OPEN シューティング・ゲーム

現在構築中の秘密の大規模中継通信網「OPEN ネットワーク」 (http://www.open.ad.jp/) の大公開まであとわずか!


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電話設備に迫り来る巨大帝国軍の恐い恐い「電話モンスター鳥」を、我らがアヒル・ボートから弾を十分に発射して撃退!!


OPEN シューティング・ゲーム
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※ JavaScript で動作します。マウス操作だけです。Chrome がお勧めです。IE、Firefox だと遅いです。
※ 私が作った訳ではないのでよくわからないのですが、「Type Script」という JavaScript の拡張言語のようなものを使って書いてあるそうです。

AC とは何ぞや

AC が「うちのアパートは電気代がかかるが、水道は使い放題だから、水力発電をして電気を賄おうと思う」といった類のおかしな事を言い出すのはなぜか? 最近 AC 懇親会に行ったので、AC についてよく考えてみた。AC とは何ぞや?「問題解決能力がある人」というのが筑波大学の公式の定義であるが、それではわかりにくい。AC の性質について考えると、AC は次の 2 つの条件を満たす場合が多い。条件とは、まず「自分の考えが正しいに決まっている」と信じていること、次にそれを実現するための技術力等の能力を無駄にたくさん持っていること、である。客観的に考えが間違っている場合でも、AC は正しいと信じて無駄に繰り返すので、副産物として異様に高度な経験やノウハウがたくさん貯まり、実装力をさらに身に付けることになるのである。AC とは、このようにして特定分野についての能力が異様に突出したおかしな人のことである。

普通の日本人は、たいていの場合、自分の考えにそれほど自信を持っていない。特にそれが周囲の人の考えと異なるとき、「自分の考えが間違っているのではないか」と自然に考える。ある程度自信があると思っている考えについても、せいぜい、「自分の考えが (たぶん) 正しいのではないか」という程度の強さである。この状態で周囲が反対意見を述べれば、すぐさま内省して「ああ残念、やっぱり間違いのようだ」というフラグに変わってしまう。そして、普通の人はたいていほとんどの物事について「若干の興味」がある。

一方、AC な人は、常に、頭の中ですべての物事を 2 分している。「興味が全くない物事」と、「大変興味があり、それに対して自分の考えが最初から正しいに決まっている物事」である。AC は自分が興味がない物事については特に意見をもたず、こだわることもしない。
一方、興味がある物事については、たいてい、何か確固たる考えがあり、それについて「自分の考えが正しいに *決まっている*」という異常に強い自信がある。何せ最初から「正しいに *決まっている*」のであるから、周囲が反対意見を述べたり、過去の慣習 (常識) を調査した結果自分のほうが非常識であることが分かったとしても、それは自説の修正の原因にはならない。「自分の考えが正しいに決まっている」から、必然的に、周囲の反対意見はすべて「間違っているに決まっている」ということになる。この点をみると、AC は周囲の意見や空気になじまない社会不適合者である。

なお、AC は、「自分の考えが正しいに決まっている」という考え方にはたいてい何らかの根拠があるが、場合によっては全く根拠の自覚なしに「正しいに決まっている」と決める場合もある。ただし実はそれは意識的には本人にとっても無根拠のように感じられるけれども、無意識的に、つまり過去に得た膨大な情報を脳で高速に処理した結果として出た結論として出た結論であることも多く、この場合は確かに根拠を言語化することはできないが、それでも本人にとっては「正しいに決まっている」と決めている。

そもそも AC が「自分の考えが正しいに決まっている」と考えるとき、人と議論するとき以外では、その正しさの根拠を内省して一々考えたりすることはあまりない。最初から「正しいに決まっている」のだから、内省する必要もないのである。

したがって、AC は過去の慣習や周囲の意見がいくらあっても、「自分の考えが正しいに決まっている」と考える状態を変えることはない。そして、AC が「自分の考えが正しいに決まっている」と考えることは、たいていは「厳密に考えれば間違いであるという訳ではないかも知れないけど、やっぱり常識的にはその考えはあり得ないよ」というようなことであることが多い。だから、常識的には間違いであっても、AC の言い分である「自分の考えが正しいに決まっている」は厳密に考えると大抵正しい。

AC としては「正しいに決まっている」と信じていても、落ち着いてどのように厳密に考えても客観的事実から見ると「正しくない」という結果になるような物事も存在する。このような場合、AC は実験結果などの客観的事実を見ると考えが変わり、「やはり間違っている可能性がある」と思うようになる場合もある。ただしこの場合も、一般の人は少しの客観的事実を見るだけですぐに考えが変わるが、AC は自説について大変強い考えを持っているので、いくらかの数の客観的事実を見ただけでは納得することはない。まず、必ず「そもそも、私のほうの考えが正しいに決まっているのだから、これらの実験結果はすべて間違っているに決まっている。」と考える。特に人が実験した結果は信用ならないので、自分で実験をしなければ気が済まない。自分で実験をして結果が自分に対して不利となった場合は、「実験に用いた部品が偶然不良品であったに決まっている」と考え、多数の部品を 10 個くらい買ってくる。それらすべてで自分に不利な結果になった場合は、「不良部品をまとめて 10 個買ったのではないか。別々の工場で製造された別の 10 ロットを買わなければならない」と疑うことになる。このプロセスを無駄に多数回繰り返して、ようやく、「やはり間違っていた可能性がある」と納得するのである。このような流れにかかる時間やコストは、常識から考えると、とても非合理的である。

上記だけでは、「自分の考えが正しいに決まっている」と無根拠に考える人は、単なる社会不適合者であるということになる。しかし AC には強力な武器がある。それは「目的を実現するための技術力等の能力を無駄にたくさん持っていること」である。これが、単なる社会不適合者と AC との違いである。単なる社会不適合者は、いわゆる「意識の高い人」である。「意識が高い」というのは、「相対的に、持っている能力に対して言っていることの意識が高い」という意味であり、意識だけが高くても能力がないか、能力を身につける努力が足らないかで留まれば、それは単なる社会不適合者である。

一方、AC は関心がある物事については極めて膨大な量の情報や経験を持っているので (そして不足している部分は何とかして補おうとするので)、その分野だけ、無駄に能力が高い。ただし人の過ごす時間は全員平等であるので、AC はたいていの場合、それ以外の無関心な分野についてはほとんど知識がないということになる。これは仕方がないことである。しかし、とにかく関心がある分野に関する実行力は並大抵のものではないから、「自分の考えが正しいに決まっている」という自説を証明するために、その実現能力を用いて、一般的な手法と比較すると 100 倍程度の労力を必要とするおかしな方法を用いてでも何とか作り上げてしまうのである。そのため、AC が「自分の考えが正しいに決まっている」と考えている説で、かつその説が「常識的には間違いまたはどう考えても非合理的だが、厳密に考えれば確かに正しいといえなくもない」場合は、AC は最終的には必ずそれを実現してしまう。AC にとって一番の喜びは、その結果を見て周囲の人が「これは頭がおかしい。確かにこのような非合理的なやり方であれば厳密にはできなくはないけど、普通の人は実装能力がないからこのやり方はまずあり得ない。」と驚いたり呆れたりする結果を見る瞬間である。

