シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

現状の観察1:“非モテ”“モテない男”を自称する人達にみられる共通点(要約)

 
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 20代〜30代男性、オタクの東浩紀さん的分類でいえば第三世代以降のオタク達に該当する年代においては、他者や異文化ニッチに対する能動的働きかけの乏しい諸群がみられる。このテキストでは、そうした諸群の一例として、“自称非モテ”“自称モテない男”を挙げてみる。
 
 この、ネット上しばしば発見できる彼らは、
 1.他者は他者でも異性に対して能動的働きかけを持たないor/and持てない
 2.あらゆる考察は、自分が何かする選ぶではなく、異性が何かする選ぶという視点
 3.モテる男が優秀でモテない男が劣等という価値観から脱却することもなく、自らを劣等と位置づけ葛藤しやすい状況が続いている
 
 という特徴を有している。モテない男達は、自分の審美性、趣味、社会的ポジションなどなどを理由に自分はモテないと主張し、実際、ある程度までそれらは女性の評価対象になっているわけなのだが、彼らの男女交際を決定的に妨げているのは個々の評価対象ファクターではなく、そもそもの行動・動機付けレベルの「能動性の過小さ加減」にあると私は考えている。なお、こうした「能動性の過小」は(本テキストで紹介した)モテない男・自称非モテ達だけに観察されるものではない。次のテキストでは、より視野を広げて幾つかのグループを紹介してみようと思う。
 

現状の観察2:能動過小傾向に覆われる、20代〜30代の男性諸群(要約)

 
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 こちらのテキストでは、一つ前の現状の観察1:“非モテ”“モテない男”を自称する人達にみられる共通点(要約) - シロクマの屑籠に引き続いて、能動過小傾向がみられる思春期男性の幾つかのグループを紹介している。今回紹介されているのは、1.第三世代以降のオタクの多く 2.自称非モテ 3.社会的引きこもり となっている。彼らは皆、それぞれの次元と程度において能動性を欠いており、異文化ニッチに属する他者への踏み込みが出来ない状態となっており、葛藤(とそれを防衛する防衛機制)の多い状態を呈している。
 
1.第三世代以降のオタク
 彼らは複数の趣味のなかからオタク趣味を選んだというより、スクールカーストや能力上の偏倚などから消極的にオタク趣味に流れざるを得なかった者を多く含む。こうしたオタク達の多く(殆ど!)は、オタクニッチ以外の他者への能動性が決定的に欠落している。なおかつ、消極的にしかオタク趣味を選択していない彼らは、自分たちの趣味的営みに誇りを持つことなく、劣等に位置づけられるものと感じている。いかにも葛藤の多そうなこの状況に対するオタク達の適応戦略としては、オタクコンテンツの消費などを通して葛藤を緩和することが挙げられる。オタク界隈はオタクの葛藤緩和の優れたバッファに恵まれているので、オタク達は簡単に不適応を起こすことはない。
 
2.自称非モテ、モテない男
 彼らもまた、もともとは自ら好きこのんで異性と交際しないわけではない。オタクとかなり重複している彼らもまた、異性への能動性が決定的に欠落している。そんな彼らもまた、モテ=優等 モテない=劣等 という価値基準から脱却することが出来ず、その場で苦悶を続ける傾向が強い。彼らの適応戦略としては、非モテ関連の議論を行うこと(合理化、知性化)、エロゲーなどを用いること(補償)、女性を敵視すること(投影)など様々なものがみられる。こうした諸法に通じている非モテは、(異性に焦がれながら手が届かず劣等感を感じ続ける)葛藤を効果的に緩和できるので、やはり適応を維持しやすいだろう。
 
3.社会的引きこもり
 社会的引きこもりは、人間関係の全分野にわたって能動性が欠如し、関わりから退却している。なかには家族との関わりすら絶っている者も多い。そんな彼らもまた、自らの状況とコミュニケーション出来無さ加減を劣等としつつ、そこから一歩も動けないで苦悩を続けている。残念ながら、社会的引きこもりは上記1.2.と異なり葛藤を緩和するリソースに恵まれていない。また、葛藤の程度も桁違いなので、しばしば心的適応を維持しきれなくなるケースがみられる(だから幻覚などを呈して精神科を受診するケースもある!)。社会的引きこもりは、能動過小現象の極北に位置する存在で、適応の崖っぷちに追いつめられている。
 
 このように、かなり多くの成員を含んだ幾つかのカテゴリーにおいて能動過小現象はみられている。だが、彼らとて葛藤に対して無防備なわけではない。次のテキストでは、そんな彼らの適応の在り方(処世術あるいは防衛機制の展開させかた)について考えてみようと思う。
 
(ここだけの補足:本当はこの後に4.働いたら負けだと思っている型ニートと5.夢を販売するのが仕事の専門学校に通ってダラダラしている群を入れようかどうか迷ったけど、今回はやめといた。id:Masao_hateさん、ごめん!アレ生かしきれなかった!)
 

