『ストーンオーシャン―ジョジョの奇妙な冒険 第6部』を読む

はじめに

大変いまさらな話題なのですが、『ユリイカ』の荒木飛呂彦特集(11月臨時増刊号)を年末に購入して読みました。そうしたらやっぱりジョジョを読み返したくなってしまって、年末年始からマンガ喫茶で読みふけっています(最近出た第4部のノベライズ版も購入したのですが、残念ながらまだ読めていません)。個人的には、ジャンプを読み始めた頃にちょうど始まったということもあり、「第4部」が一番好きなんですが、やはりラストの圧倒的な感じは「第6部」が抜群だと思っています。そこで唐突ではありますが、以前、第6部について個人的に書いてみた文章があるので、少し手を加えて、ここにアップしてみたいと思います:

時間を操作する能力

『ジョジョの奇妙な冒険』(以下、『ジョジョ』)の特徴のひとつに、Dioをはじめとするボス的存在が、ことごとく「時間を操作する」スタンド能力を持っているという点が挙げられる。第3部(Dio)は、時間を止めてしまう能力。第4部(吉良吉影)は、時間を巻き戻して「何事もなかったことにする」能力。第5部(ディアボロ)は、時間を「吹き飛ばす」ことで、物事の「過程」(軌跡)をすっとばし、いきなり物事の「結果」にショートカットしてしまう能力。あるいはその派生として、未来を予測する能力。そして第6部のボス、プッチ神父のスタンド能力は、時間の進みを急激に加速させる能力。そしてその能力は、ついには宇宙の終わりを宇宙の始まりへとつなげてしまうことで、この宇宙に起きた全出来事を「ぐるりと一周させてしまう」というものだった。

こう説明すると、プッチ神父の能力の異様さは際立つ*1。時間を止めたり、時間を巻き戻したり、時間を吹き飛ばしたりする能力というのは、基本的には少年ジャンプで「格闘マンガ」の体裁を取ってきたその劇中において、「戦闘を圧倒的に有利に進める」のに寄与する。『ジョジョ』を読んだことがない人であっても、そのことは容易に想像がつくだろう。しかし、時間を加速させてしまう能力というのは、そして宇宙を一巡させてしまうという能力というのは、いったい何に寄与するというのか? なぜ第6部のラスボスであるプッチ神父は、このような能力を身に付けたのか?

「偶有性」を馴致する方法としてのプッチ神父のスタンド能力

そこには、プッチ神父のある信念が深く関係している。プッチ神父はいくつかの過去を背負っていた。生き別れた(とされていた)双子の弟の存在。自分が意図せざる形で引き起こしてしまった、愛する妹の自殺。こうした不幸な過去の経験から、プッチ神父は、なぜ人生には「偶然」があるのかと問う。つまり、「なぜこの自分ではなく、彼/女らが死んでしまったのか」ということを彼は問い詰める。その運命は、すでに神によって定められていたのだろうか? しかし、そこに答えはもちろんない。ただそこには、「彼/女たちは死ななかったもしれない」という可能性――大澤真幸の言葉を使えば「偶有性」(contingency)――だけがある。その「偶有性」があるからこそ、プッチ神父は悩み続け、その解決としての「幸福」ないしは「天国」を求めることになる。

ここまではいい。いわゆる「宗教」というサブシステムの主要な機能は、(オウム事件よりももっと以前から宗教について論じていた)宮台真司によれば、プッチ神父を襲ったような、どうにも理由付けることのできない「過剰」で「端的」な出来事を――宮台はそれを「偶有性」ではなく「前提を欠いた偶発性」と呼んでいたが――無害なものとして受容可能にする点にある*2。ごく単純化した例を挙げれば、「偉大なる神がそれをあらかじめ決定付けていたのだ(予定説)」と理解する方法もあれば、「すべての出来事は関係しあって流転している(因縁生起)」と理解する方法もある、といったように。

