ペンギン日記(旧akoblog)

identityやprivacyに関心を持つ大学教員のブログ。20歳の頃から「ペンギンみたい」と言われるのでペンギン日記。

クアラルンプールでおなかをこわして受診した記録

出張で訪れたクアラルンプールで、おなかをこわして受診した。

マレーシアは5回目の訪問。ペナン島、ランカウイ島、コタキナバル、そしてクアラルンプールは2回目だった。一度もお腹を壊したことはなかったし、毎回Assam Laksaばかり食べていた。・・・が、ついに初めておなかをこわして病院を受診する羽目に。

現地では体験談をいくつも検索して助けられた。私の経験も書いておくことにする。

経緯

前日

夜のフライトでクアラルンプールへ。朝食は食べられず、昼食は会議しながらバナナと、FamilyMartのサンドイッチ。

夕飯は、ブキッ・ビンタンのLOT10地下の十號胡同へ。

Assam Laksaは酸味が強くて、やや生臭かった。失敗か?と思って残した。

同行者も同じものを食べた。

もう一皿。牛すじ煮込みを載せた汁なし麺。これは美味しかったのだが・・・。

 

翌朝

お腹の違和感と頭痛で目が覚めた。トイレですっきり(このときはお腹こわしてない)。熱を測ると36.9〜37.0で、微熱とも言えない程度。

食欲なし。

バナナを一本食べたところで、下痢。しかし腹痛も吐き気もない。

昼

水を一口飲む→下痢 の繰り返し。腹痛も吐き気もない。

午後〜夕方

水を口にしなければ、腹痛も下痢もない。歩き回ることもできる。動けるうちに、飲み物とバナナを買っておく。

しかし、一口でも水を飲むと即下痢。じきに血便になった。

少しずつ悪寒。体温は37.6。風邪症状なし。吐き気も嘔吐もなし。

ということから、ウイルス性ではなく細菌性の腸炎だろうと考え、受診することに。

受診

夜間救急にウォークインで受診。トリアージで問診。この時点で熱無し。

問診と触診から「細菌感染による下痢。旅行者に典型的なもの」と診断。

COVID-19の既往と接種歴も聞かれた*1。

半日くらいは絶食、水分だけは補給して、スープ、おかゆ、バナナあたりから再開してねとのことだった。院内処方で薬をもらって終了。

受診後

食前の薬(胃薬と止瀉薬)を飲み、その後で処方された経口補水液(ORS)の粉末を水に溶かして飲む。旨い。つまり、それなりに脱水が進んでいたのだろう*2。ちびちびとORSを飲み、食後の薬を飲み、就寝。

翌日

よく眠れた。食前の薬の後、ORSとバナナを半分。少しお腹は動いたが大事にならず。

日中、普通の水を飲んでもお腹を下すことはなくなった。午後にクッキーとうすいお茶。夕食は海南鶏飯のスープとごはんを食べられるくらいになった。

翌々日〜

むしろ便秘になった。胃が痛くて、やや気持ち悪くて食欲無し。朝食はおかゆ、チキンスープなど。

 

受診の手続き

クレジットカードのアシスタンスサービスを使うため、専用Webに記載された 0800-で始まる番号にかけたがつながらない。この番号は無効というアナウンスが流れる。コレクトコールも、携帯(auのローミング)からかからず。結局、ホテルの電話からコレクトコールで日本にかけた。

 

ここでも罠があった。

「クレジットカード番号を入力しないと、問い合わせメニューにたどり着けない」

というもの。番号を渡すことはできないため、結局、番号の入力が不要な「その他のお問い合わせ」に繋いでもらった。いったん繋がれば、あとは担当部署にまわしてもらえる。

症状と受診したい旨を伝え、この時間で受診できる病院を探してもらった。その中から病院を選び、受診を希望すると伝え、保険から直接支払いにしてもらった*3。保険の手続きが終わり次第、コールバックされるとのことで、病院への移動を始めた。

週末の20時頃、GRABがなかなかつかまらず、25分待ち。移動中に保険の手続きOKと電話があった。コールバックを待っていたら遅くなるところだった。病院では、「保険会社から連絡が来ているはずなので、確認してほしい」と伝えた。じきに、日本語でFAXされた書類が出され、そこに日本語で必要事項を書いた。

 

処方されたもの

食前:止瀉薬 SPASIL TABLET

(ジフェノキシレートとアトロピン)

食前:胃の薬 CONTROLOC TABLET

(パントプラゾール)

食後:抗生物質 METRONIDAZOLE TABLET

(メトロニダゾール)

