平野啓一郎さんの「巧みに生きるか、善く生きるか」を巡って

平野さんの公式ブログの最新エントリー「巧みに生きるか、善く生きるか、……」(是非全文読んで考えてみてほしい)
http://d.hatena.ne.jp/keiichirohirano/20070121
を巡って思ったことをちょっと書いてみる。

ウェブ人間論』の対談をしていた時にも考えていたことですが、人間は、自分の属している社会のシステムと否応なくつきあいながらどうにかこうにか生きているわけですが、そこで、「巧みに、うまく」生きているだけでは、結局のところ、満たされないんじゃないかという気がします。それは直接には、僕自身を振り返ってみてのことですね。

巧みに生きる、ということについて言えば、梅田さんがいみじくも「サバイヴする」という言葉で表現したように、今の社会は、ノンキに関わって生きていこうとするためには、複雑になりすぎているんだと思います。ITに関してもそうだし、経済にしてもそう。もちろん、対人関係も。
充実した人生を送るためには、まず、生きるということに関して「技術的に巧み」でなければならない。生きること自体の技術的難易度がものすごく上がってしまっている。そうすると、そのことが自己目的化して、「より巧みに」という競争が生じるわけです。その結果、一方では巨万の富を得る人が出るし、他方では引きこもりになる人が出る。
もちろん、そういうことは、いつの時代にもあったんだろうと思いますが、実感として今の世の中に対してすごくそれを感じますね。

彼のこの問題意識は、「ウェブ人間論」の「おわりに」
http://www.shinchosha.co.jp/wadainohon/610193/afterword.html
で、僕がこう書いたことと深く関連する。

たとえば、平野さんは「社会がよりよき方向に向かうために、個は何ができるか、何をすべきか」と思考する人である。まじめな人なんだなあと、話せば話すほど思った。
 その点に関して言えば、私はむしろ「社会変化とは否応もなく巨大であるゆえ、変化は不可避との前提で、個はいかにサバイバルすべきか」を最優先に考える。社会をどうこうとか考える前に、個がしたたかに生きのびられなければ何も始まらないではないか、そう考えがちだ。

このブログ・エントリーの中で平野さんはこう書く。

極単純な例で言えば、あまり尊敬できない方法で金持ちになっている人を見る時に、社会が感じる反発の中身は、この人は、今の世の中を、確かに巧みには生きているけど、善く生きてはいない、といったものでしょう。

そしてこう書かれる背景に、「上手に生きてきた」「巧みには生きている」自分自身についてのこんな省察がある。

僕は、これまでの人生で、結構「上手に」生きてきたなという感じがしています。経歴からしてもそうですし、対人関係についても、総じてそれほどのトラブルもなく過ごしてきました。別に、そのために権謀術数を巡らせて、人を欺してきたわけでもなんでもないんですけど、そうだとしても、というか、多分そうだからこそ、何かの拍子に、自分は巧みには生きている、けれども、善く生きているんだろうかという疑問に深刻に見舞われる瞬間が、どうしてもあります。

だとすれば、僕と平野さんの考え方の間に、対談のときに感じたほどの大きな違いは、それほどないのかもしれないなと思った。
若い人たちを見ていて僕はいつも、とにかく生きのびてくれよ、とんでもないことも色々あるこの世の中で何とかサバイバルしてくれよ、といつも願う。気がついたら放り込まれていたこの世の中で「サバイブすること」こそがとりあえず最初に大切で、「善く生きる」のはサバイブしてかなり余裕が出てからでいい、と僕はあえて言い切ってしまおうといつも思っている。そう言い切ることによって生まれる誤解についての責任は引き受けようとも思う。自分だって、後悔しつつもそう生きて来ざるを得なかったわけだし、平野さんが言うように「今の社会は、ノンキに関わって生きていこうとするためには、複雑になりすぎている」からだ。
ただ、最低限何とかサバイブできたあと、人生のある時期以降は「善く生きる」ことを強く意識したい。そういう時間軸の概念を明確に入れて、「巧みに生きるか、善く生きるか」を考えていきたいと思う。ただ「巧みに生きるか、善く生きるか」を全く別の概念として切り分けて二分法的に考えないほうがいい。この二つはかなりの部分で重なり合ったものだからだ。ただ、ギリギリで優先度をつけなければならない局面では「巧みに生きて、サバイブするほうを最優先にすべきだ」と僕は思う。特に、まだ何者にもなれていない若いときには。
「「巧みに、うまく」生きているだけでは、結局のところ、満たされないんじゃないか」と思う段階をできるだけ早く持てれば、それは人生トータルで「善く生きる」ということになるのではないか。まじめな若い人ほど、そう少しいい加減に考えてでも、生きのびてほしい、と僕はいつも願う。