絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

だから信じるなっつってんだろがよ。

 彼は、日本にキリスト教が根付かなかったのは、それが「科学」と言いかえられた「何らかの宗教的なもの」による宗教対宗教の対立ではないかと見ている。そして、日本人とっての進化論の受容というのも、実は、ある種の伝統的な宗教的な世界観の表出にすぎないだろうともしている。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2005/10/post_bcc0.html

 日本にキリスト教が根付かなかったのはそれが侵略宗教だったからだよ!あと日本人にとっての神は、強い人間が死んだらなるものなので、造物主とは何の関係もありませんよ!*1
 前にも書いたけど、昔の日本では、怒りながら死ぬと神様になれました。だから「生きたまま神なのはすげえよな」=「そういや天皇ってすげえんだぜ」=「現人神」ってことになったのですね(ひどい要約)。モノは捨てずに百年置けば付喪神となり、死体は放っておくと腐ってしまう(人道不浄相)。変化というものを古代から感じてきた日本人にとっては
 猿→人間→神
が何の違和感もないのです。
 そういうわけで『2001年宇宙の旅』が普通の名作なんですね、日本では。

 えーとだから、戦前の日本人が進化論を違和感なく認められたのは、猿が人間になって神になることに違和感がなかったからであって、別に「科学」って名前がついてて偉そうだから何も考えないで享受したんじゃないのでは、ってことです。まあこれは日本人だけではなくて、多神教の民族はたいがいそうなのでは?もし、そうでないひと、何も考えないで「何か科学って言ってるんだからすげえよな」ってひとがいたら、それは民族に関係なく、馬鹿なだけなのでは?
 ただし、こういう意見もあって、それには同意できる。

 擬人法的でアニミズム的な宗教的通念のもとで、ID論のようなタイプの形而上学を批判するのは比較的たやすいのだけれど、その批判そのものによって、自己組織化や自然淘汰のようなものが、何か神秘的で擬人的な、それ自体の意志や目的をもつものとして理解されてしまうのでは、なんというか、元も子もない、という気がする。

 仏教的な、六道転変の思想が動物と人間の連続性を受容する精神性の背景にあるのであれば、ID論の危険とは別の、その日本地場在来の宗教的感性の危険というものもあるはずであり、それが、ぼくには、たとえば、セルフィッシュ・ジーン的な擬人化と関連しているように思える。
id:jouno:20051002:1128243285

 じゃあどうすればいいのか?そんなのは簡単だ。
 表題に書いたとおり、信じなきゃいいのである。
 一神教も、多神教も、アニミズムも、何も信じなければいい。「神秘的で擬人的な、それ自体の意志や目的をもつもの」なんて信じなくたって、自然は美しいし、進化は起こる。信じるな、考えろ。
 
 ついでだからキリスト教的な科学の見方について。

その背後には、「科学」ないしは「学」なら信ずるかもしくは敬意をはらうが、宗教なら軽蔑するか問題にしない、といった心的状態があるように思われた。

 こういうのを見ると、何でファンダメンタリストが創造論をIDとか言って科学気取りなのか、の謎が解けそうな気がします。一神教の信者にとって、理解することと信じることには差がない、だから「科学」と名がつけば皆信じると思っている、っていい証拠なんじゃないか。サンプルひとつだけでひどいこと言ってますけども。
 憶測メソッドというのは、理想敵を作るために利用されます。上の一文も憶測メソッド。彼が「日本人には科学が理解できない」と憶測メソッドを利用し主張するのは、科学とは信仰するものだと思っているからなのではないか、と憶測しているわけです。

 その伝で言えば、彼らはもう信じちゃってるから、信じないひとのことが理解できない。信じないひとというのは、どんな民族であれ、何かを100%信じることがない。科学であれ、宗教であれ、信じるから間違いが起こるんであって、疑って、検査して、試してから使った方がいい。
 科学の方がまだ信用できるのは、科学というのが「信じない」構造を持っているからであって、それが「科学」という名前だからじゃない。
 なら、なぜ彼らはぼくらが「科学を信仰している」と言い張るのか。それは彼らの考え方の基本、宗教というものが「信じること」を最重要な決まりごとにしているからです。彼らには「信じる」か「信じない」しかない。

 乱文なんで、不明な点とか、質問があったら遠慮なくどうぞ。

追記
>これだから一神教の信者は困る、何でも自分たちと同じだと思いやがって。
って表記が誤解を呼ぶみたいなので、一番最後に移動しました。あと朱子学とか尊皇思想を持ち出すなら、現代の若者云々は関係なくなってしまうと思います!
追記2
 あとはこの記事にトラックバックしてるとこにも。

もしかして、日本人にとっては「科学」とは八百万の神々の一柱に過ぎぬものなのでしょうか?そして、無数の神々の一つだから、そんなに重視しなくても良い、と。別の神様が別のことを言えば、科学が何を言っても、1対1で同格だから別の神に従っても問題ない、というところなのでは?
http://blogs.dion.ne.jp/hibiturezure/archives/2000581.html

八百万の神っていうのはエホバとかゴッドみたいな"人間が従うべき規律を作る神"ではありません!だから「神に従う」なんて発想そのものが間違いです!
↑「マジメに考えて書いたもん」ではないらしいとコメント欄で回答があったので、どうでもよくなった。不真面目な態度でこういう話題に首を突っ込むのは楽しいことだと思うが、それを理由に批判を回避するのはどうかと思う。

この国には物事を本質にまで遡って考えるという精神的伝統が無いように思えます。

と書いておられるが、そりゃあなた自身のことではないのか。

*1:インドなんかだと、その関係が逆転して「強い人=神だった人」ってことになるのが面白いところ。日本でも戦国時代にはそういう噂のある武将がいっぱいいたけど、まあ戦わなきゃならん社会ではハッタリが重要だってことですね。天皇家もヤンキーも先輩が強いと偉さが高まる