経口補水液(ORS) オレンジ味

検索するのも億劫な体調のときは、Googleレンズが便利だった。

 

ふりかえって

  • 水を一口飲んだら下痢、の時点で脱水症状の危険を考えるべきだった。エアコンが効いたところにいると気づかなかったり、水を飲まないと腹痛もしないので(つまり、楽なので)飲まない状態でいてしまうのが危ない。ORSを美味しく飲めるまで、まったく脱水を自覚していなかった。あれだけ下痢してたのだから、水分も電解質もめちゃくちゃだったと思う。
  • 携帯からいろんな電話に繋がらず、パニック気味になったが、LINEでつながっていた知人から「ホテルの固定電話は?」と言われて我に返った。こちらは無事つながった。なぜあんなに、携帯に固執してたんだろう・・
  • ほぼ同じものを食べた同行者たちは、無事。皆と違うものと言えば、牛すじ煮込みが怪しいといえば怪しいし、単に私がとても疲れていてコンディションが悪かったからかもしれない。
  • 火を通したものしか食べていなくても、細菌感染で腸炎になる。
  • ポカリスエットの粉を持っていけばよかった。
  • 100円ショップで「大人用おしりふき」を買って持っていったのは大正解だった。

 

 

 

 

 

*1:接種証明アプリ見せようとしたら「あー別にいいです」という感じだった。

*2:ある程度回復してきたら、ORS不味くて飲めなかった

*3:病院によっては立て替え払いが必要なところもある

群像・2月号「死について、」特集

本日発売の「群像」2月号の特集「死について、」にて、私が執筆した「死後にデータを残すこと」が掲載されました。
文芸誌に書く機会をいただいたのは初めて。原稿を仕上げるプロセスはとても勉強になりました。編集者の方からは、読み手を意識した構成のコメントが入り、校閲者の方は出典となった論文を一つ一つ確認の上、私がミスしていた数字も直してくださったり・・。丁寧に文章を書くことについて、改めて本当に勉強になりました。
この記事を書いた時点で、私もまだ本誌を読めていませんが、特集の一連の記事を読むのが楽しみです。

2023の抱負

2023年もよろしくお願いします。

 

今年は末っ子が就学するため、10年間続いた保育園生活がついに終わる。一方で、子供会の会長をお引き受けすることが決まっている。子どもや地域とも関わり方が変わりそうだ。さらに、自分の職場も4月からは新キャンパス(関内キャンパス)に移行し、授業も全て対面に。生活のさまざまな変化が起きる年女の一年。

職務上の抱負は4月の年度始まりとして、ひとまず日常生活における抱負を。

毎日身体を動かす

48歳、代謝も筋肉も落ちているので、心身の健康をまず第一に。歩くことと、毎日の筋トレアプリを続けること、ついでに食事は低脂質を心がける。90歳でも自分で家事をしていた祖母を目指したい。祖母はよく歩き、よく食べ、よく踊っていた。

ストックとして情報を書き留める

このブログもだけれど、SNSにただ情報を流していくだけでなく、貯めて/溜めていくことを心がける。もちろん論文も。ついつい、書いては流していくだけでは知識は蓄積されないし、それらを振り返って考えることも疎かになってしまうと反省している。

本を読む

読書メーターによれば、年間に読んだ冊数は以下の通り*1。2020-2021年の落ち込みはひどかった。忙しかったこともあるし、ストレスが強すぎたのか目が滑るばかりで頭に入ってこなかった。

2022年 47冊(12,055p)

2021 年 35冊(8,135p)

2020年 25冊(5,157p)

2019年 76冊(19,288p)

2018年 57冊(13,282p)

あれほど本を読んでいた自分が、ここまで読めなくなるなんて…コロナに一度かかってから、気が抜けたのか急に読めるようになってきたので、今年もたくさん読書したい。4月からは、通勤時間が激減するので、電車の中での読書は減りそうだが…。

休日に仕事を気にしない時間を作る

 いつも仕事が気がかりで中途半端になるよりは、メリハリをつけて過ごしたほうがいずれも集中できるだろうと。何を今更感もあるが、これも子どもたちが成長して、手が離れる時間(=仕事時間)を確保できるようになったから言えることだとも思う*2。

 正直、特にコロナ禍では子どもたちが重い足かせだと感じられたし、「仕事したいのにできない」というストレスも多かった。昨年の途中から、休日に朝からメール読むのやめて一緒に遊んだり、お菓子作りしたり散歩したりするようにしていた。仕事に戻るときに、意外にも頭スッキリ。切り替えよう。

