シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

自信をアウトソーシング出来た団塊世代と、それが出来ない氷河期世代

 
 年寄りが語る戦後日本 - raurublock on Hatena

 
 以前何度か、仕事を引退したばかりの団塊世代の男性に「過去のあなたの経験を教えてください」と頼んでみたことがある。大抵の場合、こうした申し出に対し、彼らは苦労話を交えながら“武勇伝”や“成功体験”を語ってくれる。ドラマチックで情熱的な、臨場感溢れる昔話を語る時の彼らの表情は、殆どの場合、誇りに満ちている。個人の経験談を語る時だけではなく、“昭和”“高度成長”という時代を回想する時も、やはり自信が溢れている。
 
 ところが、ついさっきまで自信に満ち溢れていた男性が、一転、自信のない姿をみせ驚くこともある。たとえば海外旅行の際、日本人と一緒にいる時には自信に溢れた態度をとり、奥さんや添乗員に対しては居丈高ですらある男性が、自由時間になったとたんに萎縮し、奥さんに頼ってしまうような例などである。本当に自信が内側に蓄積している男性なら、場面や状況によってそこまで態度が変化するとは思えないのだが。
  
 超氷河期世代と比べた時、団塊世代には確かに自信が満ち溢れている。だが、その自信はどこまで当人に内在化した、“内側の自信”なのか、海外で見かけるこうした“萎縮した団塊世代男性”をみるたびに疑問を感じていた。いや、なかには“内側の自信”を確かに持った団塊世代男性もいるだろうが、一方で自信を“外側の自信”に依っている部分の多い人もいるように見受けられるわけだ。
 
 

自信をアウトソーシング出来た団塊世代

 
 この、“内側の自信”“外側の自信”という視点でみると、団塊世代というのは、自分の内側に自信を蓄積出来なかったとしても、ある程度まで、外側に自信をアウトソーシング出来た世代のように私にはみえて少し羨ましく感じる。少なくとも、超氷河期世代に比べれば、それが容易だった世代なのではないか。
 
 例えば、終身雇用制・会社と一蓮托生の精神・“モーレツ社員”といった精神が生きていた時代であれば、個人の内側に自信を蓄積させなくとも、自分の所属する企業の自信や業績が膨らんでいく限りは、企業の自信をあたかも自分の一部であるかのように体感することが比較的容易だったのではないか、と思う。かつての企業精神・企業風土があればこそ、社員の一人一人が「松下の自信は私の自信」「トヨタの誇りは私の誇り」、と体感できた(または勘違いできた)のではないか。まただからこそ、自分自身が多少へこまされようとも、健康上のリスクを侵そうとも、企業と一蓮托生の精神でもって仕事に臨むことが出来たのではないだろうか。この構造が、企業には忠実で勤勉な社員を与え(経済上のメリット)、社員自身には企業の自信を自分の自信として体験する機会を与える(メンタル上のメリット)ことで、ある種の互助的関係が成立していたようにみえる*1。
 
 また、たとえ会社に所属してなくても、会社がどんどん発展していなくても、“外側の自信”を獲得する機会はあった。何が言いたいのかというと、「高度成長という時代」「発展し続ける社会」から、一定の“外側の自信”を団塊世代は獲得できたのではないか、ということだ。
 
 戦後暫くの混乱期はともかく、高度成長期の日本は所得の拡大や電化製品の普及、科学技術の発展、などなどの只中にあった。この時代、もしも個人の内側に自信を蓄積できなくても、日本社会が高度成長していく限りは、あたかも社会を自分の一部であるかのように体験可能だったのではないか。東京オリンピックや新幹線の開通といったイベント、電化製品の普及と生活水準の向上、といった諸々は、発展する日本社会を自分のことのように体感するうえで大いに役立ったとも推測する。自分の暮らしている社会全体が猛烈に発展している最中であれば、自分自身がその社会に包まれている事・その社会に自信と誇りがみなぎっていることを、間近なものとして体験しやすかったと私は想像している(社会から爪弾きにされていない限りは)。多少、相対的な貧しい境遇に置かれていたとしても、成長する社会に“外側の自信”をアウトソーシングし、社会がきっと自分達に豊かさを保証してくれるとも信じられるなら、人は勤勉に、誇りをもって生きていくことが出来たんじゃないか。団塊世代の皆さん、いかがですか。
 
 

団塊ジュニア世代は自信をアウトソーシング出来なかった

 
 ところが、超氷河期世代では話が変わってくる。まず、彼らには会社との蜜月関係が無いので、会社の自信をあたかも自分の一部のように感じ取る機会があまり無い。会社と個人との関係が、一蓮托生というよりは割り切った契約関係へと移行し、終身雇用制という神話が過去のものになった時代において、会社の自信を“外側の自信”として我が事のように体感することは相当に難しい。まして派遣社員や契約社員も沢山いる時代である。暫時の契約社員の身分で「トヨタの誇りは私の誇り」などと思いこむのは殆ど不可能だ。かつての企業精神は、時代の流れや契約関係の変化のなかでとっくの昔に形骸化している。
 
