み台にするつもりが逆に踏み台にされてしまった話でした。セガやパナソニックが再びハードを出せば業界が活性化するんじゃないかという意見がありますが、そうは思いません。撤退したメーカーはみな消えるべくして消えたのです。また、コンピューターゲームという娯楽自体、太く短い歴史を歩むタイプのものだと思います。たかだか数十年で勃興したジャンルは、衰えるペースもまたそれなりだということです。