殿様と図書館(自称されるアーキタイプ)


⇒2008-08-30

⇒2008-09-01

⇒図書館はあなたの家ではありません - The best is yet to be.

⇒http://d.hatena.ne.jp/pbh/20080902/1220357385


議論をちゃんと追いきれていないのだけれど、Romanceさんの問題提起とrajendraさんの主張は、相容れないものではないと思った次第。


私が思うに、問題とされているのは一義に排除それ自体ではなく、排除の正当化とそのために用いられる論理だろう。臭いのために図書館がホームレスを「排除」せざるをえないときもあることと、臭いを理由にホームレスの排除を正当と公式に主張することは、まったく違う。後者について問われているのが現在の議論だろう。そして後者はライブラリアン一般に対して問われるべき問題ではまったくない。


つまり、今更ではあるけれどホームレス問題として問われる排除の問題とは多数派性の問題であって、多数派の暗黙の合意において、普遍理念を志向する社会において普遍理念がスポイルされる、という問題としてある。むろん、そのこと自体は日本国憲法の公布以来ずっとある。多数派の問題ということではなくて、後述する多数派性の問題ということ。むろん括弧としての「多数派」とは政治概念ですがこれは政治問題であるからして。


昨今の課題としてあるのは、かつて暗黙に為されてきた合意が明示されるようになったということ。すなわち、普遍理念のスポイルが社会において公然と行われるようになった。そのとき持ち出される言説的資源として、多数派の多数派性が公言されるなら、まるっきり循環論法ではないか、というふうに私は思う。隠されてきたものが白日の無影灯のもとにさらされた、誰もそれから目をそむけなくなった、それが「要は、勇気が」の顛末かも知れない、あるいは。ポジティブな提言がポジティブをもたらすか私は知らない。


括弧付の多数派をそのことにおいて批判しているのではない。多数派性と普遍理念の間に存する相違について考察するべきだろうということ。多数派が事実性として存することとそれに準拠した政治概念としての多数派性と普遍理念とがよき関係を取り結んでいるならそれに越したことはないのだけれど、しかし普遍理念とは、政治概念の上位審級として多数派性から少数者を守るためにこそ存在するのであって、そうでないなら普遍理念など本来明文として要請さるものではない。簡単に言うなら、政治概念としての多数派性の暴走を抑止するためにこそ憲法という明文は存する。


公衆衛生概念の目的論というのはけっこう大事な話で、公衆衛生概念の目的外利用というか公衆衛生概念の目的論的転倒が何をもたらしたかと言うとき念頭に置かなければならない話がある。公衆衛生概念が人間性の肯定/否定のジャッジとしてガチで用いられたのが健康帝国ナチスであった。健全なる精神は健全なる肉体にとどまらず清潔なる外観に宿るとしたのがあの帝国とその世界観。


健康帝国ナチス

健康帝国ナチス


私は緒方貞子氏の有名なスピーチを思い出す。難民に尊厳を、というその言葉は、難民の尊厳を物理的に保障するものなきことにとどまるものでなく、難民の尊厳を暗に割引く「先進国的な」無数のファクターとその言説をも射程とするものだった。しかし不潔な人は困るだろう、というのは仰る通り。その仰る通りを国家が行政が公式に是とするべきではない、という話。公衆衛生概念をひいては疫学を否定しているのではなくて、公衆衛生概念において尊厳概念が割引かれるものであってはならないし人間性が公的にジャッジメントされるものであってはならないという話。


伊吹文明先生のように、近代国家において国の殿様は国民であって年貢を出すのもまた国民、と言うなら、そもそも図書館に年貢を納めたがる国民が少なくまた年貢を納める以上は殿様たらんとする、ということではあるでしょう。むろん年貢を納めない手合は村八分に遭ってやむなし。そのとき国家主義の擬制において普遍理念はどこかにうっちゃられるわけですが。


日本という近代国家における国家主義の擬制と普遍理念はそもそも馴染まないのであって日本国憲法はそれをあたかも架橋するかのごとく見せかける欺瞞に過ぎない、ということには同意しますが。そして私は近代国家における本音と建前について言説として本音を採る主義では必ずしもない。というか採りたくない。

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排除それ自体の是非は措いて議論すべきと私は思いますが、しかし排除は必要悪と公然と言うなら、自身が排除される側であったときのことについても公然において言明してほしい、さもなくば話にならない。威嚇の類でもダブスタ云々でも想像力云々でもなく、それなくして公的な議論にはならないから。


私は是非に限定して問うなら排除を仕方なきこととしますがそれは以下のような話においてであって。すなわち国家が普遍理念を志向することと社会が――政治概念としての多数派性においてとは必ずしも言いませんが――そうでないこと、その狭間に死刑制度が存すると考えている。