ごく稀に、どのように厳密に考えても客観的に間違い (不可能) であることを AC が正しいと信じて無駄に実装能力を発揮して実現しようと試みる場合もある。この場合は確かにどれだけ時間・コストをかけてもその物事は実現しない。ただし、もし普通の人が同じことをすればある程度の時間が経過したところで諦めるのであるが、AC は、「自分の考えが正しいに決まっている」と考えているので、成功するまで何度も反復的に繰り返す。この結果、たいていは意外な有益な副産物が生じる。何せ、絶対に成功しないことを何度も試みるのであるから、少しずつ違った手法を試していくうちに、まったく本来の目的とは無関係な有益な副産物やノウハウが手に入るのである。その副産物の蓄積量は、当然、無駄に試行した時間に応じて増えていく。本人にとって、副産物の蓄積量が、本来の目的の価値よりも高くなった場合は、AC は本来の目的はひとまず棚に上げて、得られた有益な副産物のほうを享受することになる。(なお、本来の目的はひとまず棚に上げているだけであり、「間違っていた」と考えている訳ではない。単に、「自分の考えが正しいに決まっているのだが、興味の対象を外れたので棚に上げておこう」と考えるのである。)

結論として、AC が何か変なことを言っていて、しかも「自分の考えが正しいに決まっている」と考えている時は、何を言っても無駄である。そしてたいていはその考えは厳密に考えると本当に正しい (ただし常識的に考えると非合理的であり無駄である) のだから、より AC 度の低い周囲の人がこれに反論して制止させることはできない。制止させようとする代わりに、適当に面白がって見ていれば、その AC は無駄に強力な実装力を用いて物事を実現させてしまうか、または途中で産出される副産物がもともとの目的を超えた時点でその副産物のほうに興味が移ることになる。いずれにせよ AC が AC な行動をすることは大変良い結果につながるので面白がって見ているのがよい。

Amazon Kindle Paperwhite には温度センサーが入っており、外気温によって画面全体のリフレッシュ間隔を調整している

Amazon Kindle Paperwhite を車の中などの低温環境にしばらく置いておいてから使用しようとすると、ページめくりの度に画面全体がリフレッシュされることに気付いた。
通常、Paperwhite ではページめくり 8 回程度に 1 回しか画面をリフレッシュ (すべての領域を黒で塗りつぶしてから消去すること) しない。しかし、低温環境の場合は毎回リフレッシュが発生するようだ。しばらく暖かい場所で使っていると元に戻るので、中に温度センサーか何かが入っていて温度をチェックし、リフレッシュ間隔を調整しているのかも知れない。

Amazon Kindle Paperwhite 2013 年モデルは大変快適

Amazon Kindle Paperwhite 2013 年モデル (3G 版) が届いた。

昨年発売された Amazon Kindle Paperwhite 2012 年モデルと比較して、2013 年モデルでは、体感速度ではページめくりが高速になっている。
特に、Amazon で中古書籍をスキャン代行業者に送付して PDF 化してもらい Kindle で読む方法とツール の方法を用いた場合、スキャンした書籍のデータを電子書籍データフォーマット (Mobi 形式) に変換して Kindle にアップロードした場合、Paperwhite 2012 版では、ページめくりがとても遅かった。そのため、快適にページめくりをするためには、ページを読み終わる少し (数秒) 前にページめくり操作をするというような高度なテクニックが必要であった。

しかし Paperwhite 2013 年版では、テキストデータ版の電子書籍をめくるのと同じくらいのスピードでスキャンデータの Mobi 形式をめくることができる。

また、Kindle Paperwhite の良い点は、3G 版であれば通信料無料でドコモの回線を使用して Amazon のサーバとの間で通信ができる点にある。同一の Mobi ファイルを複数の Kindle Paperwhite 端末にアップロードしておけば、どのページまで読んだかという情報が常に Amazon のサーバにアップロードされ、各端末間で同期される。現在 3G 版を 3 台購入し、職場、自宅、車の中の 3 箇所に置いてある。外出したときは、車の中に置いてある端末を持って出ることにしている。車の中では走行中は常に USB で充電されるようにしているので、電池切れの心配がない。そして、車の中の端末は自宅に帰ると車の中から降ろさなくてもガレージの中にあるだけで自動的に自宅にある Wi-Fi につながるので、その間に新しい Mobi ファイルを Amazon のサーバー経由でダウンロードすることができる (send to kindle を使用すればダウンロードは自動で行われる)。


iPad mini や Kindle の Android 版などは多機能かつカラーであるが、出先で使用するには 3G 契約が別途必要であり、すべて 3G の契約を締結した複数台を所有するとかなりのお金がかかる。その点 Paperwhite 3G であれば無料である。怠け者で、端末を持ち歩くのが面倒だというときは、多数購入して色々な場所に置いておくというのがよい。

市民による筑波大学の松美池でのボート遊びについて

一般市民が筑波大学の公園に立ち入り、公園内の池でボート遊びをすることは、法律的にも慣習 (常識) 的にも差し支え無い。むしろ、それはもともと筑波大学の池の利用目的として想定されていたボート遊びを実施することで池の効用を引き出そうとする、素晴らしい行為である。
筑波大学公園は、国の負担で建設され、供用開始後 40 年間公園として行政主体によって開放されてきた、誰もが利用することができる公共の財産である。この公共の財産の管理を市民によって委託された行政主体である筑波大学は、一般市民がボート遊びをすることを、好き勝手に禁止することはできない。議会によって制定された法令の根拠によらない、そのような好き勝手な規制は、公物管理権・公物警察権の濫用であり、もしそのような規制により、行政主体がボート遊びをする人を強制的に排除・妨害したとしたら、それは憲法違反となる可能性もある。


前回の11 月 9 日の日記では、このような考え方を、いくつかの大学発行の正式な資料等を根拠として述べたが、非常に長くわかりにくい文章となってしまっていたので、改めて再構成し、図を用いて簡潔に説明したい。

上図は、筑波大学公園の特殊事情を示し、それによって発生する、キャンパスに立ち入っている人たちの関係を図式化したものである。この図を見ながら、考えを整理していく。なお、本文中の ① から ⑲ までの番号は、図の中の番号に対応している。

1. 筑波大学キャンパスは、1970 年代から供用されている公共公園であり、誰でも立ち入って一般使用できる。

「①筑波大学のキャンパスの敷地」は、「④建造物及び囲繞地」(以下「建造物部分」という) と「③公園部分」とに分割できる。
「①筑波大学のキャンパスの敷地」は、「②県道・市道」と分離するための柵や門扉で囲まれていない。
「③公園部分」は、筑波大学施設部 1982å¹´4月 P.86、筑波大学学生生活課 2011å¹´6月 P.2、筑波大学ホームページ などから、1970 年代の開学時から現在まで誰でも自由に立入り利用することができる公園として供用されている。
「③公園部分」には、「⑥車道・歩道 (ペデストリアン)」がある。筑波大学内の「⑥車道・歩道」について、国家公安委員会 2012å¹´1月により警察庁は道路交通法上の道路として認めている。筑波大学交通安全会 2008å¹´2月 においては、一般車両が学外から自由に入構できることを大学自ら認めている。
なお、公園部分と異なり、「④建造物及び囲繞地」は、原則として職員や学生のみが立入ることができる。部外者が立入るには、正当理由がなければならない (刑法 第130条)。建造物の管理者は、「④建造物及び囲繞地」の内側にいる人に対して、いつでも、自由に退去を命じることができる。退去命令が出された人は、退去しなければ不退去罪に問われるためである (同条)。

2. 筑波大学公園内の松美池は、ボートやヨット、魚釣りや水遊びなど多角的な利用を目的に設置された池である。

「③公園部分」には、いくつかの池がある。代表例として、「⑪松美池」がある。これらの池は、筑波大学施設部 1982å¹´4月 P.205 により、「ボートやヨット、魚釣りや水遊びなど多角的な利用」を目的として設置された。また、同資料 P.149 によれば、松美池は「人工池」であり、湖畔にあるコンクリートの階段状の構造物は水への接近性を高めるための「池中まで連続するステップ」である旨が記載されている。
したがって、「⑪松美池」は水遊びやボート遊びをするために意図して計画された池であることに間違いはない。

