川原泉『レナード現象には理由がある』(白泉社)
ホモフォビアの疑いで責められている本書だが。
ホモフォビア……というより、他者に対する酷薄さ、自己中心性、とでも呼ぶべきではないのか。
たとえばはてなでどなたかが指摘していたことだが、ホモフォビア疑惑で問題となっている「真面目な人には裏がある」で目に付くのは、「可愛らしい数字」の偏差値と形容されるユリアナ女子高校の生徒たちに対する登場人物たちの(そしておそらくは作者の)視線の酷薄さだ。ありていに言えばそれは差別意識などという生易しいものではなく、それ以前のもの、いわゆる「差別意識」においても普通は存在しているような、対象への関心の見事なまでの欠落である。
更にいえば、この「真面目」で最も異様に映るのは、ゲイの登場人物たち(主人公たちの兄たち)の描き方ではない。主人公日夏晶において「家族・兄弟がゲイだった」という驚きが欠如しており、あくまでも他人事としてしか感受されていない、ということだ。それは決して彼女に「ゲイへの免疫」だの「同性愛者への理解」だのがあったからではない。彼女はゲイに直面して驚いている。しかしそのとき彼女が驚き恐れおののいている対象としてのゲイの中には、実は兄ははいっておらず、兄の恋人(同級生塔宮拓斗の兄でもある)のみである。
もちろんこのとき彼女が兄の恋人におののいたのは、彼がゲイだったからではなく、異様な人物だったから、という解釈も成り立つ。しかしながら百歩譲って主人公日夏晶の視線がそのようなものであった――兄がゲイであることを受容しつつ、兄の恋人の異様さに驚いた――としても、作者川原泉の視線は違う。その証拠は次の会話に見られる。兄の恋人による訪問の翌日、学校で日夏晶は、ボーイズラブを貸してくれた友人草壁さんに事情を話す。そこで草壁さんは次のように反応する。
「うわあ〜〜っ やっぱ本物のホモっているんだねえ〜〜 しかもそれが塔宮・兄?」(142頁)
なぜここに「日夏さんのお兄さん?」の一言が入っていないのか?
ここでお断りしておくが、私はかつて川原泉の熱心な読者であったし、今でも好きなまんが家のひとりではある。だから別に川原泉を糾弾しようというわけではない。
しかし省みれば、川原泉の作品には一貫して、このような酷薄さ、身勝手さが潜在していたように思われる。たとえば『笑う大天使』における司城史緒の兄。彼は結婚相手たるべき女性たちに、「自分より妹を優先してくれること」を望む。しかも彼はそのことを明言しない。言わなくても相手がそうと察してくれることを望むのだ。これは決して「美談」として処理してよいものではない。しかし川原世界ではそうなってしまうのだ。
その酷薄さは少なくとも川原の全盛期においては、その魅力と裏表のものであったのかもしれない。しかし今はその酷薄さこそが前面に出ているように思われる。
なぜか?
8月26日追記:
草壁さんのせりふについて注釈。
要するに問題は、本作において日夏晶の兄は「ゲイであってゲイではない」「ゲイではあるがゲイ扱いされていない」ということだ。日夏晶は、というよりも作者川原泉は、別に晶の兄がゲイであることを受け入れたわけではない。単に判断停止している、ないしは忘れている、棚上げしているだけだ。
日夏晶の兄のキャラクターにおいて、重要なこと、そのキャラの本質とは「日夏晶の兄」たるところにあって、「ゲイ」という属性はその本質には属しておらず、周辺的、偶然的なものに過ぎない。それに対して塔宮拓斗の兄においては違う。「ゲイ」たることは彼のキャラクターの本質部分に属する。
草壁さんの世界了解、そしてその背後にある川原泉による作品理解において――そしてそれは晶にも共有されているわけべきだが――日夏・兄はまず「日夏さんのお兄さん」であってその上ではじめて「ホモ」であるのに対し、塔宮・兄は何よりもまずもって「ホモ」なのである。日夏・兄は「ホモ」であろうがなかろうが「日夏さんのお兄さん」であるが、塔宮・兄について「ホモ」であろうがなかろうが、という考え方は彼女たちにはできない。