 加えて、日本社会そのものに“外側の自信”を重ねることも不可能になってしまっている。バブル経済の崩壊以後、超氷河期世代は社会から力強いイメージを受けとる機会もなく、むしろある種の閉塞感のただ中を過ごさなければならなかった。高度成長期の力強い日本社会とはほど遠い、不景気で、援助交際やら何やらのはびこる、世紀末の気分のなかで社会というものを噛みしめなければならなかった。社会全体の生活水準もさして向上せず、むしろ忙しさと息苦しさの拡大再生産ばかりが目につく状況では、社会に対して“外側の自信”をアウトソーシングするなんて無理だろう。社会は自然に発展して僕らを豊かさへと連れて行ってくれる、などという保証も与えられない状況のなかで、就職超氷河期世代が(団塊世代が高度成長の時代にそうであったように)勤勉に、誇りを持って生きろと言われても、もう“外側の自信”を社会に期待することは出来ないのだ。
 
 

社会や企業には“外側の自信”は期待出来ないという前提のうえで

 
 なので、超氷河期世代においては、社会や組織や企業に“外側の自信”というものを任せておくことも、それを期待して社会や企業に忠誠を誓うのも、到底無理だと私は思う。一部、上の世代のなかには、超氷河期世代に対して社会や企業への忠誠を期待するような向きもあるようだが、社会や企業が“外側の自信”“外側の誇り”をきちんと引き受けているような下地がなければ難しい話のように思える。かと言って、高度成長をもう一度呼び起こすことも、昔のような企業精神に則って会社を動かしていくことも、もはや難しい。
 
 いわゆる超氷河期世代以降においては、自分自身の内側に自信を蓄積するしかない状況になってきている。自分自身で戦い、自分自身で生活を成立させる。自分自身が修羅場を潜り抜ける*2。こうした成功体験を、個人個人が自分の力で積み上げて“内側の自信”を蓄積させるしか、自信や誇りというものを体感できなくなっているのが現在の状況だろう。
  
 しかし自分自身の内側に自信を蓄積させる、というのは言うほどには簡単なことではない。いわば自信の自己責任制のようなもので、自信や誇りが持てないとしても誰かがそれを保障してくれるわけではないのだ。コミュニケーションや仕事先などで自信を獲得できない個人には過酷な時代になったといえる。とりわけ、超氷河期世代は“いい企業に入っていい仕事が得られれば幸せになれる”という高度成長期の信仰をまだ期待しながら社会に漕ぎ出し、しかも就職難に遭遇したわけで、はじめから“自信は自分の内側に育むしかない”という割り切りが出来ていないにも関わらず、自信をアウトソーシングできない環境に曝され続けている*3。この世代の少なからぬ割合は、“内側の自信”を自ら養うしかないという割り切りも出来ないまま、かと言って“外側の自信”を企業や社会から得られるわけでもないまま、企業や社会が“外側の自信”“外側の誇り”を提供してくれない事に苛立ちや怒りを忍ばせているようにみえる。
 
 一見自信に満ち溢れているようにみえて、自信のうちかなりの成分を社会や企業といった“外部の自信”にアウトソーシングしていた団塊世代。自分自身の内側にさほど自信を蓄積しなくても、社会や企業を通して自信や誇りを体感できる日々を過ごすことが出来ていたとするなら、彼らは幸福だったといえる。団塊世代は物質面では(特に戦後暫くは)恵まれなかったが、この“外側の自信”の体験に関する限りは非常に恵まれた世代だったと私は思う。一方、超氷河期世代は、物質面では最高に恵まれていたけれども、社会や企業を通して“外側の自信”を我がことのように体感するのが困難ななかで育てられた。一個人にとって、自信の有無や誇らしく生きていけるかどうかは、心象風景全般に大きな影響を与えるファクターだが、このファクターに関する限り、超氷河期世代は団塊世代よりも遥かに貧しい状況を生きている。そんな超氷河期世代が、団塊世代の人に「お前も自信を持てよ」「最近の若いモンは滅私奉公を知らない」といわれたとしても、「だったら俺達にも、終身雇用を保障しろよ、高度成長の一体感をよこせよ」と言いたくなるのも、致し方ないなと思う。
 
 時代の変化は、社会や企業だけでなく、そこに“外側の自信”を期待する人々の心象風景にも大きな影響を与えている、筈だ。そこの所をもう少し読み取るためにも、もっと様々な視点から世代間ディスカッションをやらなきゃいけないんじゃないかな、と私は常々思っている。
 
 
 
 ※この辺り、団塊世代の方の感触や、下の世代の感触を、是非お聞きしたいと思います。

*1:一方で、会社に自信をアウトソーシングし過ぎた社員が、過労死の問題のような問題をも引き起こしたようにも思えるが

*2:ちなみに、サブカルやオタク趣味分野のような、狭小化したニッチのなかで吹き上がることで自信を代償する、という手法もみられるはみられるが、この手法で得られる自信は、狭いニッチの内側でしか通用しない、という欠点を持っていることが多いように見受けられる。

*3:この点、もっと下の世代においては、よりドライでシビアな割り切りを所与のものとみなす向きが強くなっているのではないかと思っている。この辺り、下の世代の意見を是非聞きたい。