泣きと抜きの政治学


⇒id:seijigakutoさん、マジで言ってんのそれ? - あままこのブログ


⇒ポルノについての個人的な意見 - WinterMuteの日記


inspired byとしてリンクしますが、ほぼ独り言として。


『CLANNAD』を私はゲームどころかアニメもほとんど見ておらず、よって何も知らないのだが、人生と真面目に力説する友人の啓蒙にはよく触れていた。父になる男の成長物語で、男になることとは女性たちとの関係の中でまがりなりにも父になることだ、と。実際、友人はそうした問題と直面していた。


私はどういう話か知らないので聞くだけだったけど、それなら『莫逆家族』と同じだな、と思って、『莫逆家族』は私はとても好きなので頷いた。『莫逆家族』なんて家父長制肯定に決まっているのだが、あれを家父長制肯定として片付ける者を私は馬鹿と見なすだろう。『莫逆家族』の世界は歪んでいますね、って当たり前の話。イーストウッド然り、人が歪んだ世界を描くことの理由がわからないかな。――amamakoさんの見解に対して言っているのではまったくないが、ある種のフェミニズム批評に対してはそういうことを思う。


絵柄に乗れず、アニメも観ていなかったけど、今年の2月だったか、覚えているのは確か村上春樹について論争的なエントリを書いている最中だったからだが、『CLANNAD AFTER STORY』をエントリ書きながら偶然夜中のTVで見た。主人公が娘を連れて父親を訪ねる回で、私は話の流れも前後もまるでわからなかったけど、気が付くと号泣していた。


そうだよな、男は父親になって自分の父親を受け入れないといかんのだよな、それが父になるということなんだな――とこみあげる嗚咽と共に思いながら、しかし自分の父親と関係改善する意思はまったくなく父親になる予定もない私なのだった。面白かったのは、というか当たり前のことだが、男は父親になって自分の父親を受け入れないといけないと思ってTVの前で泣いている私は、リアル父を受け入れる予定もリアル父になる予定もまったくないことを知りながら泣いている、ということ。私はTVの前で泣きながら、そのことを知っている。よく承知している。それが半ば生理的な感情の反射に過ぎないことを。


話の前後も次第もわからない私をそのあざとさ全開の描写一発で号泣させた『CRANNAD AFTER STORY』は、少なくともその回において、よくできた見事な「泣かせ物」だったのだろう。設定や演出のテクニカルなあざとさはよくわかった。そしてそのあざとさは、父を殺し損ね、あるいは受け入れ損ね、父になり損ねている男たちの「小さな成熟」への希求を衝くために捧げられている。それなんて村上春樹? 

â– 


小説家村上春樹も、半分は未だにそういうことになっている。半分とはつまり、小説家村上春樹は「小さな成熟」を希求することの根源的な困難についても同時に言明するからだが、なべて言えることは、その技巧に満ちた精緻な作為は私たちを現実の残酷から癒すものとしてあり、決して現実の残酷にコミットさせるものではない。――ということで、私は当時、村上春樹についてそう書いた。


現実の残酷に対する私たちの困難について「小さな成熟」の希求とその根源的な困難と共に指摘することは、私たちを現実の残酷にコミットさせることはなく、むしろ可能な限り遠ざける。父との問題を抱えて父になれない私たちの胸をあざとく衝いて泣かせることは、なんら私たちを父にはしない。いや、私たちを父にする物語こそまずいので、友人にとってクラナドはガチでそういうものとしてあるらしかった。私も『グラン・トリノ』を観たときは、『莫逆家族』を改めて読んだときと同様に、些か真面目に人生について考え直した。人生改善計画は現在進行中。


当然のことながら、『CLANNAD』に描かれた「父」と私のリアル父は違う。私には娘はいない。にもかかわらず、人は父の観念において泣きのツボを持っている、そのツボを、暗喩においてうまく押してくる。決してあざとくはないが、重松清だってそういう話を書く。しかし、洗練された暗喩を駆使して、そのぶん想像力において広範な――グローバルな――人々の父の観念を、泣きのツボとしてあざとく押してくるのが、そしてそのために技巧に満ちた精緻な作為を積み上げるのが、村上春樹とその後裔の様々な表現だった。


重要なことは、父の観念が人々にとって泣きのツボとしてあることで、むかし父の観念とはそういうものではなかった。父の観念が男性にとって泣きのツボとしてあること、それは、たとえば重松清が手を変え品を変え描く、小説を読むような現代の男性の問題ではあるだろう。――『逃亡地帯』で、脱獄囚を住民総出で夜通し焼き討ちするテキサスの田舎町の連中のように生きることができない、一人の夜を、あるいは二人の夜さえも小説を読んで過ごす男性の。あるいは女性の。