しかし、『ジョジョ』の第6部において、プッチ神父がその「負荷軽減」機能を果たすために用いるのは、「宗教」ではなく「スタンド」である。プッチ神父はこう考える。人が「偶有性」に苛まれるのは、「覚悟」が足りないからだ。人は未来について確かなことを知ることができないから、覚悟することができない。覚悟をするためには、未来のことをすべて体験し、いつ何が起きるのかを完全に知ってしまう必要がある。そうであれば、人は何が起こるのか分からない生を肯定し、「幸福」に至ることができる。すなわち、それが「天国」なのだ、と。神父はこうもいっている。「明日死ぬとわかっていても『覚悟』があるから幸福なんだ!」「『覚悟』は『絶望』を吹き飛ばすからだッ!」 ハイデガー風にいうならば、こうしたプッチ神父の信念は、「覚悟」さえあれば、「いつ死ぬのかわからない」という《現存在的不安》さえも吹き飛ばすことができるということにほかならない。そしてプッチ神父は、物語の終盤になって発現するスタンド能力「メイド・イン・ヘブン」によって、時を加速し、世界を一巡させ、死の不安さえも消し去る「天国」へと至る扉を開こうとしたのである。

「永劫回帰」を現実のものにする

さて、こうしたプッチ神父にとっての「天国」ないしは「救済」とは、しばしば指摘されているように*3、ニーチェのいう「永劫回帰」を現実のものとし、人々を強制的に「超人」と化してしまうこと――ニーチェの「超人」とは、「永劫回帰」に耐えられる者のことでもある――に等しいということができる。それはどういうことか。

「永劫回帰」は、よくいわれるように、「輪廻転生」(生まれ変わり)のようなものとは異なる。人生は一回しかないが、もし仮に君が生まれ変わったとしよう。だが、その生まれ変わった人生においても、その前に自分が歩んできた人生と、まったく同じルートが繰り返し何度も反復されるとする。たとえそれでも、君はその無限のループを肯定できるのか? それほどまでに、君はその生きてきた一回の人生のルートを「よし、これが人生であったのか、ならばもう一度!」(『ツァラトゥストラかく語りき』)と肯定できるのか? これがニーチェのいう「永劫回帰」のおおまかな内容である。

このニーチェの思想は、きわめて独特で神秘的なものだが、ここではあえて、俗的な人生観に引き付けて理解してみよう。通常、人間は、自由に選択肢を選ぶことができるということになっている。いわゆる「自由意志」である。だが、残念ながら人生は一回しかない。自由に選択肢を選ぶことができるといっても、ただの一回しかその選択を選ぶことはできない。だからこそ、何か選択肢を選ぶ際には、決して後悔することのないように慎重に選ぶべきだし、仮に後悔するような選択肢を選んだとしても、それを後悔してはならない。そうした考え方は、しばしば人が何かを決意するときに頻繁に発するフレーズ、「だって、後悔したくないと思ったから」という言葉にも表れている。ニーチェの「永劫回帰」とは、「永劫回帰」というフィクションを挟み込むことで、こうした「後悔しない」という感覚を極限までに鍛え上げた思想であるともいえるだろう*4。

話を『ジョジョ』に戻そう。プッチ神父のスタンド「メイド・イン・ヘブン」は、この「永劫回帰」の思想を、まさに現実にもたらすものだ。人生は一回限りである。そして何が起こるかはわからない。そこで人ができることは、せいぜい、一回限りの選択肢を後悔することなく肯定することくらいしかない。これに対しプッチ神父は、すべての出来事を一周させて、あらかじめ何が起こるのかをすべて知ってしまうというソリューションを選んだ。これはまさしく、「永劫回帰」のリアル・バージョンとでもいうべきものだ。『ジョジョ』の作者、荒木飛呂彦は、しばしばこのシリーズのテーマを「人間賛歌」だと述べているが、第6部は、プッチ神父のその思想において、まさにニーチェ的な「超人賛歌」をやってのけているといってもよい。

「超人賛歌」 vs. 「人間賛歌」

そして第6部のラストでは、ラスボスであるプッチ神父と、主人公のジョリーンたちの対決が描かれる。そこでは、結果的に、主人公たちの抵抗もむなしく、プッチ神父による「永劫回帰」が発動してしまう。主人公であるジョリーンや承太郎たちは、プッチ神父の攻撃の前に殺害されてしまい、「永劫回帰」後の世界にはもはや存在していない(ただし、「微妙なかたちで」存在している。詳細はすぐに後述する)。ただ、主人公チームの一人であるエンポリオ少年だけは、死んだ主人公たちの捨て身の防御によって、なんとか「永劫回帰」後の世界にやってくることができた。エンポリオは、主人公たちによって残された「希望」として、ただ一人、送り込まれたのである。