3. 現時点では、筑波大学公園でのボート遊びに際して、事前の許可は不要である。

筑波大学法科大学院講義資料 2013年5月 によれば、国立大学法人は行政主体の一つである。同様の記述が、立命館大学法学部講義資料、流通経済大学講義資料 などにみられる。そして、筑波大学は国立大学法人である (国立大学法人法)。したがって、筑波大学が一般市民に対して開放している公園部分を管理する際は、行政主体としてその権限を行使する。
筑波大学が行政主体として一般公衆への供用を開始した後の「③筑波大学公園」は、慣習法にいう公共用物である (立命館大学法学部講義資料、東北学院大学講義資料)。公共用物には、「一般使用」、「許可使用」、「特許使用」の 3 種類の利用形態がある。「一般使用」は許可を必要としない利用方法で、「道路の通行や河川の就航、公園の散策など」が含まれる。公共用物はその種類によって一般使用の用途が異なる。公共用物法理論の再構成 早稲田大学大学院法学研究科 権奇法によれば、「道路の通行や河川の就航、公園の散策など」が一般使用の一例である。
「③筑波大学公園」のうち「⑥車道・歩道」を「⑨徒歩」・「⑩自転車」・「⑦自動車」等で通行することは、一般使用である。道路部分以外を徒歩で「⑨散歩」すること、および、池で「⑫水遊び」、「⑬ボート遊び」、「⑭魚釣り」をすることも、一般使用である。これらは常識的に正しいだけではなく、大学自らが池について、筑波大学施設部 1982å¹´4月 P.205 により「ボートやヨット、魚釣りや水遊びなど多角的な利用」を目的として設置されたと説明していることからみても、妥当であるといえる。
公共用物法理により、一般使用においては許可が必要ない。ボート遊びは、池の中に構造物を立てたり、ボートを一箇所に固定して動かせなくしたりしない限り、占用にはあたらないため、許可が不要である。
現時点では、筑波大学は公物管理権によって池の利用形態のうち「⑫水遊び」、「⑬ボート遊び」、「⑭魚釣り」などを禁止していない。
よって、現在、筑波大学公園でのボート遊びに際しては、事前の許可は不要である。

4. 松美池でボート遊びを行うときには、他の船舶に注意しなければならない。

軽犯罪法によると、「みだりに船又はいかだを水路に放置し、その他水路の交通を妨げるような行為」、「川、みぞその他の水路の流通を妨げるような行為をした者」は禁止されている。ある人が松美池で「⑬ボート遊び」をするとき、松美池を水路として利用する「⑮他のボートや船舶」の運行を妨害してはならない。
公園の池の無許可利用は一般使用のみに限定されるから、当然、他の利用者の利用を妨げない範囲でのみ利用しなければならない。松美池でボート遊びをするとき、「⑮他のボートや船舶」がなく、また池で「⑫水遊び」や「⑭魚釣り」などをしている人がいない場合は、他者の池の利用を妨害するおそれはない。もし松美池に他にも利用者がいれば、「⑮ゆずり合い」を行ってお互いに円滑に利用することが大切である。
将来、松美池に多数の船舶が跋扈しひしめくようになった場合は、使用者同士で「松美池湾岸管理組合」などの任意団体を設立して、ルールを話し合うことが望ましい。
または、「⑤筑波大学公園の管理者」と相談し、港湾法 によって国か地方公共団体 (つくば市または茨城県) に対して「港湾局の設立」を求める方法もある。定款を定め、港務局が設立された場合は、港湾の管理権は港務局に移動するため、すべての船舶はこれに従って松美池を利用する義務が生じる。

5. 筑波大学が、将来、好き勝手に公園の池の本来の利用目的の一部を規制すれば、それは憲法違反である。

日本は、自由民主政体であるため、行政主体が市民に義務を課し、または権利を制限するには、法律や地方条例の規定が必要である (憲法第 13 条、第 21 条、第 41 条他)。
もともと、行政主体でない私人が、自己の土地を通行・利用しようとする人に対して規制を行うことは自由である。これは施設管理権と呼ばれる。施設管理権は土地の所有・占有に基づく権利で、自分の土地に対して自由に行使できるのは当然のことである。
同様に、行政主体は公共用物に対しての施設管理権である「公物管理権」・「公物警察権」を行使することができる。ただし、この際には、本来の公共用物の想定されている用途での利用を損なわない範囲でこれを行使しなければならない (公共用物法理論の再構成)。行政主体が自己の土地を管理する場合、普段立入りを制限している建造物に対する施設管理権は一般私人と同様に行使できる。しかし、公園として一般使用目的で供用されている囲繞地でない開放された土地を日常的に通行・利用する市民の行為を、本来の一般使用目的を阻害するような形で、私有地と同様に施設管理権を持ち出して好き勝手に規制することは、行政主体の独断では許されない。日本では、行政主体がそのような勇み足をすることを規制するために、国会議員のみが立法権を有している。
たとえば、茨城県は県道を所有管理しているが、何らかの理由で県道の一部を通行規制しようとする時は、勝手に規制を行ってはならない。道路交通法に基づく警察署長からの許可が必要である。これは、有権者が選出した国会議員が成立させた道路交通法によって市民の権利を制限するというプロセスを踏んでいる。

一般の国立大学 (東京大学など) について考えてみると、これらのキャンパスは囲繞地であり、最初から一般市民の使用を制限している。したがって、キャンパスの屋外部分であってもそれらは「公共用物」にはあたらない。私有地と同じように管理者が好き勝手にコントロールすることができる。一般の国立大学が自己のキャンパス内での利用行為を規制する際には、その大学の制定する学則などのローカル・ルールで足りる。法律や地方条例を制定する必要はない。
一方、筑波大学は、これまで述べた特殊事情 (キャンパスが公園として 40 年前から供用されていること) から、「⑤公共用物である大学公園の管理者」の立場としては、「行政主体」とみなされ、一般の道路や公園などの管理者と同様に取り扱われる。行政主体は、法律の根拠なく、一般市民の行為を規制することはできない (憲法第 13 条、第 21 条、第 41 条他)。たとえ筑波大学自身が所有管理している土地であっても、「③公園部分」はいったん公共用物として一般公衆への供与が開始されている場所であるから、この部分を通行したり一般使用したりする市民の行為を制限することは、何らかの法律上の根拠を必要とする。
筑波大学公園のうち道路部分 (ループ道路、ペデストリアン) は、行政主体が 道路交通法 によって規制することができる (国家公安委員会 2012å¹´1月付け文書)。したがって、一般市民が筑波大学内にある道路を通行以外の目的で使用する場合は、警察署長からの「⑲道路使用許可」が必要である。たとえば、道路部分で「⑧集会やデモ行進」を行う場合には、警察署長による「⑲道路使用許可」が必要である。無許可集会利用が禁止されていることについては、我々が選出した議員が可決した道路交通法の規定で、我々市民の権利に対して公共の福祉のために最低限の規制を課しているのだから、これは正当な規制であり、憲法違反ではない。
これと異なり、「松美池」は明らかに道路ではない。ペデストリアンで自転車を漕ぐときには道路交通法の規制を受けるが、松美池でボートを漕ぐときには道路交通法は無関係である。だから、行政主体は「松美池」を道路交通法で規制することはできない。
松美池を水路であると考えることもできるかも知れない。一般に、河川や大きな湖 (霞ヶ浦など) などの水路は、河川法 の適用を受ける場合がある。この場合、市民が水路を利用する際には、水路管理者である行政主体が管理権を行使して市民の権利を制限することが認められている。しかし、「松美池」は河川法の河川に該当しないので、河川法による規制を行うことはできない。
松美池を都市公園法による「都市公園」として規制することはできるか。もし筑波大学公園が都市公園であるならば、第 11 条 (禁止行為)、都市公園法施行令 第 18 条 (禁止行為) により、「公園管理者が指定した立入禁止区域内に立ち入ること」を規制できる。この規定を利用すれば、筑波大学は松美池を「立入禁止区域」として指定することでボート遊びを禁止することができることになる。しかし、そもそも都市公園の範囲は、同法第 2 条で規定されている。残念ながら、筑波大学公園はこの定義にあてはまらないから、都市公園法による規制をすることはできない。

