暁美ほむらの周辺


【俺の】まどか☆マギカの全容【理解】
http://d.hatena.ne.jp/yaneurao/20110418


↑で、ざっと魔法少女まどか☆マギカのあらすじを書いて、おおむね高評価だったのだけど、twitterでこんな意見をいただいた。



これは全くその通りで、最終話を見終わった直後は、暁美ほむらという存在が何であったのか、私のなかでも考えがまとまりきっていなかった。


私は10話を見た時点では、暁美ほむらはTAS動画のように何度もやりなおすことによって最適解に到達するのかと想像していた。*1


しかし11話、12話は全く予想外の結末だった。


暁美ほむらは、同じ時間を何度もやりなおした。それは、何度もやりなおすことで解を見つけるという旅ではなく、永遠の回帰のなかで自己を肯定できるかという試練だった。



ニーチェの永劫回帰思想になぞらえて言えば、彼女はニーチェが『ツァラトゥストラかく語りき』で書いた超人になろうとした。



しかしニーチェを引き合いに出すと途端に話がややこしくなる。そもそもツァラトゥストラだなんて、読みにくいし発音しにくい。「タラツストラ」でもいいと思う。いやもっと単純に「タラちゃん」ぐらいでいいと思う。


あと私は「かく語りき」もなんか文語くさくて好きになれない。「こう言ってはった」とか「こないゆうとった」とかそんな程度でいいんだよ。「タラちゃんは、こないゆうとった。」おお、これだ!


それから「永劫回帰」って訳語も小難しくていかんよね。最近は「永遠回帰」って訳する人もいるみたいだけど。



それでさ、もうフランクに言っちゃうけど、ニーチェは「タラちゃんは、こないゆうとった。」のなかで、タラちゃんは、世界が同じ時間を何度も繰り返してるんちゃうかと思うわけ。何度も繰り返してるとして、「それでもいまここにこうしていたいのか?」って自分に問うわけ。そして答える。「おお、それでも俺はこうしていたいぜ!」って。


例えば目が見えない女の子が居るとしてさ、彼女がいまの人生を目が見える自分としてやりなおしたいと望んでいるかというと、たいていはそうじゃないと思うんだよね。目が見えないことによって知り合えた人たちだっているんだし、「目が見える(いまと違った)自分をやりなおす」ってのは、つまりそういう人たちと知り合えたいまの自分の否定につながるわけ。


つまり、永劫回帰ってのを認めることは、いま生きていることへの最大の肯定であり、生きるってことをおろそかにしない心の強い人にのみ背負うことの出来る境地なのね。この「心の強い人」をタラちゃんは超人と呼んだわけ。おお、我ながらなんてわかりやすい説明なんだ!



しかしさ、俺に言わせれば、本当に永劫回帰ってのがあるとしても、生まれ直してくるごとに記憶がリセットされているわけでさ、「記憶がリセットされている限りは別にいいじゃん」って思っちゃうんだよね。仮に物凄く辛いことがあったとしても、それは記憶がリセットされてからは一度目の体験にすぎないじゃん。なのに、その辛いことを永遠に繰り返して、何度も(いや、無限に!)、辛い体験だけがやってくるかのように言うのはとんでもない詐術じゃねぇのかと。


その意味において、暁美ほむらをニーチェの言う超人になぞらえる批評には無理があると思うんだよ。お前、ニーチェとかツァラトゥストラとか言いたいだけちゃうんかと。


だから、ここではもうちょっと別の角度から見て行くことにするよ。


まどかマギカはゲーテの『ファウスト』から着想を得ている。悪魔と契約だとか、「ワルプルギスの夜」だとか、そういう部分な。作中でビルに書かれていた文字も『ファウスト』からの引用だ。



まどかマギカに出てくる魔法少女も肉体はもはや魂の抜け殻だという点において人工生命体ホムンクルス(『ファウスト』にも第二部第二幕に出てくる)なのかも知れない。デカルト的な心身二元論なのかも知れないけども。


また、10話に出てくるまどかの魔女名KRIEMHILD GRETCHEN(クリームヒルト=グレートヒェン)のGRETCHENは、ファウストの恋人役である「マルガレーテ」(Margarete)の愛称として知られる。


まあ、そういう部分にはゲーテの『ファウスト』と関連させて読み取ってね、という作り手の露骨な意志を感じる。しかし、そういうネタバレ的な考察をいくら積み重ねたところで、暁美ほむらの感じた孤独が理解できるとは私には思えない。これは、作り手が自覚してるかどうかは知らないけど、彼女の孤独はそういうのとは違うんだよ。そういうのとは!