さて、それが「希望」というのはどういうことか? つまり、なぜプッチ神父のもくろむ「超人思想」の実現は、主人公たちによって否定されねばならなかったのか? 作者は、第6部より以前に、こう述べていた*5。運命は確かにあると認めざるをえない。すべての出来事は必然であり、そこには意味がある。しかし、だとするならば、何らかの過程を通じて「努力」や「喜び」を描く「人間賛歌」の物語は、空虚なものになってしまうのではないか、と。どうせ結果が必然として決まっているのならば、それこそ第5部のボス、ディアボロのスタンド能力「キング・クリムゾン」のように、その過程を「吹っ飛ばし」たとしても同じことだからだ。だがしかし、作者の提示する「人間賛歌」は、たとえ運命があったとしても、その過程を「吹っ飛ばす」ことをよしとしない。作者はまた別の印象的なシーンで、次のような台詞を書き付けている*6。「わたしは結果だけを求めていない」「大切なのは『真実に向かおうとする意志』だと思っている」と。いうなれば、第6部におけるプッチ神父と主人公たちの戦いは、過程を吹き飛ばすことで覚悟を得ようとする「超人賛歌」側と、不確かな過程において意志を貫く「人間賛歌」側の対決、という様相を呈しているのである。

「ぼくの名前はエンポリオです」――「固有名」にまつわる悲劇

その対決の結果はどうなったか。「人間賛歌」の希望を託されたエンポリオ少年は、「永劫回帰」後の世界において、なんとか単独でプッチ神父を倒すことができた。プッチ神父による「超人賛歌」の壮大なプロジェクトは、夢半ばで潰えたのである。それでは、『ジョジョ』第6部の物語は、「人間賛歌」側の圧倒的な勝利で終わるのだろうか。そんなことはないのだ。プッチ神父は倒された。しかし、その結果、プッチ神父が「永劫回帰」を発動する前の「元の世界」に戻るわけではなかった。ジョリーンたちは、すでに前の世界で殺害されてしまったために、容姿はほとんどそっくりなのだが、やはり微妙に異なるかたちで(たとえばその「名前」が違っている)、この「永劫回帰」後のパラレルワールド的世界に存在している。エンポリオは、この微妙に異なる仲間たちと、この世界でも再会することができるのだが、彼/女たちは元の世界の記憶を有してはいない。そして最後のシーンで、エンポリオはかつての「仲間だったはずの人」に名前を尋ねられ、涙ながらにこう答える。「ぼくの名前はエンポリオです」と。

このエンポリオの台詞は、第6部のラストに圧倒的な印象を与えているが、それは人文思想系のある有名な議論を想起させてくれる。それは、クリプキ/柄谷行人による「固有名」に関するものである*7。クリプキ/柄谷によれば、たとえば「アリストテレス」という固有名(固有名詞)の意味は、「アレクサンダー大王を教えた哲学者である」といった定義付け(「確定記述」)を束ねることでは説明することはできない。なぜなら、「アリストテレスはアレクサンダー大王を教えなかったかもしれない」というような「ifの歴史」――ゲーム風にいうならば「別ルート」――に関する文章を、私たちは自然に使うことができるからだ。つまり固有名は、無限に存在する「可能世界」――そうではなかったかもしれない「偶有性」の領域に属する世界――を貫通する、ある種の神秘的な性質を宿した言語だということになる*8。