上記のように、筑波大学公園のうち池の部分は、公園であるけれども都市公園法による規制をすることができず、水路であるとしても河川法による規制をすることができない。その他に、池の利用方法について規制を行う法的根拠はない。
したがって、「⑤行政主体としての筑波大学」は、一般に供用されている筑波大学公園のうち「⑪池」の利用行為について、好き勝手に規制することはできない。また、ボート遊びをする人に対して、「⑰禁止命令」のような命令を出すこともできない。「公共用の施設については、その施設や趣旨や憲法の人権尊重や平等原則の要請から、利用者の基本的な利用の自由を害し、公正な利用の自由を妨げるような管理権の行使が許されないことはいうまでもない」(公共用物法理論の再構成 P.268 より)。そのような規制や禁止命令を、国の行政主体である筑波大学が議会を通さずに行い、よって一般市民の公共用物に対する本来の利用を排除することは、勇み足であり、権限を逸脱している。これは行政主体が暴走して勝手なルールを作り市民の行動を規制していることに該当し、自由民主政体においては最も恥じるべき憲法違反 (憲法第 13 条、第 21 条、第 41 条) 行為となる。
このことは、皇居外苑使用不許可事件最高裁判決でも、

公共福祉用財産をいかなる態様及び程度において国民に利用せしめるかは右管理権の内容であるが、勿論その利用の許否は、その利用が公共福祉用財産の、公共の用に供せられる目的に副うものである限り、管理権者の単なる自由裁量に属するものではなく、管理権者は、当該公共福祉用財産の種類に応じ、また、その規模、施設を勘案し、その公共福祉用財産としての使命を十分達成せしめるよう適正にその管理権を行使すべきであり、若しその行使を誤り、国民の利用を妨げるにおいては、違法たるを免れないと解さなければならない。

と述べられ、また、

管理権に名を藉り、実質上表現の自由又は団体行動権を制限するの目的に出でた場合は勿論、管理権の適正な行使を誤り、ために実質上これらの基本的人権を侵害したと認められうるに至つた場合には、違憲の問題が生じうる

と述べられている。

行政主体としての筑波大学は、公共用物である公園や池の本来の目的であるボートやヨット、魚釣りや水遊びなど多角的な利用 (大学自らが池について筑波大学施設部 1982年4月 P.205 により「ボートやヨット、魚釣りや水遊びなど多角的な利用」を目的として設置されたと説明している) での利用が可能な状態に維持する責任を負っている。これとは逆に、筑波大学がそのような多角的な利用のうち、一部分を制限するような方法で、公物管理権を濫用することは、国民によって筑波大学に与えられている公物管理権の目的に真っ向から反することになり、「違憲の問題が生じうる」。
もし、どうしても池でのボート遊びを規制をしたいのであれば、正しい手続きとしては、筑波大学公園の地位を「都市公園」に移行してから松美池を「立入禁止区域」として指定するべきである。ただし、筑波大学公園を「都市公園」にした場合は、逆に筑波大学側の義務が増えたり、権限が減ったりする問題がある (たとえば、国が設置する都市公園ということにした場合は、公園部分の管理権は筑波大学から離れ、自動的に国土交通大臣が管理者となってしまう。同法第 2 条の 3)。なお、たとえ筑波大学公園を「都市公園」として規制しようとしても、池におけるボート遊びを規制するためには、正当な理由が必要である。池でボート遊びを規制するために立入禁止区域を設定する行為は、行政処分であるから、処分取消しのための異議申立て、不服審査、訴訟の対象となる (皇居外苑使用不許可事件最高裁判決)。
または、筑波大学公園のうち池の部分の公園機能を廃止することもできる。たとえば、柵で池を取り囲んで「ここは公園ではないので立入りできない」という看板を取付けることで廃止できる。公園機能が廃止された場合は、当然、池にボートを浮かべるにはいちいち大学の許可を得る必要が生じる。ただし、国有財産法の第 13 条によると、いったん公園として供用している国有財産の公園機能を廃止する場合には、国会の議決を経なければならない (財産の価格が 1.5 億円以下で、かつ年間に国全体で 15 億円に達する分までは国会の決議は不要) こととなっている。国立大学法人化する前の筑波大学の公園は国有財産であったので、この規制が適用され、大学は勝手に公園を廃止することができなかった。国立大学法人化された後にこの規定が適用されるべきであるかどうかは、要調査である。

6. 筑波大学がローカル・ルールで大学建物中の行為を規制することは、違法ではない。

最後に、5 で述べた理論は、あくまでも、大学キャンパスの中の「③公園部分」にのみ通用する理論であるので、注意しなければならない。筑波大学の公園部分は、一般供用されている公共用物であるため、大学自身といえどもこの公園部分を好き勝手に規制することはできないというものである。
一方、大学キャンパス内の「④建造物及び囲繞地」では 5 で述べた理論は通用しない。たとえば、筑波大学は自由に 法人規則 を設けて建物内における学生や職員の行為を規制することができる。「④建造物及び囲繞地」は一般使用を目的に供用されている公共用物ではないから、建物を利用している学生や職員と大学との関係は、私人同士の契約関係 (教育役務提供契約、雇用契約) であり、行政主体としての筑波大学の立場は登場しない。また、刑法 第130条 によって建造物及び囲繞地においては、いつでも管理者が内部の人間に対して退去命令を出すことができる。大学は自分の敷地内にある建物を好き勝手に管理することができ、命令に従わない学生や職員を退出させたり、懲戒や解雇をしたりすることもできる。これらのローカル・ルールは、もともと建物に立入ることができない一般市民の行動を規制することにはならないため、憲法違反にはあたらない。

最近の筑波大学内の松美池でのボート遊びについて

筑波大学にある池、特に、第一エリアにある「松美池」は、今も昔も、格好のボート遊び場として一部の学生に人気があるようだ。
例えば、2000 年頃に工学基礎学類の学生グループが太陽電池式の大型ボートを自作してボート遊びをし、学園祭中には一般来場者もボート遊びに参加している様子が記録されている。

また、2013 年 10 月には、足漕ぎ式の白鳥ボート (またはアヒルボート) が浮かべられている。

しかし、筑波大学のキャンパス内で小型ボートでボート遊びをする行為については、学内でも賛否両論があるようだ。


たとえば、2013 年 10 月の白鳥ボートの事案について、筑波大学新聞 11 月 5 日号等によれば、学生生活課はボートを浮ばせた学生に対してボートの使用禁止措置およびボートの撤去を依頼し、当該学生は任意に依頼に応じたため、ボートは一旦は撤去されている旨が報告されている。ただし、これはあくまでも任意の撤去依頼に応じたという案件であり、一般常識、社会のルール (法律)、または筑波大学内で存在しているルールに基づいてボート遊びが禁止されていることを示すものではない。ボートを浮ばせたのが学生であるから、自然に学生生活課の依頼に任意に応じたものであるが、もしボートを浮ばせたのが部外者であれば学生生活課の依頼に応じなかったかも知れない。そもそも、筑波大学の池に部外者はボートを持ち込んでボート遊びをしても良いのだろうか。誰でも、色々な疑問が沸き起こるであろう。