感染予防と活動拡大のバランスを取る

 とても難しいこと。自分も家族も、コロナはブースター接種済みだしインフルエンザは毎年接種している。マスク、手洗い、三密避ける。それでもかかるときはかかる。

 その上で、旅行や出張、人と会ってごはんを一緒に食べるという機会をどう作っていくか。年始から友人たちと食事にでかけて*3、やはり会えて楽しいと思えた。現地での学会は、立ち話からのヒントを得ることもあるし楽しい(もちろん、オンラインで参加できる機会はありがたく、これまでは授業や仕事で諦めていた機会を得られるようになったこともあるが)。

 

*1:基本的に通読した本。授業や論文などで部分的に読んだ本は記録していない

*2:いちいちオムツを替え、公園まで抱っこして連れて行った時代を思えば、今は自分のことは自分でする上に風呂を沸かしたり洗濯物を取り込んだりしてくれる

*3:いわゆる「マスク会食」でした。食べてるときは喋らない、喋るときはマスク

2022年を振り返る(2)

時系列に並べてみた。

1月

子どもが保育園で濃厚接触者となり、自宅待機に。この頃は10日間待機だし、末っ子のPCR陰性までは兄弟も小学校の登校停止、親も出勤停止。私がかなりパニックになり、胃痛も頭痛もひどかった。休園明けには入れ違いで学級閉鎖。

97歳大叔父の訃報。寂しい。

 

2月

また子どもが保育園で濃厚接触者となり自宅待機。この頃には7日待機に変更。小学校は症状なければ登校OKと運用に変化あり。いつまた休みになるかわからない、という状況がものすごくストレスだった。

そして下旬、ついに自分もコロナ陽性に。無症状だった子が抗原陽性くっきりで、そこからの感染。幸い自分の症状はとても軽く済んだ。全員マスク&換気で、一家全滅も免れた。「あんなに気をつけたのにかかってしまった」と落ち込み、その後は後遺症をひたすら心配していた。微熱と頭痛程度だったので、家では仕事したり、子どもたちと遊んだり。

 

EIP95研究会で発表「報道における故人のSNS」。

科研の採否発表が早まり、2月末に。基盤C採択で一安心。科研費は途切れることなく続いている。

 

3月

シダキュア(舌下免疫療法)2年目、花粉症が劇的に改善。さらに、感染後のS抗体が高くなっていたので、思いきっていろいろでかけたり外食したりした。

解説の対談相手を務めさせていただいた、古田雄介さん著の新書が発売。

子どもたちのワクチン接種をするにあたって、Courseraでコースを受講してみた。

coursera.orgou

4月

教授に昇格。祖母に最後に会った。2月に逃げ切った末っ子も保育園クラスターから逃げられず感染→自宅待機。これも症状は軽く済んだ(むしろ、乳児の頃のアデノやヘルパンギーナのほうが大変だったと感じた)。ただ、濃厚接触者の待機期間が大幅に短縮されたので、小学生の子どもたちも親たちも早めに復帰できた。

 

Netflixで見た。ヤバすぎた…。

THE MOLE ザ・モール [DVD]

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  • ウルリク・ラーセン
Amazon

 

5月

部屋の模様替え。3回目モデルナ接種し、高熱と頭痛で文字通りぶっ倒れた。

新規科目「人工知能と社会」の準備の一環として、「きみとロボット」展へ。

www.miraikan.jst.go.jp

END展も見に行った。出かけていって、見て、経験することは貴重だな…。

hiraql.tokyu-laviere.co.jp

 

6月

私用で札幌へ。久々の北海道。自分の父方のルーツでもある。

左手の腱鞘炎のような痛みがひどくなり、仕事に差し支えてエルゴノミクスキーボードを購入するも、結局タイプしづらくて戻ってしまった。ゼミ生が筆頭著者でEIP96研究会で発表@立教大学「新型コロナワクチン接種の判断はどのように行われているのか〜情報源、話し相手、自身の経験」。

授業でも取り上げたLOVOTに、子どもたちも関心を持ったので高島屋まで体験しに行ったりしてみた。二番目の子がヘアドネーションし、タウンニュースに掲載された。取材に対して自分の言葉で答えていた。

www.townnews.co.jp

 

7月

静岡大学までゼミ生たちと遠征してNIPC参加。同時にリモートでPACIS2022のTREO Talk発表。

aisel.aisnet.org

 

8月

子どもたちを学童のキャンプに送り出した。ワクチン接種済だと安心感が違う。

オープンキャンパスの模擬授業やら採点やらで忙しい夏を過ごしつつも、Netflixの「ウ・ヨンウ弁護士は天才肌」にハマって一気に見てしまう。Duolingoで韓国語を学んでたところだったので、一部聞き取れて嬉しい。

www.netflix.com

微妙な体調不良が続いたので、血液検査した結果、更年期障害と判明。まあ、47歳だし…。即、HRT(ホルモン補充療法)を開始し、体調は一気に回復。これで歳を重ねるに当たってのQoLが保てるとよいが。