この固有名をめぐる議論を、第6部の結末に再度代入してみよう。エンポリオは、プッチ神父による「永劫回帰」の強制実行のせいで、かつての仲間たちは存在しないパラレルワールド、すなわち「可能世界」へと連行されてしまった。この永劫回帰後の世界において、かつて仲間だったキャラたちは、この世界では、姿かたちこそ似ているものの、固有名すら変わってしまった別人と化してしまっている。そしてエンポリオは、彼らに対して、自らの――元の世界と共通の――「固有名」を伝えることしかできなかった。固有名をめぐる一連の考察は、「エンポリオはジョリーンたちと仲間にならなかったかもしれない」という「可能世界」に関する記述を、理論的に妥当なものとして認める。それゆえエンポリオの最後の台詞は、なんら「固有名」の機能として間違ってはいない。第6部を通じて描かれてきたような、ジョリーンやエンポリオたちの歩んだ「過程」とはまったく異なる、そのような世界もまた「ありえる」し「想像可能」だからだ。

しかし、エンポリオが行き着いてしまった「永劫回帰」後のパラレルワールドは、「そうだったかもしれない」「そうでもありえた」という想像上の世界ではなく、まさに「現実」の世界として存在する。たとえ「エンポリオ」という固有名の使用法が、理論的に無謬であっても、エンポリオは元の世界の記憶を覚えてしまっている以上、元の世界こそが「確かな手触り」をもった世界であり、この世界はどこかが決定的に「間違っている」と感じられてしまう。しかし、その直感的な事態を、変わり果てた主人公の「ジョリーン」こと「アイリン」(と名前が変わってしまっている)に説明する手立てはない。しかも、元の世界では結ばれることのなかった「ジョリーン」と「アナスイ」の二人は、この世界では「アイリン」と「アナキス」として結婚することになっている。これは確かに、(プッチ神父による「幸福」の定義とは異なるが、)一つの凡庸な「ハッピーエンド」ではある。しかしエンポリオは、そのハッピーエンドを祝福できるだろうか。プッチによれば、「永劫回帰」は、人間に覚悟をもたらし、絶望を吹き飛ばし、幸福へと至らしめるはずだった。しかし、エンポリオたちは、仲間たちの意志を受け継ぎ、その救済を拒絶した。その結果エンポリオは、いうなれば「可能世界の間にはさまれた孤独」へと行き着いてしまったのである。

ごく普通に考えれば、これほど「大団円」から程遠い結末もない。この結末に直面した読者は、それまで何十巻にも渡って連綿と描かれてきた物語は果たして何だったのか、と思わざるをえないだろう。(雑誌ではなく書籍として出された)『モンスーン』の著者の表現を借りれば、それは「何のために戦っていたのか気が遠くなるような結末」であり、エンポリオが別の世界に飛ばされてしまったように、読者の側も「かなり飛ばされ」てしまう。その「偶有性」に開かれてしまった物語の結末に、しばし呆然とするしかない。

「ファイヤーエムブレム」よりも過酷なルール

さて、蛇足ではあるが、このエンポリオが置かれてしまった状況については、「永劫回帰=ループする世界」という設定を生かすならば、むしろゲームの比喩で――再度東浩紀の言葉を借りれば「ゲーム的リアリズム」の比喩によって――説明したほうがわかりやすいのかもしれない。それは『ファイヤーエムブレム』よりもさらに過酷な死のルールを、エンポリオに与えてしまったようなものである、と。

よく知られているように、ファミコン時代から続く任天堂のシミュレーションゲーム『ファイヤーエムブレム』シリーズは、途中で一度死んでしまったキャラは蘇らない(再生する方法がない)という点で、きわめて「過酷」なルールをプレイヤーに課している。そのため、もしプレイヤーが「誰も死なせない」という意味でのパーフェクトクリアを望むのならば、マップの途中でキャラが死んでしまった場合には、何度でもリセットして、そのマップを始めからやり直す必要がある(しかも厄介なことに、このゲームは基本的にシビアなバランスで、気を抜いてしまうと、誰かは死なないと先に進めないようなレベルデザインが施されている)。そして、「何度でもリセットしてやり直す」というプレイヤー側の体験が、とりわけこのシリーズの人気を熱狂的なものにしていた、つまりゲームのキャラクターたちへの「感情移入度」を高めていたことはよく知られている。

