東京方言にも京阪方言にも直感ではなくて直観がなかった話

訂正:タイトル始め5箇所ぐらい漢字間違ってました。○直観×直感。全く、偉そうなことを書くとすぐこれだ。ご指摘いただいた皆様ありがとうございます。

しばらく前にとある言語学の授業を聴講していたのだが、授業中にしばしば直感直観(以下漢字直します)を問われることがあった。

「直観がある」というのは、言語学では「後付けの知識と照合しなくてもその言い方がありかなしか判断できる」ことである。つまりネイティブかネイティブなみだということである。たとえば「おなかが痛い」と言いたい時に「おなかは痛い」と言ったらそれはおかしい。これを習い覚えた知識をもとに例えば中立叙述がどうしたとか訳を考えるのではなく、「なんでかしらないけどそういう時はおなかが痛いでないとだめなんだよ」という知識を誰にも教えられていないのにもっている、そういうのを「日本語の直観がある(ここは元から正しかった。文で変換したのかな?)」という。あるいはさっきdlitさんが最近よく出てくるようになった借用語についてこのアクセントが僕の直観だ(ここも。なんで混在してるんだ。以下、間違ってるとこだけ直しますが、いっぱい混在してた)というようなことを言われていたのを読んだけど、こんな風にみかけない単語でも日本語であれば、どこにアクセントがあるかわかる(方言によって違うが同じ方言の中では通常一貫している)、こういうのが直観。 英語だったら何も考えなくても冠詞は間違えないとか。(念のため、「頭は痛くないけどおなかは痛い」ときは言えるじゃんというのは ここで言ってる話とは違います。今言ってるのはあなたが急にうずくまったので友達がびっくりして「どうしたの?」と聞いたような状況で、つまりまさに「おなかが痛い」と言いたい時に「おなかは痛い」で替えることはできないという話です。)

で、私は当然日本語の直観があるつもりだった。言語学で「日本語」という時、文脈にもよるがどこそこの方言と断りがなければ原則としてそれは東京方言である。 私は言語形成期を関西の辺境の滋賀の辺境の農村で育ったので今もバリバリその方言の話者なのだが、故郷を離れて久しくなんとなく東京方言に近いような言葉をしゃべっていた時期もあった。日本の地方在住者は、たいがいその方言と東京方言のバイリンガルだよね、ぐらいのレベルでは私も東京方言にも直観はある。

ところがですね、私にとっての東京方言の口語はどこから仕入れたかというとほとんど昔のテレビなのである。しかもテレビはもう30年近く持っていないしその間ほぼ見ていない。で、昔のテレビでは実はそんなに日常の口語はやっていなかったのである。 昔、私がテレビを見ていたころは今のようにバラエティがいろいろあった訳でもなく、私は子供の時からオヤジだったのでプロ野球とニュースと古いタイプのクイズ番組(タイムショックとかアップダウンクイズとか)ばかり見ていた。アニメやドラマなんかも多少は見ていたがそういうのは台本があるので、ドラマのせりふというのは日常会話と違うしアナウンサーのしゃべるのも勿論違うし、ハレとケのうちハレの言葉しか知らないわけである。要するに周りに東京方言の話者が全くいない環境で育った結果、私は今も東京方言の直観がない。それどころか京都方言も大阪方言も、東京方言よりは近いから関西人みたいな顔して関西弁をしゃべっているものの、細かいところが全然違うから実は直観があるとはいえないのである。ということにその言語学の授業で気づいたのだった。

なんでそれがわかったかというと、たとえば「太郎、花子蹴った」とか「あれどこ置いた?」「犬、川おちた」「猿、木落ちた」「椅子脚折れた」とかが関西弁(に属する自分の方言)で問題なく言えるのはわかるのだが、これが東京方言で言えるのか言えないのかがわからない。言語学の授業で「これ日本語(=ここでは東京方言)でいえる?」と質問されるたびに、私は頭を抱えることになった。(ちなみにその授業の受講者は関西人と留学生が多く東京方言の話者はあまりいなかったのでこれにすらすら答えられる人はあまりいなかったと思う。)

そこで、子供のころ大阪の親戚が遊びに来た時のことを思い出した。語尾に「〜ねん」と「ねん」が付くことに始まって、その親戚の人々の言葉と私たちのことばは同じ関西でもアクセントから何から全く全然根本的に違っていた。もちろん「あかん」とか「ほんま」とか「おおきに」とか基本的な語彙は共有しているのだが、まず終助詞が違う、否定形が違う、指示詞が違う、アクセントもイントネーションも違うということで「いやあ、大阪の言葉って凄いなあ」と子どもの頃は毎年お盆になると帰省して来るまたいとこ達が来るたびに思っていたのである。それほどまでにベタベタの大阪弁と自分の方言の距離は大きかった。

それから何十年か経って、今私は大阪府に属する地方都市に住んでいるが周りの関西人たちの言葉にそれほど違和感を感じずに合わせている。「〜ねん」はネタで「なんでやねん!」とか言う時以外は使わないし細かく見ると今だって私の方言は全然違うのだが、まあ周りから浮かない程度にはメジャーな関西弁を操っている。で、それと同じ程度には東京へ行っても東京弁を操れるだろう。ところが、東京方言で「サル、木、落ちた」が(勿論サルが木から落ちたの意味で)言えるかどうかの直観は全く働かない。そして、東京方言よりははるかにはるかに京阪方言には直観が働くのだけれど、やっぱり微妙なところは微妙にわからないのである。

とりあえず東京方言わからなかったショックの覚え書き、というか鈍感なので、たぶん言語学をやっているような人であればこの辺の微妙なところはみんな気づいてるんだろうなあというのもショックなんだけどメモとして残しておきたいと思います。