私は自身の抱える父の観念をツボとして押された。話の前後も次第も知らず見た『CRANNAD』にいきなり泣かされた。そのツボを、重松清の小説に押される人もいるだろう(私は重松清は素晴らしいと思うし、もちろんあれは家父長制肯定ではあらゆる意味でない)。『オトナ帝国の逆襲』に押される人もいるだろう。


そして――私はそうではないのだが、性愛をそのように考える人もいるだろう。自身の抱える性愛の観念をツボとして押されることと、他者を前提する性愛に対するコミットメントは違う。


泣くことと抜くことはよく似ている。泣きのツボは父の観念にあるのであって、リアル父にはない。その父の観念を泣きのツボとして育んだのはリアル父とのアレな関係ではあるが。だから、父の観念において泣くことはリアル父を否認することと同じこととしてある。むしろ、私たちは、いや私は、リアル父を否認するために父の観念において泣いている。そのためにクラナドを重松清をオトナ帝国を必要とする。


このことを性愛において変奏したときどうなるか。抜きのツボは「女性」の観念にあるのであって、現実の女性にはない。その「女性」の観念を抜きのツボとして育んだのは現実の女性とのアレな関係ではある。アレな関係とは、モテるモテないとかスクールカーストとかそういう話ではまったくない。権力の作動する場所の話。


だから、「女性」の観念において抜くことは現実の女性を否認することと同じこととしてある。むしろ、私たちは、現実の女性を否認するために「女性」の観念において抜いている。そして、そのことと現実の女性に対して他者として接することは、両立する。両立しうる。そのことを指して、賢者モードと呼ぶのだろう。

â– 


「何を今更」な話かも知れない。しかし端的に暴力嗜好の私は抜きのツボを「女性」の観念には持たないので、たぶんその点で、エロゲのことがよくわかっていない。自身の抱える性愛の観念をツボとして押されることと、他者を前提する性愛に対するコミットメントは違う。クラナドによって押された父の観念という私にとっての泣きのツボと、そのリアル父との事実上の無関係から演繹して、ポルノとしてのエロゲについて改めて考えた。クラナドが規制絡みで話題になっていて、思い出した。


そして――私にとっての泣きのツボとしての父の観念がそうであるように、個人にとっての抜きのツボとしての「女性」の観念もまた、パブロフの犬のごとく条件反射付けられた、権力作用の産物以外の何者でもない。当然それは政治的であって、だから私たちは、泣きのツボや抜きのツボという条件付けを政治的に吟味し点検しなければならない。それも批評の範疇ではあるが、しかしその暴力について政治的介入を望む人があることは致し方ない、としか言いようがない。そして反論するしかない。


ホルモンのことは知らないが、あまりに政治的な私たちの条件反射が、その身体性ゆえに、暴力的であることは違いない。「女性」の観念において抜くことと、現実の女性に対して他者として接することは、両立しうるし、当然両立させねばならないことだが、しかし両立どころか観念と他者の区別が付かないカテゴリーに規定された条件反射脳はまことに多い。脳とは比喩だが、比喩と思わない人は当然これから出てくるだろう。森昭雄のレベルに留まらず。


泣くことや抜くこと。身体的な私たちの条件反射が政治的なものとしてあることは、批評によって、あるいはフェミニズムによって、批判することはできるだろうが、はたしてその条件付けを解体することは可能だろうか。身体的な私たちの条件反射の政治性を統制しようとする「スターリニズム」は、サイバネティックスとして着々と実現されつつある。当然、エロゲは統制される。それは旧式のスターリンではもはやない。


「だから」私たちは泣くことや抜くことの政治的原罪を自己批判しなければならない、というのが旧式のスターリンだが、新式のスターリンは、身体的な私たちの条件反射の政治性を統制せんとする発想として現れる。それは、当然、身体的な私たちの条件反射それ自体をシステムにおいてテクニカルに統制することであり、その伝でいけば、条件付けそのものとしてある、と見なされるエロゲは真っ先に殲滅されるだろう。クラナドさえも。なにしろ、泣くことと抜くことは、よく似ているのだから。夜中TVの前でむせび泣いた私のように、密室で泣くことや密室で抜くことさえ、新式のスターリンは統制せんとする。政治的なる条件付けを、無力化するために。


莫逆家族(1) (ヤンマガKCスペシャル)

莫逆家族(1) (ヤンマガKCスペシャル)