とはいえ、これは「ファイヤーエムブレム」に限ったことではないが、セーブデータをコンティニューするのではなく、新たにセーブデータを作成して「はじめから」を選択し、一からゲームを再開すれば、どれだけ他の世界では死んでしまったはずのキャラたちとの再会を果たすことができる。しかしこの場合は、以前のプレイしたキャラクターたちの装備やステータスといったデータ――上で使った言葉を使えば、他の世界で培われた「確定記述」――は失われてしまっている。こうした一般的なゲームのシステムに例えるならば、ニーチェ/プッチの語る「永劫回帰」とは、この「はじめから」を選択してやり直したとしても、最初から最後まで、まったく同じコマンド入力とルート選択で、ゲームを再度クリアするようなものと表現できる。

しかし、『ジョジョ』第6部のラストにおけるエンポリオの状態というのは、プッチ神父の能力によって「はじめから」を強制的に選択させられたのに、なぜだか前のプレイで一度死んでしまったキャラが、一切蘇ってこないという状態に近い。想像してみてほしい。あるゲームにおいて、たった一度のゲームプレイで殺してしまったキャラが、例えセーブデータを初期化したとしても、二度と現れなくなってしまうとしたら。一度そのパッケージを開けてゲームを開始してしまったが最後、二度とそのゲームをまっさらな状態からやり直すことは許されないのだとしたら。もしそんなゲームがあるとすれば、それは「ファイヤーエムブレム」よりもさらに過酷で、緊張感溢れるゲームプレイを強いられることになるだろう。エンポリオが最後に置かれてしまった状況とは、まさにそのようなものだ。

そしてこれは、「死んだら二度と蘇らない」という意味での「現実世界」のルールとも決定的に異なっている。なぜならこの特別ルール版の「ファイヤーエムブレム」が恐ろしいのは、主人公(プレイヤーキャラ)だけは生き返ることができるのに、他の仲間キャラは一切生き返らない、という点にあるからだ。どうせ他の仲間キャラがよみがえらないのであれば、自分も生き返らなければいいのではないか。というよりも、それが通常の人生の条件である。自分の生は一回限りでしかない。だから、エンポリオの置かれたような悲劇は通常発生しえない。しかし、エンポリオはそのようなルールを課せられてしまったがゆえに、ありえない悲劇的状況へと置かれてしまったのである。

「偶有性」へと開かれた/吹き飛ばす結末

ただし、このゲームの比喩もそれほど正確ではない。なぜなら、エンポリオはプッチ神父による「永劫回帰」の後に、「どことなく似ているが、しかし決定的に違う仲間たち」と再会しているのであって、完全に仲間たちが蘇らなかったわけではないからだ。正確に表現しなおすならば、それは主人公を取り巻く他のキャラクターたちが、以前のルートとは微妙に違った形で復活した状態、ということになる。しかし、奇妙なことに、それは一般的なゲームにおいてはそれほど珍しいことではない。たとえばシミュレーション・ゲームやRPGにおいて、仲間になるキャラクターのパラメータや装備といった「設定」が、一周目と二周目で微妙に変化していることは珍しくない。また、マルチシナリオ型のゲームであれば、ルート次第でまったく異なる性格のキャラになってしまうことも珍しくない(そして、ゲームの中のキャラクターたちから見れば、プレイヤーが取る行動もまた、選択するルートが違えば、まったく「別人」のように見えることだろう)。これらの事態を、私たちは平然と受け入れている。ゲームの中で、どれだけ多重人格的なキャラのあり方や多様な「ルート=可能世界」の道筋が提示されたとしても、基本的にプレイヤーを混乱させたり戸惑わせたりすることはない。なぜなら、それがゲームというものだからだ。

東の『動物化するポストモダン』は、こうした事態を「解離」という言葉を使って説明している。それは次のようなものだ。ゲームはシステム上複数のシナリオを用意する。近代的な見方をすれば、それは一連の物語の「齟齬」や「矛盾」や「分裂」をきたすものでしかない。しかし、ポストモダンの物語消費においては、複数の個別のシナリオは、もはや「物語」の水準で単一に統合される――「大きな物語」へと回収される――必要はない。人々がいまや求めているのは、ゲームの「システム」や「データベース(設定≒萌え要素の束)」が、「小さな物語」を大量に生み出す状況そのものであり、人々はそれらを次々と個別に消費するだけでよいからだ。東は、こうした「システム」(データベース)の層と「物語」(シミュラークル)の層がばらばらに消費される事態を、精神分析の言葉を借りて「解離」と呼んでいる。

