「誘惑される意志」


誘惑される意志 人はなぜ自滅的行動をするのか

誘惑される意志 人はなぜ自滅的行動をするのか




1年ほど前の本.表紙の雰囲気や書店の展示棚から行動経済学系の本かと思って油断して後回しにしていたが,読んでみるとむしろ自由意思*1とは何かについての興味深い本であった.ただしとても読みづらい.1つには扱うジャンルが哲学と心理学と経済学と生物学にまたがっているにもかかわらず,初心者に向けての配慮はかけらも見せずに密度の高い議論を繰り広げるスタイルで,すべてに通暁していないとなかなか簡単に議論について行けない.また叙述スタイルも難解で,歯ごたえたっぷりであり,各章にまとめがついていなければ遭難必至という感じである.しかしがんばって読む価値はある本だ.


本書の最初のポイントは自由意思とは何かについての興味深い仮説だ.
本書では最初にこれまでの自由意思の説明,及び何故ヒトは自滅的な行動(中毒が典型的)をするのかについての,これまでの説明と,それがまったく説明になっていないことを概観している.認知理論は因果を説明できない.そして個人が合理的であるなら物事の価値ととるべき行動の選択については効用主義をとるほかなく,そして将来価値については指数的に割り引かなければならない.しかしそれでは自滅的な行動を説明できないのだ.


著者はまず将来価値の割引について双曲的に割り引いていることは実験的に事実と受け入れるべきだと主張する.ハトやラットの実験結果から言って,鳥類や哺乳類について広く見られる割引様式であるようだ.(ここについての進化的な議論は本書の関心の外になるようだ.しかし興味深いので別エントリーでまとめて考察しよう)


そして将来価値について双曲割引を行うと時間の経過とともに価値逆転が生じる.短期的な価値を過大に評価してしまうのが自滅的な行動を説明できる唯一の説明であり,この価値逆転に対処するために(長期的な将来利益を守るために)自由意思が生じたというのが本書で展開される仮説である.自由意思は長期的利益のエージェントだというのだ.
もっともこれは進化的な説明なのかどうかは明らかではない.文脈的にはヒトが双曲割引を越えて長期的な利益を入手するために必要だとあるだけで,進化的な説明ではないという趣旨のようだ.しかし進化ではなくどうしてこのようなメカニズムが生じるのだろうか.ここについては説明がない.進化的だとするなら,ハトやラットでは双曲的な割引が適応的なのだが,ヒトは指数的な方が適応的で,さらに割引率を指数化するより自由意思を進化させた(その方がコストが低いか,あるいは指数化には適応地形等の制約があった)ということになる.
あるいはハトやラットにも自由意思があるということかもしれない,むしろハトの実験結果からいって本書はハトやラットにも自由意思を認める立場かもしれない,とりあえず,先に系統的に双曲割引が進化して,後から自由意思が進化したなら進化的に考えて必要な説明は同じになる.(最初から双曲割引と自由意思がセットで進化したという立場も可能だが,その場合そもそも合理的であるべき指数割引はなぜか進化できず,双曲割引+自由意思が進化したということになる)ここは詰められていないし,そもそも著者にそこの問題意識がないように思えるのは残念なところだ.


ともあれ,至近メカミズムとして,ヒトは将来的な効用について双曲的に割り引いていること,そして自由意思がその割引価値にもかかわらず長期的な効用を選択させる働きをしているということを(なぜそれが進化したのかを別にして)いったん認めるとしよう.そこからが本書の奇想天外かつ重厚な面白さの領域だ.この至近メカミズムの結果何が生じるかということについて深く考察される.いずれも興味深い考察でうまくだまされたような読後感が感じられる.このあたりは読んでみてのお楽しみというところだ.



まずエインズリーはいろいろな双曲割引から生じる時間の経過に伴う価値逆転の例を挙げて,これらは同一の現象だと主張する.あげられるのは中毒,強迫的行動(このあたりまではわかりやすい),くせ,さらに超短期的には痛みもそうだというのだ.(痛みはそれに注目せざるを得ないところがそうなのだという)
続いて自由意思に関わる諸現象を,長期的利益と短期的利益をエージェントのように扱って,「利益」同士の競合から解説するというまたまた意表をつく解説が入る.
そして「長期的利益」サイドの戦略として,オデュッセウス型コミットメント,情報遮断,心の準備,個人的な誓いという現象を説明する.個人的な誓いについては長期的な報酬をうまくまとめるという観点から解説されている.
さらに「長期的利益」と「短期的利益」の間の繰り返し囚人ジレンマゲームの観点からの分析,割引率を巡る競合などの解説が続き,「一体的な自己」という感覚こそフィクションだと主張している.