筑波大学のキャンパス内にある池でボート遊びをすることが禁止されているか否か、または常識的に不適切であるか否かについて、判断根拠となる情報がない場合は、今後もずっと、ある人はこれを禁止行為だと主張し、別の人はこれを適切妥当だと主張することになる。これでは誰かがボートを池に浮かべようとする度に、根拠のない議論が永遠と繰り返され、またボートを池に浮ばせることを阻止したいと考える反対派と、浮ばせたいと考える賛成派との間で終わりなき対立が繰り広げられることになる。そして最悪の場合は物理的な衝突事件に発展する可能性もある。そこで、このような無駄な闘いを防止するために、そもそも筑波大学のキャンパス内にある池でボート遊びをすることは禁止されているのか、禁止されていなくても常識的に不適切であるのか、ボート遊びが可能である場合はどのようなことに注意すべきか、等を根拠のある資料を通じて予め各人がよく考えて判断しておくのが望ましい。

色々調べてみたところ、驚いたことに、法律的にも常識的にも、現在の筑波大学の池では、筑波大学が明示的に許可をしなくても、一般市民が小型ボートを持ってきてボート遊びをすることができる ことが判明した。その過程を以下で述べる。


なお、たとえ許可が不要であるといっても、トラブルを避けるためには、一応は筑波大学の池でボート遊びを行う前に大学の施設部や学生生活課に事前に相談をしておくことが望ましいといえる。

1. 行政主体が管理する公共の池でボート遊びを行うことについて

まず、一般の公園や公園内の池でのボート遊びについて考えてみる。

行政主体が管理し、公衆に供用されている池や水路などの施設は「公物」と呼ばれる。「公物」について全般的に規定する法律は存在しないが、慣習法 (常識) として、「一般使用」、「許可使用」、「特許使用」の 3 種類の利用形態がある。「一般使用」は許可を必要としない利用方法で、「道路の通行や河川の就航、公園の散策など」が含まれる (公物法理論の再構成 −公の施設を素材として− 早稲田大学大学院法学研究科 権奇法 2002 年)。なお、河川については河川法、港湾については港湾法、漁港漁場については漁港漁場整備法、道路については道路交通法、都市公園については都市公園法などの法律が公物の利用や管理を規律するために規定されており、それらの中で許可使用および特許使用の要件や手続きが規定されている。これらの法律で規制されていない使い方、たとえば、公物である池で水遊びやボート遊びなどを行うことは、本来の利用目的の1つとして池を利用しているにとどまるから、法律上の問題はなく、常識的にも正しい行為である。都市公園以外の、行政主体が供用する公共の公園や池は、特定の法律によって規律されていない「法定外公共用物」とみなされる (東北学院大学 荒木修 「行政法」 講義資料)。

行政主体が管理し一般に供用されている公物を、一般市民が「一般使用」することは、慣習的に当然の権利であり、いちいち許可を必要としない。ただし、公物の一部を占用したり、設備を破損させたり、勝手に建築物を建てたりしてはならない。これらの行為を行うときには、許可が必要である。国や市町村が管理する「都市公園」については、一般利用であっても、都市公園法で禁止されている行為を行う際には許可が必要になる。市町村の場合は独自に条例を作ることもある。つくば市都市公園条例が一例。

毎日のようにボート遊びを行う利用者は、ボートを毎回陸揚げして持ち帰らずに、河川や池に浮かべたままにしておく場合もある。このとき、夜間など利用者は一時的に不在になるため、ボートが勝手に流れていかないように固定したくなる場合もある。しかし、行政主体が管理し、一般に供用されている公物としての池の中で、一般人がボートを浮かべるとき、ボートが岸壁の設備 (たとえば電柱など) に係留され、施錠固定されているなどしてボートが容易に動かせない状態となっていれば、「占用」にあたるため、許可が必要である。一方、ボートが全く係留されていないか、または錘や錨などの装置で動きにくいように半固定されている程度であれば、誰でもそのボートを押し動かすことで別の場所に移動させることができるので、「占用」にはあたらない。これは、例えば公園の樹木に自転車がチェーンで結びつけられ動かないように固定されていれば公園の土地を自転車が占用していることになり許可が必要であるが、自転車が半日程度、無施錠の状態で置かれていても、公園の土地を占用したとは言えないことを考えれば明らかである。また、河川については地方の条例等、港湾付近については港湾法の規制により、行政または港湾局が許可した船舶以外は係留してはならないことになっているが、港湾局が設立されていない池についてはその規定はない。

これらのことから、行政主体が管理する公共の池でボート遊びを行うことは、法令によって禁止されているか一般使用の範囲を超える形態である場合を除き、法律的にも常識的にも問題ないといえる。

むしろ、主権者である市民が行政主体によって設置された公共財である池を一般使用する権利は、納税者としては当然の権利であり、正当な理由や法令上の根拠なく、行政主体や第三者がこれを妨害することは許されない。万一、第三者によって一般使用が妨害された場合は民事訴訟をなしうる (立命館大学法学部准教授 正木宏長 行政法 II 第7回「公物(1)」)。

2. 筑波大学の池は、「行政主体が管理する公共の池」であるか?


1 の結論は、あくまでも「行政主体が管理する公共の池」に限定され適用される。一方、私有地の池などでは、その私有地の管理者にいちいち許可をとらなければボートを浮かべてはならないことはいうまでもない (万一、無許可で私有地にボートが浮かべられた場合は、私有地の管理者は裁判所の強制執行命令を得てそのボートを移動することができる。また、柵や立看板などで部外者の私有地への立入りを制限することで、今後の立入りを禁止できる)。

それでは、筑波大学の池は「行政主体が管理する公共の池」か、それとも「私有地にある池」か。これを判断するためには、以下の 2 点を判断する必要がある。

  1. 筑波大学は「行政主体」か?
  2. 筑波大学の池は「公共の池」(=公物) か?

2004 年 4 月 1 日に筑波大学は国立大学法人となった。2004 年 3 月 31 日までは、筑波大学長は文部科学省内の一行政機関であり、筑波大学は国としての行政主体に包含されていた。しかし、国立大学法人化後は一法人として独立した。これを根拠として、筑波大学の池を含むオープンな土地は民間企業が所有する土地のように「単なる私有地」であると主張する大学関係者もいる。しかし、筑波大学法科大学院 2013(平成25)年度春学期A・B 地方自治 第7回 地方行政組織法 2013.5.31 (下井康史 ビジネスサイエンス系 教授)、立命館大学法学部准教授 正木宏長 行政法I 第8回「行政組織法の一般理論(2)」、流通経済大学 周作彩 行政法(行政救済法)などの資料によると、「行政主体」には国立大学法人も含まれるとされる。これに反する資料は見当たらなかった。
したがって、筑波大学は国立大学法人化した後も依然として「行政主体」である。

筑波大学が今も昔も行政主体であり続けていることに代わりはないとしても、池や、池が存在する周囲の土地が、公衆が立入りすることができる「公園」として供用する意図でもって供用管理されているのでなければ、筑波大学の池は「行政主体が管理する公共の池」にはあたらないことになる。たとえば、筑波大学には、大学関係者のみが授業や課外活動のみで利用することができる授業用プールがあるが、この授業用プールは立ち入り制限があり、体育センターによる利用許可制度があるから、「行政主体が管理する公共の池」ではない。一般市民がこのプールに立入りしてボートを浮かべることは、法律的にも (建造物侵入になる)、常識的にも不適切である。

そこで、筑波大学の池や池の周囲の公園状になっている土地について、これが「誰でも自由に立入りすることができるパブリック・スペース」であるか、または「学内者限定で立入りが可能なプライベート・スペース」であるかを判断しなければならない。