⇒社会正義の臨界――光市母子殺害事件高裁判決 - 地を這う難破船


しかし強姦魔でも殺人鬼でもなく、ホームレス一般において排除云々が是非論として問われるのは、なんというか、差別云々以前にカジュアルな話だなぁとは思います。カジュアルな排除とカジュアルな排除の論理と。市民社会における排除とその論理とその妥当を公に議論するなら、自身の排除について言及していただかなければ話にならない。


つまり、そのように考えればわかることなのだけれど、市民社会において自身の排除を是とするということは自身を措いてなお維持さるべき市民社会とその正義があると考えること。疑いなく私はそのように考えるし、対して、自分はそのようには考えない、少なくともそんなものは正義ではない、と上記のエントリに対してmojimojiさんはかつて反論を寄せてくれた。誰かを措いて維持さるべき市民社会とはそれ自体が不正義であると。


確かに、私の立論は排除される者の自己了解という納得すなわち実存問題に限定されていたとも思う。ただ私は自己了解を迫る市民社会とその正義を必ずしも正義の名に値しないとは思わない、ということ。


私が思うことは。少なくとも、誰かを措いて維持さるべき市民社会を不正義と普遍理念は規定している。だから、普遍理念と市民社会の懸隔こそがこのようなことについては問われる。なぜなら、普遍理念の実装を正義として国家に対して要求するのが市民社会であるから。そして日本国において市民社会の要求に基づいて死刑制度が実装されている、正義として。その懸隔こそが問われる。


「民度」とはそういうことであって志向する普遍理念と現在の市民社会の懸隔において民度は問われ量られるのだけれど、しかし私は民度を云々する気はないしその趣味もない。私は原理的に死刑廃止論だが日本という市民社会の要求を了解する。ただ、普遍理念と市民社会の懸隔について考察する以外に排除の問題を言説として問う術はないとは思っている。


排除は悪しきことだが必然であってそして自分は排除されないようにやっているし振舞っている、というのは、私も表向きそうしているので構わないけれども、言明することではない、というか、それだけを言明したところで議論にはならない。自身の正しさの主張に過ぎない。自身の正しさを措くところから議論は始まる。

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悪臭が気になる? だったら家に帰ればいいのです。あなたには帰る家があるんでしょう? 経済的に困窮しているために衛生状態を保つのにも苦心している人たちが、寒さや暑さを避けて図書館にやって来る。当然受け入れるべきだ。悪臭の程度がひどければそれだけ、積極的に受け入れるべきです。*3気を遣わせないように配慮してもいいくらいです。不本意ながら不衛生な状態におかれているホームレスがあなたの前に現れ、そのことが悪臭云々を含む「快適性の問題」として意識されるとき、それはただあなたの快不快の問題なのではなく、ホームレスという社会問題に対するあなた自身の態度を問われているのです。ホームレスを生み出した社会の成員でありながら、ホームレスを「公共空間における悪臭」としてしか捉えられないとすれば、それは恐ろしいことです。


図書館の目的に沿っていない? だったらホームレスの人に、雑誌の一つくらい膝に乗せておいてくださいとアドバイスすればいいだけだ。


ホームレスは納税してない? この勝谷とかいう人何言ってんの? 課税最低所得額っていうのがあるんだよ。*4金ない人は税金なんて払わなくていいんだよ。国家は会員制のスポーツクラブか何かか? 違うだろ。納税と生存権保障を勝手に結びつけるなよ。まあいずれにせよ消費税くらいは納めてると思いますけど。

2008-08-30


納税云々について言うなら、先に記した伊吹文明理論の問題とは思う。同一人としての年貢を納める殿様で近代国家は構成されている、年貢を納める殿様はノーブレス・オブリージュなきとき容易に暴君たりうるだろうし独裁者たりうるだろうしリヴァイアサンたりうるだろう。普遍理念とは建前であってそして建前に過ぎない事柄は年貢を納める殿様にとっては関係のないこと。


国家に行政に個人が個人として要求する態度が概して批判にさらされるとき、建前の履行を国家に求めることなどおぼつかないに決まっている。ゆえに人は国家に行政に要求するときその正統性に依拠せざるをえない。正統性とは、年貢を納める殿様であること、そして年貢を納める殿様は国家においてひいては行政に対してアーキタイプとしての同一人であること。「殿様」はひとりしかいないのだから。つまり年貢の多寡の問題でなくそれをして平等と見なしているらしい。なおそのとき消費税は年貢ではない。殿様の別名を、善良な市民と言う。むろん宇野氏のことではない。