ではなぜ私たちはこのような自己の中の「利益」同士の競合について気づいていないのか.これについてそもそも自覚する必要はないし,自分で決めたルールよりも外から来たルールとして扱う方が「長期的利益」にとって都合がよいからだとする.


次は様々なパラドックスが実は双曲割引と長期的利益エージェントとしての自由意思で説明できるという解説.まず「意図が実現しないとしても意図することができるか」という哲学的な問い,「意思の自由についての決定論と主観的感覚のギャップ」「行動が意識に先立つことの謎」はいずれも異時点間利益の無意識下の交渉過程として理解できるという.その中核にあるのは再帰的な自己の将来行動の予想プロセスはカオス系になると言う洞察だ.このカオス性についてはかなり興味深い説明だと思う.



そのあと,一転して自由意思の暗黒面についての説明になる.自由意思による個人的な誓いによって長期的利益を守ろうというメカニズムは,エインズリーによると,完全ではない.まず誓いによるルールは必要以上に強化され,強迫的固定的になりやすい.失敗したことが大きく評価されて正のフィードバックがかかりやすい.それに対応して失敗を認知しないように自己欺瞞が生じやすくなり認知が歪む.などがあげられている.



続いてその暗黒面への対抗を考察する.エインズリーの説明によると,知的生命体は報酬を高めるためには自由意思に対抗しなければならない.そしてその対抗方策を考察することによって,1.事実としての意外性の報酬における重要性,2.他人への共感,代理体験,3.間接性 を説明できるというものだ.

まず意外性.報酬には主に感情面で報酬を得る場合がある.ではそのような報酬の場合,なぜ感情だけ操作して報酬を得ることはできないのか.これについて究極因としての進化要因の説明を考えるとすれば答えはあまりにも明白だが,エインズリーの本書における説明の目的はあくまで至近的な説明だ.
エインズリーによると,報酬の量は,自己のコントロール外にある意外性のある事実と自分のポテンシャル(動因;欲求など)に依存している.意外性が重要であるということは意思の力により報酬を得ようとすると報酬が減ってしまうということになる.これは映画などではストーリー展開の意外さが楽しい(ネタバレすると楽しくない)ことからわかる.エインズリーはギャンブルが報酬になるのはこの意外性からくるのだと主張している.また感情報酬の場合にこれをどのようなスピードで充足していくかによって,報酬の総量が変わってくる.意思のみにしたがって欲求を充足する場合に,ここに双曲割引が加わると,じっくりゆっくり楽しんだ方が報酬が大きくなるにもかかわらず性急に感情報酬を求めてしまうことが生じる.

要するに報酬を感じる感情自体が双曲割引と深く関わっている(つまり双曲割引という性質がなければ,自由意思は存在せず,さらにそれに対抗するためのいくつかの感情は存在し得ない).


次に映画などの代理体験でも報酬が得られるのはなぜか.エインズリーの説明は,共感は他人の反応をモデリングするためにあり,感情の共感はそれを実感するためにあるから,(副産物として)報酬が得られてしまうのだろうというものだ.さらにではなぜ他人の不幸を喜ぶようなマイナスの共感が生じるのか.(これは進化的に考えれば不思議でも何でもなく明らかなような気がするが,やはりエインズリーの目的は至近的に説明することだ)エインズリーはホラー映画と同じで中毒期間の誘惑のようなものだと説明しようとしているが,さすがにここは苦しいだろう.


最後に間接性の謎について考察がある.ここでいう間接性とは直接報酬を求めに行くと得られる報酬は少なく,回り道をした方が大きいということが多いことを指している.エインズリーの挙げる例は,眠ろうとすると眠れない,単純に性交をするより,いくつものステップを踏んでベッドをともにするようにした方が楽しい.裸よりある種の衣服を着ている方がセクシーに感じる,より技術習得が難しいようなスポーツの方が楽しい.などだが,ちょっと雑多なものが混じっていて単一のメカニズムで説明するのは苦しいような気がする.
これについては自分でコントロールできないことからくる報酬の方が価値が高いと言うことからくる現象の1つだと考えると良いという主張をしている.結局最初の意外性の主張とほぼ同じような主張に感じられる.