池や公園などを含むキャンパス (屋外スペース) の設置意図や目的、現状について、筑波大学が発行している公式資料がいくつかある。
筑波大学の施設・環境計画 1982年4月 筑波大学施設部 P.86 には、

大学と都市との空間的連続性を保ち、開放的なキャンパスとするため、周辺に門、塀、フェンスなどは設けない。

と記載されている。
つくばツチューデンツ 2011年6月号 発行 筑波大学学生生活課 P.2 には、

本学の筑波キャンパスは県道・市道で区切られた北地区、中地区、南地区、西地区、東地区、春日地区の6地区で構成されていますが、キャンパスを囲む塀がなく、何時でも誰もが自由にキャンパスに立入ることができる環境にあります。これは「開かれた大学」という本学の基本理念の一つを、物理的に実現したものです。

と記載されている。
筑波大学公式ホームページ 大学見学・大学開放 には、

筑波キャンパスは自由に見学することができます。ただし,建物内への立ち入りはご遠慮ください。

と記載されている。
このように、筑波大学から発行されている多数の公式資料は、キャンパスのオープン・スペースは「誰でも自由に立入りすることができる場所」とすることを目指して設計され、現在もそのような意図で運用されていることを認めている。

筑波大学キャンパス内には多数の道路があり、これについて、警察庁 (国家公安委員会) は 法令適用事前確認手続回答書 2012年1月25日 で

筑波大学構内道路は、大学構外の市道・県道から大学構内への接続部付近に「関係者以外入構禁止」という看板等は設置されているものの、門扉等は設置されておらず、管理者の許可をその都度受けることなく一般通行車両が進入することが物理的に可能な状況にあります。したがって、筑波大学構内道路は、法 (道路交通法) 上の道路に当たるものと考えられます。

との見解を示している。また、筑波大学自らが発行する資料である 学生の交通安全のために 2008年2月 筑波大学交通安全会 は、

学内ループ道路には、一般車両が学外から自由に入構でき、路線バスの運行経路にもなっており、多数の車両が走行しています。

としている。

上記の各資料が指摘しているとおり、物理的には、筑波大学の周囲の市街地の歩道や車道と筑波大学内部の歩道や車道や草原などとを隔てる柵や塀、門扉などはない。
一方、普通の大学 (筑波大学以外の大学) は、一般的に、大学のキャンパスを柵や塀、門扉などで囲んでいる。普通の大学の場合、キャンパス内に部外者が無許可で立入りをすることは建造物侵入になる可能性がある。刑法 第130条は、『正当な理由がないのに、人の住居若しくは人の看守する邸宅、建造物若しくは艦船に侵入し、又は要求を受けたにもかかわらずこれらの場所から退去し』ないことを禁止している。
筑波大学のキャンパス内にある建造物に学外の部外者が勝手に立入ってはならないことは当然である。しかし、筑波大学のキャンパス内の建物以外の部分 (公園のようになっている屋外部分) は柵などで囲まれてはいない。この公園部分が建造物であるか否かについて検討する必要がある。これについて、刑法では明確に規定されていないので、常識 (過去の判例) を参照する必要がある。
昭和25年09月27日 最高裁判所大法廷 昭和24(れ)340 建造物侵入は、

刑法一三〇条に所謂建造物とは、単に家屋を指すばかりでなく、その囲繞地を包含するものと解するを相当とする。所論本件工場敷地は、判示工場の附属地として門塀を設け、外部との交通を制限し守衛警備員等を置き、外来者が、みだりに出入することを禁止していた場所であることは、記録上明らかであるから、所論敷地は同条にいわゆる人の看守する建造物と認めなければならない

と述べている。
「囲繞」の定義について、昭和51年03月04日 最高裁判所第一小法廷 昭和49(あ)736 建造物侵入は、

囲繞地であるためには、その土地が、建物に接してその周辺に存在し、かつ、管理者が外部との境界に門塀等の囲障を設置することにより、建物の附属地として、建物利用のために供されるものであることが明示されれば足りるのであつて、右囲障が既存の門塀のほか金網柵が新設付加されることによつて完成されたものであつたとしても、右金網柵が通常の門塀に準じ外部との交通を阻止し得る程度の構造を有するものである以上、囲障の設置以前における右土地の管理、利用状況等からして、それが本来建物固有の敷地と認め得るものかどうか、また、囲障設備が仮設的構造をもち、その設置期間も初めから一時的なものとして予定されていたかどうかは問わないものと解するのが相当である。

と述べている。
最近の判例 (ただし集合住宅に関して) においても同様に、立川宿舎反戦ビラ配布事件 控訴審判決は、

集合住宅建物に関しては,その囲繞地及び建物共用部分を「邸宅」と解するのが相当と考えられる

としている。

筑波大学キャンパスでは、物理的に全体を取り囲む囲繞が存在しないし、部外者の一般市民でも自由に立入ることができるばかりか、それを大学が善しとする慣行となっている。これらから、法律的にも、現実にも、筑波大学のキャンパス内の建物の外の公園部分に、筑波大学関係者でない部外者 (一般市民) が自由に立入ることは可能であることが分かる。実際に、筑波大学内の公園部分を散策・ジョギングしている一般市民の姿が多数見られる。


筑波大学は、松美池の近くにある学内のバス停の名前を「大学公園」という名称で呼んでいる。また、松美池の南にある交差点の名前は「大学公園南交差点」である。
このように、一般の大学と異なり、筑波大学のキャンパスは、自他共に公共の公園として慣習的に認知されている。


筑波大学の公園部分に取り囲まれている池について、その設置意図についても念のために調べておいたほうが良い。池の設置意図については、筑波大学の施設・環境計画 1982年4月 筑波大学施設部 P.205 が、

キャンパスにあった5本の谷津田を利用して5つの池が計画された。これらはいずれも洪水調整機能を合せもつものであるが、またその位置と建物群との配置上の関係によって個々の性格が付与されている。静かな水として計画されたこれらの池は、他の土地利用を若干犠牲にして大きな水面が確保された。静かな水面でも大きさがあれば、風や光によって動きだし変化ある空間表現がなされるし、ボートやヨット、魚釣りや水遊びなど多角的な利用ができるからである。

と述べている。したがって、これらの池はボートだけでなくヨットまでをも浮かべて利用することを目的として設置されたのである。(なお、筑波大学の松美池においては、夜間に水遊びをしている人たちは散見されるが、魚釣りをしている人はこれまで見たことがない。今後増えると面白いと思う)

上記の資料は、30 年前に記載されたものから数年前に記載されたものまで年代的に幅広いが、いずれも述べられている内容は一貫して矛盾は見当たらない。そのため、筑波大学キャンパスが設計された頃から現在まで、公園部分や池に関する供用の意図は、相変わらず現在まで継続していると考えることができる。

上記の資料により、筑波大学の公園部分の中にある池は「行政主体が管理する公共の池」として供用開始された池であることが分かった。筑波大学の池で一般使用 (水浴びやボート遊びなどの許可不要な使用) を行うことは、筑波大学関係者のみならず、学外の一般市民にとっても可能であるということができる。そして、そのような一般使用にはいちいち許可が必要でないことは、公物の一般利用の原則から考えて当然である。

3. 筑波大学の池でボート遊びを行う際に注意すべき点

上記の結論によって筑波大学の池でボート遊びを行ってもよいということが分かったからといって、直ちに、どのような様態でボート遊びをしても良いということにはならない。常識的および法律的に各種の制限がある。以下で検討する。

