論評から10000光年 または彼らは如何にして論評するのを止めて優越感ゲームを愛するようになったか
序
事の発端はお盆前にアップされた1本のエントリ「『プラネテス』のポリティカ その2 - 猿虎日記(さるとらにっき)」から始まる。このエントリは前記事・続記事と合わせて反響を呼び、「プラネテス論争」正確には「ロックスミス論争」とも言うべき状態に発展している。
id:sarutora氏の一連のエントリは、ハチマキのナイーブさから入り、それが次第にロックスミス批判へ、さらにはトリアージ批判・ネオリベ批判と展開されていく様に、苦笑しながらも興味深く*1読ませて貰った。しかし先日id:toruot氏により「toruotの日記」がアップされたに当り、流石にそれはないだろうと反論をものすことにした。
ロックスミス論争
ロックスミスのキャラクター描写に関しては賛否あれど概ねコンセンサスが取れているとしていいだろう。
有能で傲慢、悪魔のようであり且グスコーブドリのようでもある人物。
作中のロックスミスはその悪魔性のみが描かれているのではない。それゆえロックスミスを一言で語るのは大変難しい。
が、ひとつ便利な言葉を思い出した。ロックスミスのような人物を評するに相応しい、忘れられて久しい言葉。
彼はモヒカン族なのである。
ロックスミスに対して、ある人は
最悪な いやな大人
『プラネテス』のポリティカ その2 - 猿虎日記(さるとらにっき)
と評し、またある人は
男の子で、アーティストなんだよ
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20090817/p2
あるいは
ロックスミスは「大人」じゃなくて「理系」、「科学者/技術者」の一つの理想的な姿、極点じゃないかな。マッドサイエンティスト*2
http://b.hatena.ne.jp/monono/20090810#bookmark-15228838
など、さまざまに論評されている。これらはどれも間違っていないし、かといって正解でもない。人の行う人物評は自己の投影でしかないからだ。*3
とはいえ、繰り返しになるが、作中のロックスミスはその悪魔性のみが描かれているのではない。その部分をどう捉えるか。
僕は、モヒカン族のロックスミスとて心が倦む瞬間があるのだと捉えた。それは何を意味するのか。
ロックスミスはストーリー上のキーパーソンであり*4、エキセントリックな人として描かれてはいるが、彼もまたただの人間なのだ。特別ではない、普通の。
僕は今回のロックスミス論争は、モヒカン族を取り巻くメタモヒカン族とムラビトの抗争として捉えている*5。根本的に異なる価値観が対立軸なのだから永久に結論は出ない。しかし、議論がロックスミス論あるいはロックスミス的人物論の範疇にある間は、対立は対立としてそこに在れば良いと思う。
しかし議論はロックスミスを離れあらぬ方向へ深化する。
「プラネテスのポリティカ その3」における飛躍
sarutora氏のプラネテスのポリティカ その3は、前エントリに寄せられたBW氏のコメントを引くところから始まる。引用されたのはコメントの内のわずかワンセンテンスである。
BW氏はそのコメントの中でsarutora氏のロックスミス評の根本的な欠陥*6を指摘しているのだが、その部分は見事に黙殺され、むしろ議論が飛躍するスプリングボードとして利用されてしまっている*7。
sarutora氏曰く、「ロジックの反転が行われている」。
この「ロジックの反転」を行うのは誰か?それは作者ではない。読者である。ロジックの反転を論ずることはつまり、読者を論ずることに他ならない。ここに来てsarutora氏のロックスミス論は作品から完全な乖離をしているのである。
これマンガ批評と言うより、宮台真司あたりが社会批評の一環としてやるような「マンガ批評芸」だと思う。
http://b.hatena.ne.jp/y_arim/20090821#bookmark-15333681
ありむーのブコメは的確だ。マンガは既に方便へと化している。論評は10000光年の彼方、である。
sarutora氏の誤謬
少しプラネテス論をしよう。
大きな犯罪に、それを超える「大きなもの」や「高みからの視点」が対置されることにより、犯罪そのものが相対化されます。『プラネテス』においても、ロックスミスは作中で「悪魔」といわれていたり、「ヤマガタは私が殺した」と罪を認めているようにも見えますが、しかし、こうした「大きなもの」や「高みからの視点」がつねに背景にみえかくれすることによって、結局、殺したものとしてのロックスミスの具体的な責任は相対化され、矮小化されています。
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20090814/p1
sarutora氏は、ロックスミスの背後にみえかくれする「大きなもの」や「高みからの視点」のことを「みんなの幸せ」「人類の幸福」と書かれた空箱のようなものであるとみなしているようだ。空虚なハッタリであると。だがそれは誤りだ。
ロックスミスを相対化するものは宇宙そのものなのだ。
ロックスミスが「君のその愛が彼の心をとらえた事などないのだよ」と言い放ったとき、彼の後ろには星空が広がっていた。
作品のラスト、ハチマキのスピーチの言葉はやはり星空に浮かんでいた。
相対化されているのはロックスミスだけではない。ハチマキの悟りもタナベの愛もユーリの思い出もフィーの葛藤もゴローも男爵もサンダースも何もかもが相対化されているのだ。宇宙を前にしては、どれもこれも大差のないものとして。