しかし、『ジョジョ』の第6部が至った結末においては、いわばこうした「解離」の感覚を抱くことは――劇中のエンポリオも、そして読者も――難しい。なぜなら、それはごく単純なことに、『ジョジョ』がゲームではないからだ(ゲーム化は幾度もされているが)。確かによくいわれるように、『ジョジョ』という作品には、無数のスタンドが登場し、まさに「設定」の束によって無限に「小さな物語」が生み出されていく側面を持っており、それは一見すれば「データベース」的な作品ともいえる。しかし、一方でジョジョという何十巻にも及ぶ作品は、とりわけ時代を超えた信念や因縁の「継承」をテーマにしていることでも知られている(第3部の主人公「承太郎」にはそうした意味もこめられているという)。その過程を追いかけてきた読者にとって、第6部の結末は、解離的に「そのような世界もまたありうる」と受け入れることは困難なのだ。

以上の考察を踏まえるならば、第6部の結末においては、先に触れた「超人賛歌」対「人間賛歌」とは異なる、また別の「戦い」が描かれているとみることもできるだろう。通常私たちは、『ジョジョ』という一連の連続した物語から、「これこそが『ジョジョ』である」という強い「典型性」の感覚を読み取っている。『ジョジョ』という作品には、「ジョジョらしさ」としかいいようのない要素が満ちており、その「ジョジョらしさ」を代表するような要素(確定記述)をデータベースとして収集し、それを媒介とすることで、とりわけ『ジョジョ』を愛する者たちの共同体はネット上に密に形成されている。しかし、「確定記述」と「固有名」は理論的に峻別されてきた経緯を持つように、「これこそが『ジョジョ』である」という固有性は、当然のことながら、どれだけ「ジョジョ特集」的にその作品中のキャラクター、スタンド、セリフ、そしてジョジョ立ちといった要素をデータベース化しても、その確定記述の束に還元しつくすことはできない。これに対し、『ジョジョ』の第6部で提示されているエンポリオの状況は、「これとは異なる『ジョジョ』の形もありうる」という「偶有性」(訂正可能性)の感覚を、読者の側にまざまざと見せつける。つまり第6部の結末は、前者の「典型性」から後者の「偶有性」の感覚へと、読者を「吹き飛ばし」てしまうのである。そこで読者に突きつけられているのは、「それでも第6部の結末を『ジョジョ』として受け止めることができるのか?」というある種の挑戦状といってもいい。

(了)



あとがきにかえて:「時間を操作する能力」について

さて、上の文章には特にオチはないのですが、「なぜ唐突にジョジョ?」と思われたかもしれません。筆者の関心に無理やりこじつけてみるならば、『ジョジョ』のラスボスたちが持つスタンド能力と、ニコニコ動画をはじめとする昨今の「擬似同期型アーキテクチャ」は、「時間を操作する」という点で共通している、といったところでしょうか。冗談はさておき、年始らしく昨年一年を振り返ってみるならば、昨年筆者は、ニコニコ動画やTwitterといった「擬似同期型アーキテクチャ」、すなわち「客観的には非同期的なのに、主観的には同期的に感じられる」という現象や機構に着目してきました。その中で筆者が常に意識していたのが、「空間ではなく時間」ということでした。

かつて「IT」とか「インターネット」という言葉が存在しなかった90年代前半頃、情報技術や電子メディアが持っていた可能性や新しさというのは、「サイバースペース」とか「バーチャル・リアリティ」とか「仮想世界」とか「テレプレゼンス」とか「電脳建築」というように、圧倒的に視覚や空間のイメージ優位で語られていた、というのは、WiredVision連載でも取り上げた東氏の「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」でも指摘されているとおりです。……といっても、90年代前半といえば筆者はまだ中学生とかなので、メディアアートばりばりだった(そして東氏の論文も連載されていた)『InterCommunication』誌のバックナンバーをあとから読んで感じた限りの印象しか、個人的には持ち合わせてはいないのですが。