まず、軽犯罪法によると、第 1 条の 7 で『みだりに船又はいかだを水路に放置し、その他水路の交通を妨げるような行為をした者』、25 で『川、みぞその他の水路の流通を妨げるような行為をした者』は拘留又は科料に処せられると規定されている。ボートは「船又はいかだ」に該当するので、水路の交通を妨げるような様態で放置してはならない。また、水路の流通を妨げるような行為も良くない。たとえば、松美池を利用する場合、ボート遊びをしようとする前に慎重に池を見回し、他の船舶がひしめいていないかどうかよく確認する必要がある。もし多数の船舶がすでにひしめいている場合は、それらの船舶の航行の妨げにならないようにボート遊びをしないといけないし、仮係留する場合もその場所や方法を十分検討する必要がある。もし松美池の岸壁部分にすでに多数の船舶が係留しているような場合で、十分な空きスペースがない場合や、松美池の中が大変混雑してよく船舶同士が衝突する場合などは、「松美池湾岸管理組合」のような任意団体を利用者同士で組織して、十分に協議をして互いに配慮し合いつつ、ボート遊びを行うべきである。なお、現在のところ松美池にはボートはまったくないか、またはあっても 1 艇程度であるので、今のところ上記のような問題が発生する心配はなさそうだ。

次に、松美池に多数の船舶がひしめく状況がエスカレートして管理上の問題が発生した場合、港湾法 によると、松美池の管理者 (筑波大学) が国か地方公共団体 (つくば市または茨城県) に対して「港湾局の設立」を求めることができるとされている。この場合、国か地方公共団体は『定款を定め、港務局を設立する』ことになるであろう。将来、このようにして松美池に港湾局が設立された場合は、ボートを岸壁に仮係留するような場合や錨などを用いてボートを半固定するために、港湾局の許可を得る必要が生じる。

いうまでもなく、松美池において許可を得ずに可能な利用法はあくまでも「一般使用」に限定されるから、岸壁の柱や樹木などにボートを強固に係留したり、施錠したりして、持ち主が不在のときにボートが他人によって動かせないような状態になっていてはいけない。このようにボートを動かせないように固定または施錠することは、公園の一部の土地 (池の中の水域) を私人が「占用」することにあたるため、公園管理者 (松美池の場合は、筑波大学) の事前の許可が必要になる。一方、誰でもボートを手で押し動かすことで簡単に付近を移動することができるようになっていれば、そのボートは特定の場所を占有していることにはならず、たとえ何らかの支障が発生しても、公園管理者や他の利用者がそのボートを所有者不在の場合でも手押しすることで一時的に適宜移動することができることができ、管理上および他の利用者との利害衝突の問題は生じないであろう。

上記に反して、樹木などに無許可で係留施錠固定されているボートがあり、それが支障となっていることが原因で自己のボート遊びが妨げられると考えられる場合であっても、その勝手に係留しているボートの係留装置などを勝手に切断したり、破損したりしてはならない。それらの行為は、器物損壊罪になる。池は公共のものであり、ある人がボート遊びをすることで別の人の池での遊びを妨げてはならないことは当然であるが、だからといって、他人の設備を壊して移動することは自力救済にあたり、我が国では禁止されている。邪魔になっているボートの所有者と相談してもらちがあかない場合で、どうしても移動させたい場合は、裁判所へ行き、邪魔になっているボートの所有者に対してボートを移動するよう求める訴訟を提起するのが正しい方法である(立命館大学法学部准教授 正木宏長 行政法 第7回「公物(1)」)。もし勝訴すれば、強制執行によってボートの一部を壊してでも移動させることができる。

なお、現在は上記でみたとおり筑波大学の池や公園部分は公物の一般利用の法理により自由にボート遊びなどができるのだが、筑波大学が将来、公園としての供用を廃止することも考えられる。具体的には、現在自由に立ち入りすることができる公園部分や池などに柵や門扉を設けたり、「立入禁止」などの立看板を設置したりすることで公園機能を廃止することができる。公園機能が廃止された場合は、当然、池にボートを浮かべるにはいちいち大学の許可を得る必要が生じる。
ただし、国有財産法の第 13 条には、以下のようなとんでもない規定がある。

第 13 条  公園又は広場として公共の用に供し、又は供するものと決定した公共用財産について、その用途を廃止し、若しくは変更し、又は公共用財産以外の行政財産としようとするときは、国会の議決を経なければならない。ただし、当該財産の価額が一億五千万円以上である場合を除くほか、毎年四月一日から翌年三月三十一日までの期間内に、その用途を廃止し、若しくは変更し、又は公共用財産以外の行政財産とする財産の価額の合計額が十五億円に達するに至るまでの場合については、この限りでない。

公共用財産とは、第 3 条の定義により、国有財産のうち、『国において直接公共の用に供し、又は供するものと決定したもの』に該当するものである。筑波大学が開学しキャンパスが造営された際に、現在の松美池周辺の公園としての機能の供用が開始され、その際には当初から一般に誰でも立入ることができる意図があったことは、前述の資料から明らかである。そして、その当時は筑波大学のキャンパスは国有財産であったから、そのときから公園部分は公共用財産として、公園又は広場として公共の用に供されてきた。国立大学法人化前は、公園部分はまぎれもなく上記の国有財産法の規定が適用され、公園機能を廃止する場合には国会の議決を経なければならない (財産の価格が 1.5 億円以下で、かつ年間に国全体で 15 億円に達する分までは国会の決議は不要) という制限が課せられていたのである。
その後、大学が国立大学法人化したとき、財産は国から大学に出資する形で大学法人のものとなった。公園部分を含む土地が国有財産法の規定で現在も規制されるべきであるかどうかは分からないが、もし規制されるとしたら、公園機能を廃止するには国会の決議が必要であるということになり、ハードルは高い。そうでない場合でも、公園機能が突然理由なく廃止されることは考えにくい。したがって、筑波大学がオープン・スペースについて公園としての供用を廃止する心配は少ない。


最後に、頻繁にボート遊びをしたり、ボートの管理をしたりするのであれば、ボートを池の岸壁に仮固定したままにしておいても良いかも知れないが、長期間にわたってボート遊びをしないにもかかわらず無許可でボートを一箇所に固定したり、池の中に放置したりしてはならない。これらは、『みだりに船又はいかだを水路に放置し、その他水路の交通を妨げるような行為』(軽犯罪法) に該当するし、常識的にもよくないことである。

もし他人のボートが長期間所有者が現れることなく一定場所に放置されている場合は、遺失物法に基づき、そのボートを引き上げて、公園管理者を経由して警察署長に提出すればよい。そうすればひとまずは池からボートを排除することができる。

4. 筑波大学は、キャンパス内の屋外公園部分での市民のボート遊び行為を、自己規定したローカル・ルールのみで規制できるか?

現在、国の法律、茨城県の条例、つくば市の条例、および筑波大学の学内規則のいずれでも、筑波大学の公園内でのボート遊びは禁止されていない。しかし、今後、筑波大学が公園内でのボート遊びを禁止する学内規則を制定することはあり得る。このような場合、そのような学内規則を制定することは筑波大学の自由であるが、それを一般使用のために公園に出入りする市民に適用しようとすると、憲法違反になる。そのような規則を制定して市民の一般使用を規制するには、国の法律、茨城県の条例、つくば市の条例のいずれかを議員による投票で制定するしかない。これは、筑波大学のキャンパスが有する特殊事情に基づくものであり、他の大半の大学 (東京大学、慶応大学など) のキャンパスではあてはまらない。


一般に、ある土地の管理権者は、その土地を他人が利用するに際して禁止や制限事項を設定することができる。一般の民間企業などの私有地に公園や池がある場合、管理する管理権者は、任意に、危険物の持ち込みを禁止したり、危険な方法で公園や池を利用することを制限したりすることができるのは当然である。このような禁止や制限は、禁止や制限の立札などを立てて、公園や池に立入する者であれば誰でも知り得るよう状態にすることが実現できる。
このような私有地と異なり、筑波大学のキャンパスの屋外部分は行政主体によって市民の一般利用に供されている一般利用が可能な公園であるから、管理権者といえども、自由な判断で特定の形態の利用行為を禁止できるという訳ではない。行政主体は、法的根拠なしに市民の公衆施設利用を禁止することはできない。行政主体が市民の権利を制限するためには、法律上の規定が必要だからである。