『プラネテス』は人の物語ではない。それが描き出すのは宇宙そのものであり、こういう作品をハードSFと呼ぶ*8。
ハードSFの作品のキャラクターから作品そのものに対しての主観的な読み解きを加えるのは大間違いだ。なぜならキャラクターはその世界を構成する要素のひとつでしかない。
はてサの自縄自縛 あるいは援護射撃のつもりが味方に当たってしまったでござるの巻
前の段落ではロックスミスのみを取り上げて『プラネテス』全体を論ずるのは誤りであると書いた。しかし、ロックスミスを通じて行う社会批評までを否定するつもりはない。本筋をそちらへ持って行くのならば、タイトルを「プラネテスのポリティカ」ではなく「ロックスミスに心惹かれる者たちに共通するポリティカ」とするべきだとは思うが、sarutora氏の論評自体は賛否はともかく存在してしかるべきだ。
だが、id:toruot氏の「toruotの日記」はいただけない。
まずはおさらい。
二種類の人間
(a) 宇宙開発のことをわかってないあいつら
(b) 宇宙開発のことをわかっている私たち
を用意しまして。んで、
(a)に対して(b)が説教かましてキモチイイ
というのが、「プラネテス」のやっていることです。
わかってないマスコミや遺族(a)に対して、わかっているロックスミス(b)が宇宙開発の何たるかを教えてやる、という構図。
「プラネテス」ファンは、もちろん宇宙開発についてわかっている(つもりの)人たちですから、作中の(b)の人に感情移入していて、作中で(a)の人がヘコまされているを見てキモチイイわけですね。
(ちなみに、(a)に説教しているから(b)は宇宙開発のことがわかっている、(a)に説教しているから(b)の方が偉い、ということにされているだけです。本当に(b)は宇宙開発のことが分かっているのか、とか、本当に(b)の方が偉いのか、というような問いは、存在しません。(b)の人はこれといった根拠もなくわかったようなツラをしているのです。)
toruotの日記
今回、id:sarutoraさんのエントリに対しての反論のなかに、「わかってない」というものがあります。曰く、「宇宙開発がわかってない」、「SFがわかってない」、「理系がわかってない」、「アーティストがわかってない」と。
しかしこれはまったく反論になっていません。
なぜなら、この反論のロジックは、sarutoraさんを
(a) わかってない人
とみなし、いっぽう自分を
(b) わかっている人
とみなして、んで、(a)に対して(b)が説教かましてキモチイイ、というものだからです。ようするに「プラネテス」と同じロジックです。
「プラネテス」で用いられているロジックを批判しているエントリに対して、当の批判されているロジックを用いて反論しても意味がありません。こう再反論されるだけでしょう、「だからそういうロジックでキモチよくなっちゃってていいのかな、と言ったんだけど」。
今回、「わかってない」系の反論が噴出したということが、むしろsarutoraさんの読みが正しかったことを証明しているような気がします。
toruotの日記
引用前半部分の認識も間違っているし*9、後半部分のロジックはそのままsarutora氏やtoruot氏の論評を批判するのに使える素晴らしき自縄自縛である。バカじゃないの、このピース・ウォリアーズめ。
そして何より、どうして敵も味方もまとめて愚劣極まる優越感ゲームに引きずり込むような真似をするのだろうか。id:toruot氏やid:noharra氏は優越感ゲームが大好きなのかもしれないが、それを求めていないはてサだっているだろうに*10。
マンガ批評はいつの間にやら優越感ゲームになっていた。そっちに行っちゃダメなんだよ!
サンダース大佐の皆さんへ
sarutora氏や彼に同調する皆さんはサンダース大佐についてどう思いますか?ロックスミス論だけではなくサンダース論も聞かせてもらいたいところであります。
あまり関係ないことかもしれませんが、僕はsarutora氏はきっと黒ブチメガネに白ヒゲなんだと思っています。
*1:失礼を承知言えば、珍獣を見る視線であったけれど
*2:ロックスミス≒モヒカン族という評価は、id:monono氏のそれに比較的近いかもしれない。
*3:だから
「ステレオタイプを見出だすのは自分が見出だしたいから。」
(http://b.hatena.ne.jp/Darbar/20090809#bookmark-15228838)
は正しい。これを否定することはポリティクス・フリーな批評の存在を認めることにつながる。それは、はてサにとっては自己否定に他ならない。
*4:それでいてロックスミスが主人公であるハチマキと絡むシーンがほとんどないことは『プラネテス』の構造を読み解く上で重要な点だ。
*5:sarutora氏はロックスミスがカナを侮辱したと述べているが、これは正にモヒカン族の態度をムラビトが批判する構図そのものだ。
*6:もちろんsarutora氏の論に組しない側から見てのものであるが。
*7:このやり口は汚い。
*8:幸村誠はSF者とは思えないので、『プラネテス』がハードSFになったのは結果的なものだろう。
*9:少なくとも僕にはsarutora氏の論評はそのようには読めない。
*10:sarutora氏のブコメ(http://b.hatena.ne.jp/sarutora/20090823#bookmark-15475407)を見る限りでは、彼自身は優越感ゲームを嫌っていないようだが。