国家とは年貢を納める殿様という自称されるアーキタイプの――言うまでもなく実際には政治概念としての多数派性の――私有物であって、公共財でない以上は普遍理念が権力の正統性を担保する必要もない。権力は存在するがその起源を問うことはない。権力とは政治でなく年貢を納める殿様という同一人に担保され同一人に奉仕する公平なる行政システムであるから。そして権力を事実性と考える人が人権真理教批判を今更ながらぶってみせるのだから呉智英読者として私は悲しい。放言を重ねるが、権力の根拠を唯一事実性に求めるなら中国にでも逝ってください。


普遍理念と市民社会は懸隔どころかとうに乖離しているのだった。市民の要請に即した行政サービスが朝令暮改を経て朝三暮四へと至るなら。朝令暮改と朝三暮四はアーキタイプとしての同一人がぐるぐると自作自演のごとく循環させている。つまり、年貢を納める殿様を善良な市民と翻訳する時代錯誤な誤訳において。自称されるアーキタイプにおいて。


Romanceさんの主張に即して言うなら、困窮者の手当てを国家に行政サービスに求めたところでそうは問屋が、すなわち年貢を納める殿様が、自称されるアーキタイプが、下ろさない。そして年貢を納める殿様が困窮者の手当てにいい顔をしないとき普遍理念に照らしてその人権意識を問うたところで、年貢を納める殿様が困窮者の手当てにいい顔をしないことは変わらない。あまりに自明なので少しげんなりする。つまり、人権意識とは年貢の問題ではないから。所謂フリーライダー問題のきわめて端的直截な事例が此処にある。なお、傍から見て事情の所在を察しうる人の行動に徒に目くじら立てない、というのは所謂人権意識ではないが、それで悪いとは私は必ずしも思わない。人間はそうやって互いを思いやってもきた。人権意識に必ずしもかかわらず。

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このような状況下を前提して、ひとつ言えることは、幾度も書いているが、責任すなわちケツ持ちの問題ということがある。迷惑と誰かが思った利用者に誰が何においてダメを出すか問題。むろん思った誰かが自身の感覚見解においてダメを出せば宜しい。混雑する図書館の席で居眠りして鼾かいていた若造を杖でシバいて席から追い払った御老体を私は知っている。


個人としてダメを出す、すなわち注意することは個人の自由。むろん論駁ないし反撥することも個人の自由。しかし館内における利用者間の暴力事件や刃傷沙汰はライブラリアンとしては極力避けたいことに決まっている。だから、という検討の結果として女性専用席は設置されたのだろうと察する。つまり、誰かが個人として注意することそれ自体を図書館ひいては公共施設におけるリスクとしてスポイルし排除することの延長として女性専用席の設置という一見政治的に正しいすなわち誰も責任を負うことない「ホームレス対策」がある。


図書館に限った話でないことは言うまでもない、というか、図書館はよくもったと思う。なお「迷惑と思うべきでない」「思ったとして当人に対して言うべきでない」は他者概念なき排除容認論と同程度には公的な議論にならない意見です。


対するに、ライブラリアンが個人として行政官として責任を負って迷惑と誰かが思った利用者に対して注意を促すべきとは、現況に照らして到底私は傍から言えるものでない。そもそも私が現在よく利用する地域図書館もまた今年から業務の大部分が外部委託されている。個人として行政官として責任を負うことがデフォルトで難しいのが日本の役人であり公務員であり行政組織である。そして「責任問題」となる事態は個人が引き受けさせられる。「起こってしまった」後で。


市民社会という年貢を納める殿様の合意においてホームレスを排除し遺棄してきた日本の行政のシワ寄せが図書館を愛し書物を愛するライブラリアンのもとに行き着くことには、私は賛成できない。アニメしか見ていないが『図書館戦争』もまたそうした話だった。市民社会という年貢を納める殿様の合意において遺棄されるライブラリー。ホームレスが遺棄されるように、図書館もまた遺棄される、市民社会という年貢を納める殿様の合意において。飢えた子の前で文学は可能かという問いには、かつて私は文学において物理的な飢えをしのいだ、山田風太郎の不戦日記のように、と答える。


年貢を根拠とする殿様根性がまずい、とは私は言いたくない。想定に基づく性根や心性の批判に私は関心がない。ただ、年貢を納める殿様という市民概念の誤訳がホームレスの遺棄をライブラリーの遺棄を結果する合意を市民社会において形成してしまった、ということは記しておきたく思う。つまり、近代は微妙に遠いと。普遍理念の以前に市民社会とはそういうことではない。


私は鼻が完全にバカなので臭いというのがガキの頃から本当にわからない。だからそのことについてはなんとも言えない。耳も遠けりゃ目も近い。どうすりゃいいのかね。いずれにせよ20年来本屋と古本屋と図書館に入ると部屋とYシャツと私のような意味で本と本棚と自分以外気にならなくなるので、図書館利用者としての私自身にはあまり関係のない話なのだ。むろんそれは私個人の事情に過ぎない。


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