暁美ほむらがニーチェの言う超人や、ファウストの主人公と違うところは、実質的に不老不死だってことだ。どちらかと言うと、これは手塚治虫の『火の鳥』に出てくる、火の鳥の生き血をすすって不老不死になった男が感じるであろう孤独に近い。


だからここでは、彼女の孤独を別の角度から捉え直してそれをもって、この考察を終えたい。



何度も同じ時間をやり直すことによって彼女は非常に長く生き続けたと言えるだろう。
彼女はまどかを救うためにならどんなこともしたし、彼女は誰よりも勤勉だったと思う。


第10話で暁美ほむらが解けなかった数学の問題。

問題:
pは素数、nは任意の自然数とします。
(1+n)p−np−1がpで割りきれることを証明してください。

(1+n)pの部分を二項定理で展開して、-np-1の項を消してからcombinationの定義に立ち戻ればpで割り切れることは言える。あるいは、フェルマーの小定理を使えば一発。まあ、数学の得意な人にはわけないだろうけど、中堅クラスの大学入試レベルの問題だろう。忘れてはならないのは、暁美ほむらは中学二年生だということだ。ホワイトボードの前で考えて解くにはこの問題はあまりに難しすぎる。


しかし、この問題を第1話では暁美ほむら自身が解いている。同じ時間をやり直すことによって学習したのだろう。同じく第1話で暁美ほむらが解いていた直前の問題は、早稲田大学商学部2006年度の問題だ。(次図)



これを暁美ほむらはこの問題を何度も見て知っているかのごとく最短距離で解く。(次図)



数学が得意な人にはわかるだろうけど、この暁美ほむらの解答は試行錯誤しながら解いたときの解答では決してない。*2 いろんな手順で何度も解答に辿りつきながら、その解答から逆算された、いわばこの問題についていくつもの解答手順まで熟知している者の解答なのだ。


また第9話に出てきた数学の問題はフィボナッチ数列を使ったもので、これは実は1992年の東大文系の入試問題だ。(次図)



作中で指名された生徒はホワイトボードの前であっさり解答している。(次図) *3



この世界の中学生は数学教育がとても進んでいると言えるかも知れないが、それだけではなく、やはり暁美ほむらは同じ時間を何度も繰り返し、そして勉強熱心だったからこそ辿りつけたのだと思う。


そんな暁美ほむらにとって弾道を計算することなんてわけなかった。


http://twitpic.com/4og8at


中学二年生が弾道を計算できるようになるまでにどれほどの努力が必要なのかと想像をすると目頭が熱くなる。


彼女は何度も同じ時間を繰り返し、実質的に不老不死となり、永遠の回帰のなかで自己を肯定できるかという試練に耐え、まどかのために頑張ってきたのだ。


そしてついには暁美ほむらは、心が折れてしまうのだが、そこまでの彼女の頑張りを知っていれば、誰も彼女を責めることは出来やしないと思う。


私に言わせれば、ニーチェの言う超人は超人でも何でもない。記憶がリセットされるのだから、永遠に回帰しようが、どうってことないはずだ。


真に辛いのは記憶がリセットされないタイプの永劫回帰なのだ。それも暁美ほむらのようにワルプルギスの夜と戦うというような明確な目的性を持っていて、自分は無力かも知れないという絶望感を抱いており、それでいて、まどかのような護りたい存在が居る場合だ。


一言で言うなら、暁美ほむらはよくやった。そして、まどかは、ほむらが自分のために何をしてくれたのかそのすべてを知る手段は持ちあわせて無かったけども、その人柄に触れ、自分のためにしてくれたであろうことを想像し、彼女の優しさを理解したとき、最大限の誠意で(自分の命と引き換えにして)それに応えた。つまり、そういうアニメなんだよ、これは。


「あけみほむら」を縦書きにして、左半分を隠すと「カナメまどか」の文字が浮かび上がる(次図)のは単なる偶然ではないと私は思う。暁美ほむらのなかで(そしてみんなの心のなかで)鹿目まどかはいまも確かに生きているのだから。


*1: 同じ時間を何度もやり直す http://d.hatena.ne.jp/yaneurao/20110325

*2:普通はオーソドックスにfの分母を有理化できるか試したり、Xn = sqrt(2n+1) , Yn = sqrt(2n-1)と置いてから(X+Y)(X-Y)とかXn・Yn計算したりしているうちに解法に気づくというか…。

*3:ただし、「フィボナッチ数列」というヒントが大きすぎて、解答自体は比較的簡単。Xnのなかの0の個数をAn,1の個数をBnとでもおけば瞬殺。