第二稿補足:空気を読み合うその他の人達(抜粋)

 
 現状の観察2:能動過小傾向に覆われる、20代〜30代の男性諸群(要約) - シロクマの屑籠で挙げた消極オタク・引きこもり・モテない男とイコールではないにしても、似た特徴を持った一カテゴリーを補足しておこう。昨今ありとあらゆる文化ニッチに多々みられる、「場の雰囲気を壊さないことだけに器用な男達」もまた、他者に対して能動的・積極的に働きかけることができない。もともと日本はハイコンテキストな社会で、お互いがお互いの顔色を通して利害を推量しあいながら行動選択する傾向が強いが、昨今では思春期真っ最中の男性においてすらこの傾向が拡大している可能性が高いと私はみている。ブログやmixiでよく見かける「毛づくろい的コミュニケーション」 - ARTIFACT@ハテナ系で書かれている“けづくろいコミュニケーション”(元々は斉藤先生の発言)のような、互い拳を突き合わせないようやりとりが、種々のコミュニケーションシーンで増えているのではないだろうか?

 彼らは、
A.互いの表情や発言から互いの嫌がる事を敏感に察知するアンテナは異様なまでに発達している
B.自分達の置かれている状況に劣等感を必ずしも抱いていない
という点で上述の三グループとは異なっている。また、
C.他者の利害や感情に敏感
という点でも、オタクや引きこもりに多い空気読め無さ加減とは真逆に位置している。

 だが、今回紹介したカテゴリーも“空気は読んでも互いに踏み込まない人達”も、「他者との深い関わりを避ける&他者との深い関わりに耐えられない」という心的傾向では共通しており、思春期における冒険を極めて限定的なものにしているという点でも共通している。

 よって、実際は「空気読みまくって空気に同化する思春期男性」と今回紹介した「能動過小」の諸カテゴリーは、全く別物というよりはコインの裏表の関係にあるのではないかと私は推測している。どちらの場合であれ、思春期において自分の限界と可能性を規定するにはあまりにも他人に踏み込む&踏み込まれる機会と意志を欠いており、リスク回避と不快回避に特化した適応と考えられないだろうか。そしてコインの表であれ裏であれ、モラトリアムな年頃におけるこうした傾向は、E.H.エリクソンの発達課題[参考:http://homepage1.nifty.com/~watawata/psycho/b7.htm]という視点からみれば、おそらくは好ましくない停滞として捉える事が可能ではないだろうか。具体的には、思春期〜青年期において、「自分はこんな塩梅」であるという規定の困難やアイデンティティの拡散が起こりやすくなり、相手の意志を尊重した男女交際に進む代わりに所有・支配の男女交際に向きやすくもなると私は想像するのだが。実際、現実の彼らの男女交際や“萌え”“モテ”からは、そういった特徴が読み取れはしないだろうか。もちろんそうした発達課題を解決することが「たったひとつの生き方」ではないし、多様な適応形態は文化的に尊重されなければならないわけだけど、『個人の葛藤の多寡』や『個人的適応の容易さ加減』という視点に基づいた時、“発達段階の不履行は葛藤多き生に繋がるだろう”とは言えると思う。もう少し丁寧に表現するなら、“防衛機制に依らなければ心的適応が維持しにくくなる”、と書くべきか。そしてオタクメディアや非モテ談義・電子デバイスなどは、こうした防衛機制に依った現代的心的適応に大いに役立っている、と考える次第である。
 
 オタク達であれ、自称非モテであれ、空気を読みあう顔色マスターであれ、現在の多くの思春期男性は、能動的でときに侵襲的でさえあるやりとりから遠い位置に存在している。そのような深くて泥だらけになりそうなやりとりに彼らは「我慢ならない」。こうした傾向は、目下日本の思春期男性においてみられる“若者の新しいステロタイプ”ということになるのだろうし、そんななかでなおも能動的にコミュニケーションの「剣」を振るえる若者は(比較的少なく、また同時に)猛威を振るう存在となるだろう。斉藤環先生が『博士の奇妙な思春期』で書いている若者の二極化と違う意味で*1、能動性を維持している比較的少ない狼達と、空気を読んで合わせるばかりor空気から退却する羊達によって、思春期男性は二極化しつつあるのではないだろうか。
 

*1:斉藤先生の二極化は、このテキストで言うコインの裏表に該当する