たとえば、慶応大学が SFC キャンパス内の公園ではボート遊びは禁止とするというルールを設置し、SFC キャンパスに立入る学生や一般市民のボート遊びを規制することは、慶応大学内の内部規則で直ちに可能である。慶応大学は行政主体ではないし、SFC キャンパスは公衆に対して供用されている公物でないから、どのようなルールを制定してもそれは慶応大学の自由である。

また、東京大学が本郷キャンパス内の公園ではボート遊びは禁止とするというルールを設置し (できる池があるかどうかはともかく)、本郷キャンパスに立入る学生や一般市民のボート遊びを規制することは、東京大学内の内部規則で直ちに可能である。東京大学は行政主体であるが、本郷キャンパスは公衆に対して供用されている公物でない (構造物を囲繞する塀や門扉があり、一般公衆の出入りが自由ではなく、また、管理権者は誰にでも任意に退出するよう命じることができる) から、どのようなルールを制定してもそれは東京大学の自由である。

これらの例と異なり、筑波大学の公園では、筑波大学のローカル・ルールとして「ボート遊びは禁止とする」という規制を設定することはできない。筑波大学は行政主体であり、筑波大学のキャンパスは以前から継続的に公衆に対して供用されている公物である (構造物を囲繞する塀や門扉がなく、一般公衆の出入りが自由であり、また、管理権者は敷地内の屋外部分に立っている人に対して退出するよう命じることができない) から、もし筑波大学が行政主体として、出入りしている一般公衆の行動を規制することは、法令上の根拠がない限りは憲法違反になる。
国や自治体が設置する都市公園についても同様だが、これらの公園は法律や条令で禁止事項を列挙して制限している。法律や行政は、国や自治体が行政主体として制定したものではなく、国会議員や地方議員が投票で可決したものだから、市民の権利を制限することができる。このような手続きを経なければ、行政主体は、たとえ自らの土地であっても、それが公物として供用されている以上は、その土地内部の一般市民の行動を規制できない。
国が設置する公園については、都市公園法においては、第11条に

第十一条  国の設置に係る都市公園においては、何人も、みだりに次に掲げる行為をしてはならない。
一  都市公園を損傷し、又は汚損すること。
二  竹木を伐採し、又は植物を採取すること。
三  土石、竹木等の物件を堆積すること。
四  前三号に掲げるもののほか、公衆の都市公園の利用に著しい支障を及ぼすおそれのある行為で政令で定めるもの

と規定されており、都市公園法施行令においては、第18条に

第十八条  法第十一条第四号 の政令で定める行為は、次に掲げるものとする。
一  土石の採取その他の土地の形質の変更をすること。
二  動物を捕獲し、又は殺傷すること。
三  公園管理者が指定した場所以外の場所でたき火をすること。
四  公園管理者が指定した立入禁止区域内に立ち入ること。
五  公園管理者が指定した場所以外の場所に車両を乗り入れること。
六  はり紙、はり札その他の広告物を表示すること。

と規定されている。国の管理する都市公園については、法律で上記以外の行為は禁止されていない。国は、法律によって禁止されていない市民の利用行為を、その都度恣意的に禁止することはできない。
自治体が管理する都市公園については、条例 (自治体の領域内でのみ有効な法律) で都市公園内での特定の行為を禁止することができる。例えば、つくば市都市公園条例は、つくば市がつくば市内に設置している公園の利用方法について、市民の行動を制限している。

それでは、筑波大学が行政主体となって管理する公物である公園や池についてはどうか。前述の理由により、筑波大学の公園や池は私有地として扱われず、公衆に対して行政主体が供用している公物として扱われる。したがって、市民はこれを一般使用することができる。何も規制がない状態であれば、市民は一般使用 (散策、水遊び、ボートの航行) の範囲内で、かつ他の法律に違反しない範囲内でどのような行為でも公園内で行うことができる。もし行政主体 (筑波大学) が公園内での特定の行為を禁止したいと考えるときに、筑波大学内のみで通用するローカルルール (たとえば、筑波大学の学内規則など) を制定したとしても、一般市民が筑波大学内の公園を利用する際の行為を制限することはできない。行政主体である筑波大学が、国会を通して法律を制定せずに一般市民の筑波大学公園内での特定利用行為を制限することは憲法に違反する (これは大学内で完結する問題ではなく、国に準じる行政主体が一般市民の行動を規制するという社会全体の問題である)。したがって、国が設置する公園については都市公園法、自治体が設置する公園については都市公園条例などを制定して初めて規制が可能になるのと同様に、筑波大学の公園については国の法律、茨城県の条例またはつくば市の条例の 3 つのうちいずれか 1 箇所で規制する法令を作らなければ規制することができない。もしそのような方法で規制するにしても、「ボートやヨット、魚釣りや水遊びなど多角的な利用が可能」なように企画・設計された筑波大学の池について、具体的な根拠なしに後から危険であるから制限するということは困難であろう。具体的な根拠としては、当初はボートやヨット、魚釣りや水遊びなど多角的な利用が可能とすることを目的に造営したものが、なぜ現在は危険で禁止しなければならなくなったのかを説明する理由が必要である。もっとも、本稿執筆時点ではこのような規制法令はなく、また筑波大学の公式サイトに学内の池はボートやヨット、魚釣りや水遊びなど多角的な利用が可能とすることを目的に造営したと記載されていることから、現時点では池でボート遊びをすることの問題は見当たらない。

5. ボートを一時的に放置した場合の問題

ボートを池に浮かべた状態でボートを一時的に放置すると、自分がその場から離れている間に、誰かがボートに乗り込む可能性がある。ボートは「住居」、「邸宅」、「建造物」ではなく、また「艦船」(人が住める程度の大きさの船) にもあたらないため、誰でも、ボートに適法に勝手に乗り込むことができてしまう。これを防ぐためには、ボートの入口にネット、鎖を巻いておくなどの方法が望ましい。

自分のボートに誰かが無断で乗り込み、その人が勝手に沖に出てしまい、転覆するなどして事故に遭う可能性もある。また、乗り込む際に池に転落する事故が発生することもある。これは、たとえば公園に無施錠で自転車を停めていたら、誰かが勝手に乗って付近の公園内を走り回って転倒して怪我をしたり、自転車にまたがろうとして転倒して怪我をしたりした場合と同様に考えればよい。

自分のボートを、監視していない間に誰かが勝手に、裁判所の許可なく、また遺失物法による警察署長への提出目的でもなく、池から外に運び出せば、それは単なる窃盗事件である。

6. 筑波大学の池でボート遊びを行う前に

上記でみたように、筑波大学の池 (松美池など。公園部分にある池に限る。許可が必要なプール等の場所は除く) でボート遊びを行う際には、法律的にも、常識 (慣習) 的にも、公園管理者による事前の許可は不要であると考えられる。
(筑波大学以外の大学はたとえ国立大学であっても敷地が囲繞地であり公園としての供用の意図がないので、無許可でボート遊びをしてはならないので注意しなければならない。)

しかし、将来において、ボート遊びをする人が増加して「松美池湾岸管理組合」のような組合が組織されたり、「港湾局」が設立された後においては、それらの組織に事前によく相談してからボート遊びを行うべきである。

また、現在においても、トラブルを避けるためには、一応は筑波大学の池でボート遊びを行う前には、大学の施設部や学生生活課に事前に相談をしておくことが望ましいといえる。