これに対し、2007年の筆者の関心の中心は、「アーキテクチャは、空間を作り出すだけではなくて、時間を操作することもできる」という点にありました。あえて造語的にいうならば、「仮想空間」ではなくて、「仮想時間」とでもいいましょうか。実際のところ、「空間認知(視覚)」よりも「時間感覚」のほうが、錯覚を引き起こしやすいということはいえそうです。その答えは比較的単純で、時間というものが、もともと「客観」と「主観」という二面的な性質を持っているからです。LivedoorディレクターBlogの谷口氏にも補足頂いたように、時計の針のように「客観的」に流れている時間はいわゆる「ニュートン」(古典物理学)的な時間で、「物事に熱中していて時が経つのも忘れてしまった」といった主観的に感じられる時間感覚は、「ベルクソン」的な時間として区別できます(「偶然の幸運」はサービスとして提供できるか? - livedoor ディレクター Blog)。要するに、人の持つ時間感覚というのはある程度「いい加減」なものであって、そこに「操作」の余地があるというわけです。

ちなみに筆者は、あくまでニコニコ動画上の「時間」を操作する点――「アーキテクチャ」の層――にとりわけ興味があって、そのアーキテクチャ上でどのようなコンテンツが人気を集めているのかといった話題には、(初音ミクを除いて)ほとんど言及することはしませんでした。もちろん、個人的にはガッツリのニコ動にハマった一年だったので、語ってみたいと思うコンテンツがないわけではないのですが、それはまさしく「小さな物語」でしかないという感覚を拭い去ることができず、ほとんど「コンテンツ」の層についてはノータッチのままでした。来年以降は、もう少しその辺も触れていければいいなあと思っています。

*1:この文章をはじめに書いたのは2007年3月で、そのときはまだ冒頭で触れた『ユリイカ』のジョジョ特集(第39巻第14号)は出ていなかった。たとえば同特集では、元長柾木が同様の指摘を――「(プッチ神父の能力は、)理解できなくないが、はっきり言って無茶苦茶である。これって戦闘能力と言えるのだろうか?」(P.108)――行っている。

*2:『制服少女たちの選択』(講談社、1994年、P.203-p.205)。初出は1990年に『中央公論』に掲載された論文「新人類とオタクの世紀末を解く(続)」。

*3:たとえば同『ユリイカ』特集号所収の宮昌太朗も第6部についてニーチェの名前を挙げている(p.245)。

*4:もちろんこれはあまりに単純化した「永劫回帰」の議論である。「永劫回帰」という設定だけを単独で取り出してあれこれ議論しても意味がない、という点を明快かつ独特に整理したものとして、さしあたり永井均の『これがニーチェだ』を挙げておきたい。

*5:第5部第63巻の作者メッセージ欄。

*6:第5部第59巻 「今にも落ちてきそうな空の下で」。

*7:ここでの「固有名」に冠する説明は、以前筆者が書いたisedキーワード「固有名」とほぼ同内容である。

*8:そして固有名のこの神秘的な性質については、さまざまな解釈が当てられてきた。クリプキは、固有名には、「確定記述」には還元しつくされない「固定指示子」が宿っていると論じる。それは、人間社会の歴史において連綿と繰りかえされてきた、「これはOOである」という名指しのゲーム(命名儀式)を通じて伝達されてきたというのだ。これを受けて柄谷は、『探求II』において、確定記述を<特殊性>、固定指示子を<単独性>と呼びかえて、後者の「この私」に関する考察を展開した。さらにその後東浩紀は、『存在論的、郵便的』において、固有名には「固定指示子」や「単独性」が宿っているのではなく、固有名に関する記述を『訂正する可能性』がコミュニケーションによって伝達されてきたのだ、と読み替える。つまり、固有名を手がかりに、私たちは「そうではなかったかもしれない世界」に関する「ifの歴史」を想起することができるのだ、と。ところで、こうした「可能世界」や「固有名」に関する東の関心は、自身も語るように一貫して追及されており、たとえばその後の『動物化するポストモダン』(の末尾に収められている『YU-NO』論)からその続編の『ゲーム的リアリズムの誕生』に至るまで、「そうではなかったかもしれない世界=可能世界=別ルート」をシステム上抱えるノベルゲームが主題的に扱われている。