本書の内容を乱暴にまとめると以下のような主張だ.(1)まず事実として双曲割引と自由意思があり,自由意思は双曲割引を是正する機能を持っている.そうでなければ自滅的行動を説明できない.(2)さらに自由意思にも不合理な点があり,さらにこれを是正するメカニズムがあるはずだ.(3)この仮説が正しければ,各種の現象を説明できる.
(1)は認めて良いのだろう.ただし進化的な説明については非常に興味が持たれるが,あまり考察されていない.(2)(3)については興味深い論考だと評価できるだろう.ただし単純な至近メカニズムからの説明にこだわり,ちょっと無理筋の説明もあるような気がする.いずれにせよ啓発的で,興味深い本だ.




関連書籍

原書

Breakdown of Will

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原題の方が本書の内容にあっている.しかしカバーはあまりにも暗い.このカバーでかつこの原題を直訳したような邦題をつけたら売れ行きは悪いだろう.

*1:本書では一貫して「意志」の字を当てているが,私的には「意思」でないと気分が出ないので,本レビューでは表記を「意思」に統一させていただいている

 双曲割引の進化的な説明について

誘惑される意志 人はなぜ自滅的行動をするのか

誘惑される意志 人はなぜ自滅的行動をするのか


本書「誘惑される意志」を読んで,双曲割引の適応的説明についていろいろ考えたのでちょっとノートしておこう.


私のような読者からはなぜヒトのみならず鳥類や他の哺乳類まで双曲的に価値を割り引いているかの進化的な説明がもっとも気になるところだ.本書ではここについて,(1)指数的な割引より双曲的な割引の方が血縁淘汰的に有利になるからという説と,(2)脊椎動物の認知ツールの副産物説 の2つが紹介されているのみで物足りない.


まず(1)についてだが個体のみでは指数割引の方が合理的だが,血縁淘汰があるために双曲の方が良いとは考えにくい.特に異時点以外では血縁淘汰が有利であればそういう行動がいとも簡単に進化しているのに対してまったく説得力がないと思う.また例えば100年後に子孫に何らかの利益があるという場合,むしろ指数的な割引の方が,自分の死後の子孫の利益をより考慮可能になるのではないだろうか.


また(2)副産物説だが,なぜよりメリットの大きいと仮定される指数割引が進化しなかったのかの説明理由がないと意味がないように思う.というよりそれこそが説明を求められている問題だろう.例えば適応地形的な制約などについて詰めていくべきことになるだろう.(解説で訳者の山形氏は回路設計が簡単で実装しやすいという説を出している.これは意訳すると指数割引回路は実装可能だが,その合理的な行動によるメリットよりも実装コストの方が高いという考え(それもまた考えにくいように思う)か,もしくはそのような回路はなんらかの理由により実装できなかったという考えということになるだろう.後者であれば認知ツールの副産物説とほぼ同意だと思う)


私としては,双曲割引を進化的に説明するなら別の仮説を考慮したいところだ.


まず実験で明らかになっているのは,一定に割引率を持つ指数関数に対して,遠い将来になるほど割引率が大きくなるという割引率の変化の問題だ.要するに割引率を変化させた方が適応的であればよい.


最初に考えられるのは死亡率は時間とともに変化するということだ.近い将来の死亡率はそれほど大きくないが,だんだん死亡率が高くなるのであれば双曲的な割引の方が合理的になる.100年先の利益は非常に小さく評価した方が良いのはこのためだ.もっともヒトについて15歳以上であればこういう傾向はあるかもしれないが,幼児死亡率が高いので年齢が若いうちは逆になるだろう.また数週間や数ヶ月の時間ではあまり大きく現れないだろう.だからおそらくこれでは説明できない.


ありそうなのは,個人の効用の評価関数が不安定だということだ.今欲しいものは明日には欲しくないかもしれない.2年後ならなおさらだ.この評価期待値の低減率が時間に対して一定でなく,ある条件が満たされているうちは小さく,何らかの事情が生じて必要でなくなると急に大きくなるのであれば双曲割引の方が合理的だろう.


もうひとつ考えられるのは,将来に入手が確実だということは動物でもヒトの農業以前の環境でもあまりなかったであろうということだ.入手確率は一定割合で逓減するのではなく(それなら指数的に割り引くべき)ある条件の満たされているうちは低減率が低く,どこかで(嵐があったり,別の誰かに食べられたりして)急に入手確率が低くなる状況が多かったのかもしれない.


いずれにせよ検証は難しいだろうが,興味深い論点のように思う.