釈迦が霊の存在を否定したのは残念でなりません。 釈迦がおかした唯一の誤りと言ってもいいのではないでしょうか?

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

とても分かりやすかったです。

お礼日時:2007/7/19 12:22

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他の人も書いている通り、ゴータマ(仏陀)のとった姿勢は霊の存在を否定も肯定もしていません。 正確にいうと「否定か、肯定か」という二者択一、「そのどちらも」「そのどちらでもない」をも”否定”しています。完全に疑問から離れた状態です。 それでこそ心の平静が保てるとしています。 ちなみに彼は、悟りを得てからも、教えを伝道するか迷ったり、最初の異教徒の説得に失敗したりしています。年を重ねるごとに成長し、「変化しないものはない」を身をもって教えているかのようです。最初から完璧な人間などいません。また、神格化する逸話がありますが、彼が我々と同じ人間でなかったら、その法話は説得力を失い、これほど長い期間多くの人に影響を与えはしなかったでしょう。

私が思うに否定はしてないと思います。法華経のなかに<何品か忘れました。>34の非ずという形 で表してあります。其の身有でもなく、無でもなく・・・と続きますが生命を表現しずらい物として説明 しております。つまり霊という言葉では表現していないだけなのです。突き詰めると際限がないので この辺しておきますが、否定ではありません。

なが~~~く、難しい回答された方もいますが、釈迦は「否定」していた訳でもありません。 経典によると、釈迦は死後の生存(霊)や宇宙の果てなどに関して、弟子達に質問を受けると、黙って答えなかったといいます。 この態度を「無記」とか「捨置記(しゃちき)」といいます。 釈迦は、そのような形而上学的な質問は、現実生活の中に存在する我々の苦しみを解決するのに、なんの役にも立たないと考えたからなのです。 実際に霊が、存在しようがなかろうが、世の中に必要不可欠な存在ではないと思いませんか。 それが釈迦の取った形です。 なお、大乗仏教や「空」が、まだ生まれる以前のお話です。

「霊」は、人により、相当な相異があるようですね。 人々は「人を別けて、選ぶ」と理解するのでしょう。 全ての人々を、慈しんでこそ、信仰を得られるもの。 お釈迦様は、平凡な人に理解できるよう説きます。 その必要で、非凡な人々の世界を拒んだだけです。 ただならぬ霊気で、新しい世界を築いた釈尊です。 天上天下唯我独尊は、霊が言わせたのでしょうね。

釈尊の悟りの根本ば空の教えにあります。 釈尊は原始経典の最古層に属する『サンユッタ・ニカーヤ』で、ことばによる実体の否定を説いていま す。 「名称で表現されるもののみを心の中に考えている人々は、名称で表現されるものの上にのみ立脚 している。名称で表現されるもの〔が偽りであると〕完全に理解しないならば、彼らは死の支配束縛 に陥る。」 言葉(理性)による思考の虚妄性を指摘しているわけですが、言葉により真理に到達することは不 可能であり、仏教におけることばの機能とは、直感により覚知した悟りを指し示すためにあると言えま す。一般大衆に対しては、ことばによる人生の導き、舎利弗等の有能な弟子に対しては深い宗教的 真理を説いたわけです。 釈尊は禅定の修行により、言葉の寂滅した心の深源に到達し、「自我に固執する見解を打ち破っ て、世界を空なりと観ぜよ。」(_『スッタニパータ』)と空の悟りを覚知したのです。このことは原始経典 の最古層に属する『サンユッタ・ニカーヤ』に龍樹の『中論』におけることばの虚構性の理論と同じ理 論が展開されていることからも明らかなところです。 霊魂不滅の教えは永遠に変化しない不滅の実体である我というものがあるという立場であり、それ は空の教えに反するものであり、否定されるべきものだったのです。 釈尊は永遠不滅の実体としての我ではなく、空性における識による輪廻転生を説いたわけです。 深層心(識)とは刹那刹那、生じては滅し、滅しては生じています。それは五感、意識の作用という 縁により生じる、縁起的な存在であり空性に貫かれた存在です。この一瞬も変化してやまない刹那 滅の連続体であるこころの深層における識が三世に渡り存続し、業の基体となるのです。この識は 後に唯識思想においてより精緻に分析されるようになります。 自我の執着による虚妄な見解でもある我の基づく霊魂の不滅でななく、空性の悟りによる真実 の輪廻転生を説いたのです。これが釈尊のお言葉であることは、空の聖者である龍樹が輪廻転生 を積極的に語っていることからも明らかであると思います。 しかし、同じ『サンユッタ・ニカーヤ』に「じつに、比丘たちよ。未来世において比丘たちは、このようにな るであろう。如来の説かれたそれらの教典は深遠であり、意味深く、世間を超え、空性に属するもの である。それらが説かれるときに〔比丘たちは〕よく聞かないであろう。耳を傾けず、さとろうとする心を 起こさないであろう。」と説かれたように、空の悟りは大乗仏教の祖、龍樹菩薩の出現するまで全く 無視されていました。 また原始経典に説かれた「清浄なるこころの本性」という釈尊の空の悟りにおける、その時のこころそ のものも、龍樹により初めて明らかになったのです(般若経で説かれる「光り輝くこころ」)。それは如 来蔵思想における仏性の教えでもあります。 http://homepage1.nifty.com/manikana/essay/reincarnation.html http://homepage1.nifty.com/manikana/essay/reincarnation2.html ■釈尊の空の悟りについて 『スッタニパータ』、『サンユッタ・ニカーヤ』に説かれた空の教えは原始経典最古層にあるもので、釈 尊の悟りが空にあったことは明らかです。龍樹は釈尊の悟りを追体験したのです。(『空入門』梶山 雄一著 春秋社) 空とは我の常住の否定(無我)であり、釈尊が空を説かれたことは我の常住に基づく霊魂不滅の思 想を否定したことを意味しています。釈尊の取られた十四無記の態度は中道の教えを宣揚するため であり、その中道の教えの要は空無我、空性の悟りによる縁起の教えにあったのです。 無記の態度が永遠不滅の霊魂を否定してるのではなく、空(縁起)の教え→不滅の霊魂の否定 なのです。 空(縁起)とは自性がないこと、変化してやまないこと、他によらずそれ自体単独で永遠に存在す るものは何もないということです。空の教えの宣揚により、常住なる我の永遠不滅を説くウパニシャッ ド外道の教えは完全に否定されました。 『アングラッタ・ニカーヤ』の中で、無記によって「語られない」見解とは、釈尊が他説として「了解した 論議」であったことを明かしています。釈尊は自分が語らないものについても「一切を知る知者」であ ったことを自ら語っています。 十四無記とは形而上学的な思惟にかかずらうことよりは、現実問題を解決するための瞑想と直感の 修行が大切であったのであり、それは空性を本性とする識(深層心)の三世における相続を否定し たものではないのです。それは原始経典において明確に説かれているのです。 また、法華経に説かれている地涌の菩薩の涌出等は化生(胎生、卵生、湿生、化生の四生のうち のひとつ)というひとつの転生のあり方で、霊魂ではありません。