助産婦にとって科学とは何だろうか?

とはいいつつ、個人的には科学・非科学の問題がきになっていて、なんで、医学の勉強をきちんとしているはずの助産婦が、あんなにたくさんホメオパシーにはしったのかが興味がある。かなり自分の状況にひきつけて考えすぎなのかもしれないが、私の周囲の学生がいまいち学問に興味がもてない状況とかわらないのではと感じている。

ホメオパシーを支持している助産婦さんにお聞きできればと思っているのは、「あなたにとって、科学なり、医学なりというのはなんだったのか」ということだ。日本の現状では、科学の知識というのは受験で人間を選別するための手段のひとつとなっている。助産婦さんの多くにとって、医学をふくめた科学の知識というのは、真実ではなく、資格をパスするための手段でしかなかったのでないのか。本当にそうなら、とても残念なことだ。

また青くさいことを書くが、科学は個人が個人として物を考えることが可能になった結果として生れてきた。デカルトという人は現在の数学の基礎のかなりの部分を自分であみだしたひとだが、それは、権威にひれふすのではなく、個人の頭で考えることのほうを信頼することの結果として生みだされたものだ。いいたいことは科学は本来、人間を権威に従属させるものではなく、権威からの自由を獲得する活動として生れてきたのだ。

教師としての日常とホメオパシー問題から、このあたりことが、ずっと頭からはなれないのだが、大枠では、ある意味では、内田義彦が社会科学をまなぶことや、日本の近代化について言っていることをなぞっているように感じている。内田義彦は社会科学についていっているが、通常の科学においても、個人がそれを受容するとき、ある意味での発展段階が必要である。それは単に科学教育のカリキュラムの問題ではなく、個人が科学的認識の萌芽をうけとる必然性のようなものが必要である。それがなければ、個人にとって科学は押し付けられたものでしかない。そうであれば、完成した科学の体系をそのまま受容させようとするプレッシャーは科学の押し付けになる可能性が高い。それは、個人の進歩の度合いを無視したものになるからである。

あんまり時間がないので、ぜんぜんきちんと書けないのだが、こんなわけで、ブログに書くネタは頭にいっぱいつまっているのだが、日本の全近代をせおってしまっているため、なかなか書けないのである。

あと、これはネタではなく、本気でいっているのだが、本田透の『喪男の哲学』はこの問題ととても関連がふかい。彼は個人の営みが組織的宗教に「堕落」していく様をしつこく書いている。彼の自身の「萌え」が私には組織的宗教のように見えてしまう点はおいといて、日本で科学が教育の場で抑圧的な権威になってしまっているのは、本田が見いだした普遍的な傾向の日本独自のあらわれなのではないか?本田で納得しない権威主義者には、フッサールの危機あたり読めといっておこう。