絶版に陥っている拙著『国学・明治・建築家』(1993)をネット公開することにした。

(初版の序は審査員の一人だった中沢新一氏が書いてくれたのだが著作権もあるので割愛します。)

その経緯はアセテート編集者日記2007年9月1日の項を参照していただきたい。
本書は平成5(1993)年に刊行された。その経緯は【刊行に際して】という付記に簡単に書いたので、いくつかおもいつくまま付け加えておきたい。
本書は「近代日本の建築思想を二人の国学者、本居宣長と平田篤胤の思想を手がかりに」(オビより)実験的に考察したものである。当時の日本近代建築史は戦後に踏み込まないのが「常識」だった。だから日本近代の前の「近世」と「戦後」両方とに踏み込んだ。このスパンの取り方はおそらくはじめての試みだったはずである。それらを連続的にとらえようとしたので、それまでの日本の近代建築史と比べてかなり趣の異なるものとなった。本当は丹下健三を考察したかったのであるが、彼の射程がえらく広く深くて、引きずられて近世まで遡ったというのが本当のところである。早稲田大学建築学科建築史研究室の1988年度の修士論文がもとになっている。
三年後、富士通(株)が卒業論文を著名人が審査して最優秀作は公刊するという企画を催した。審査員は嵐山光三郎、南伸坊、中沢新一、田中優子であった。当方は新聞にて知ったのであるが、だめモトで応募してみたのであった。審査員ほぼすべてファンだったからである。
応募後1ヶ月ぐらいたって、やっぱりダメかとあきらめはじめた頃、編集者の方から連絡があった。本を出すことを告げられた。編集者は坂崎重盛(ペンネーム)氏だった。この企画自体を富士通に持ちかけたのも氏だったらしい。とてもうれしかった。中でもうれしかったのは、今後参考になるからといろいろと本づくりのプロセスを教えてもらったことである。
本を出版することはネットで公開するより遥かに大きな資本を必要とする。それは他者による批評をかいくぐって信任を得たということでもある。そして印刷されてしまえば、著者のみならず発行人さえその社会的責任を問われる。楽しみと重みを実体験した。確か3000部が市場に流された。2004年ぐらいまでは売っていたのを見かけたが、その後急になくなったのでああとうとう売り切れたと思った。その後いくつかの古本屋で高値がつくようになった(時勢に関係ない古本屋では500円ぐらいのときもある。そういうときは僕が買っている。)中古市場で流通しないのは捨てられたか、捨てられずに誰かの本棚にまだ納まっているからだろう。後者であればまだ何らかの価値があるからであり、著者としては甲斐があったと思う。ただこの本は要は企画本なので、同じ出版社から再版されることはない。そもそもこのシリーズ企画のために立ち上げられたと思われる編集所・蘭亭社はすでに存在しない。自分としてもまだ役に立つ部分があると感じていたので、WEB公開することを決めた。ただし著作権はまだ当方が保持している(引用部分のぞく)。

出版直後に、雑誌の背1ページを使って大広告をうったと氏が伝えてくれた。そんな破格の扱いにとまどいながら、どんな雑誌かをたずねた。それは小学館で発行していた時事雑誌『Bart』だった。かなり右寄りの誌面内容だった。坂崎氏お得意のいたずらと思えた。それ以降、当方の名前「礼仁」の雰囲気も伝わってかなり「政治的な怖い人」だと思われていた。たまにそれにシンパシーを持つ人も現われたりして困ったことがある。坂崎氏のいたずらはとても効いていた。
「礼仁」は実名で、両親が体制が右に転んでも(アヤヒト)左に転んでも(レーニン)殺されない名前ということでつけたそうだ。逆に真っ先にやられそうな感じもする。今となってはよかったと思っている。