【転載】宮城資料ネット・ニュース98号(2011年3月27日)

宮城資料ネット事務局から、首都圏ネットMLに投稿していただいた記事を転載します。
皆様のご活動に頭が下がります。

地図(転載許可をいただきました。ありがとうございます)の位置は、
添付していただいたWord版を基にブログ管理者が入れました。
本ブログはなるべくデータ量を軽くして、携帯からでもアクセスしやすいように
メール本文を転載させていただいております。

宮城歴史資料保全ネットワークHPは
http://www.miyagi-shiryounet.org/

※更新情報(3/27 20:52):文末が見づらかった(一部文字が欠損)ので、適宜改行しております。
見づらい等は対応しますので、コメント欄にご意見をお願いします。

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宮城資料ネット・ニュース98号(2011年3月27日)

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東北・関東大震災
津波浸水域図を見て

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 宮城資料ネットの平川新です。


■津波浸水域図を見て
 2年ほど前に、仙台の南にある岩沼市の阿武隈川氾濫ハザードマップの浸水予想図を
眺めていて気がついたことがあります。岩沼市には奥州街道の岩沼宿がありましたが、
同街道の道筋と岩沼宿の部分は、周辺に比べて浸水度が低い色に塗り分けられていたの
です。これを見て宿場や街道は、浸水しにくい地形を意図的に選んで設計されているの
ではないかと感じておりました。そうした目で各地の宿場や街道、城下町などの地形・
立地などをとらえなおしてみると、なぜその場所を選んだのかについて、新たな知見が
得られないだろうかとも考えておりました。


 このたびの大津波の被害地域を把握するために、資料ネットスタッフの蝦名裕一さん
が津波浸水域図(宮城資料ネットHPにアップ)を作成してくれたのですが、これを
皆で眺めていて、2年前と同様の印象を抱きました。


 2枚の地図は、名取市・岩沼市および、さらに南の亘理町・山元町の津波浸水域図
です(拡大版はHP版を御覧ください)。国道4号線が仙台から南に向かって名取・
岩沼を通り、阿武隈川に行き当たるところから街道は西と南に分岐しています。西に
折れて白石に向かう道筋が奥州街道(国道4号)で、南に走っているのが浜街道
(国道6号)です。バイパスもありますので現在の国道と江戸時代の道筋とはズレた
ところもありますが、旧道のおおよそのルートを反映しています。


 旧道は阿武隈山地に沿うように走っています。奥州街道の宿場としては長町宿、
中田宿、増田宿(名取市)、岩沼宿があり、浜街道では亘理宿、山下宿(山元町)が
ありました。これらの地域を津波浸水域図で見てみると、宿場と街道のほとんどは
津波の浸水域からズレていることがわかります。こうした事実を前にすると、
江戸時代の街道は平場でも山裾に沿っているところが多いという一般的な理解で
済ますことはできないのではないか、と思われるのです。平常時には気がつかなかっ
たのですが、あたかも大津波を想定して宿立ての場所や街道の道筋を選んだのでは
ないか、とすら考えたくなります。



 
 奥州では慶長16年(1611年12月2日)に地震があり、大津波が発生しています。仙台
領内の死者1783人、盛岡藩や津軽藩の沿岸部でも多数の犠牲者が出たとされています。
それからちょうど400年目の今年、またしても3万人をこえる津波の犠牲者を出した
のでした。


 建物が大破した研究室には入れず、図書が散乱した大学図書館も利用不可ですの
で、浜街道の亘理宿や山下宿の開設時期までは調べることができません。しかし奥州
街道のうち、中田宿、増田宿、岩沼宿は慶長15年(1610)段階にはすでに存在していた
とされています。そうであれば、宿立てのあとに慶長津波が襲ったことになります。
同津波の浸水域は不明ですが、もし当初から現在地に宿立てされたのだとすれば、
見事なほどに大津波の被害を免れる場所を選び、街道をつくったといわざるをえま
せん。


 現在私たちは、これらの宿場は最初からこの地にあったと考えていますが、この
津波浸水域図を眺めていると、あるいは別な可能性も想定しておくべきかもしれま
せん。つまり慶長の大津波を経験したことによって、宿場や街道が、津波の到達し
にくい、より山沿いに移動した、という可能性についてです。検討してみる価値は
十分にありそうです。


 3月23日の東京新聞Web版に、福島原発を設計した東芝の元社員の驚くべき証言
が記載されています。元社員はマグニチュード9を想定して設計するよう進言した
が、上司は「千年に一度とか、そんなことを想定してどうなる」と一笑に付した
ということです。


 四百年前の地震は慶長の大津波を引き起こして多大な犠牲者を出し、千年前の
貞観津波(869年)では陸奥国府のあった多賀城まで押し寄せて「溺死者千許」に
及ぶ犠牲者を出しています。東芝の上司の発言は、そうした歴史の経験を完全に無視
したものでした。福島原発設置からわずか40年にして、その「千年に一度」の大災害
に見舞われてしまったのです。歴史を無視した結果、多くの人々の生命が重大な危機
にさらされてしまうことになってしまいました。これを大人災、大不祥事といわずして
何というのでしょうか。


 先に紹介したように、江戸時代の宿場や街道には今回の大津波も到達しません
でした。そうした立地をみると、過去の先人のほうが、よほど歴史の教訓を活かして
いるのではないかと思わざるをえません。

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