 

9月

EIP研究会と社会情報学会全国大会で発表。久々の東北大学へ。

oritako.hatenablog.com

 

死後のデータの研究については、なんとKGU_RESEARCHERSという、学長と研究のネタで対談するという企画に呼んでいただいた!好きな話ができるのは楽しいし、第三者の目でこれまでの研究の棚卸しをされるのは、新鮮な経験だった。

(でも、このとき今年でいちばん太ってたのが後悔)。

www.youtube.com

 

エリザベス女王が逝去され、1歳違いの祖母のことがとても気になる。プライベートでは、小学生の子どもたち(ワクチン2回接種済み)が、コロナに再感染。熱は数時間で下がる程度のごく軽症ながら、また家族全員自宅待機。少しでも体調不良があれば、自分でマスクをして隔離する習慣のためか、他の家族には広がらず。冬の頃ほど濃厚接触者の行動の制限もきつくなく、それほどのストレスなく過ごせた。

下旬からは、LOVOTがわが家にホームステイ。

 

10月

早々にインフルエンザワクチン接種。

秋学期に入り、新規科目が2科目で毎週が勉強、凄まじく忙しい。一方で、2年越しで執筆と修正をしていたBook Chapterが出版に向けて校了となる。やっと一息。

11月

LOVOTが去り、子どもが大泣き。ハウスダストの舌下免疫療法「ミティキュア」を開始した。毎回服用するたびにピリピリして痒い。

ゼミでは、神奈川県公園協会さんとのコラボができ、さらに2年生ゼミでは中身の濃い輪読ができた。それもあって、移動中に結構読書した。

月末に、97歳の祖母が亡くなった。

 

12月

祖母の葬儀。その日に4回目モデルナBA4/5を接種。2日間倒れてた。

下旬には新潟のEIP98に参加。雪が舞っていた。「デジタル遺品はどう受け止められるのか:近親者を亡くした方への調査から(2)」は、発表しながらも自分も当事者じゃないか…というなんとも言えない気持ちだった。

最後の最後に、Duolingoの60%offに惹かれて有料版にしたぜ!

 

ひとまず、健康に一年を過ごせたことに感謝しつつ。

今年もお世話になりました。

 

 

 

2022年を振り返る(1)

2022年を振り返る、自分のための備忘録のようなもの。まずは概観から。

親族が相次いで亡くなった

1月には大叔父が97歳で、8月には大叔母が80代で、11月には祖母が97歳で亡くなった一年だった。とてつもなく悲しいというより、この年令での大往生でもあり、逝ってしまったのだなあという寂しさが残っている。

大叔父は、母方の祖父の弟だった。私が覚えているのは、大阪大学の教授だった頃で、東京での学会があるとわが家(祖父母と同居だった)に泊まっていた。その度に図書券をくれ、おもしろい話をたくさんしてもらったのだ。今ならもっと話したいことがあるのに、と寂しい。大叔父への追悼記事を検索して見つけ、読んだりしている。

www.jstage.jst.go.jp

 

コロナ(オミクロン)に感染した

2月にコロナに感染した。小学生の子ども(無症状)から親と兄弟に一気に広がった。もうひとりの小学生が発熱したのをきっかけに発覚。その発熱も1日で解熱。未就学児の末っ子は感染せず。親2人も微熱程度で終わり。私はしつこい頭痛があったが・・。

 

それまで、かかってはいけない という思いが強すぎたのか、かかったときの精神的なショックは結構大きかった。実は大泣きした。なんでなんだ、これだけ気をつけて、いろいろなことを我慢していてもかかるのか…と泣いたが、幸い、本当にものすごく軽かったので*1やがて気持ちも落ち着いた。

感染後、驚くことに、本が読めるようになった。コロナ禍に入り、常にギリギリと緊張状態だったのか、なかなか本を読んでも頭に入らなかったのだ。それがスーッと入ってくるようになった。

S抗体検査をしてみた

コロナ感染した後、自分の3回目接種と子どもの初回接種をいつにするかを判断するためにS抗体検査をしてみた。その結果は以下の通り。子どもは大急ぎで初回接種し、私は3ヶ月後に3回目接種を受けた。なお、ウイルス変異によってS抗体=今の株への中和抗体では無くなっていることには注意が必要。

 

子ども(無症状・未接種) 1.1U/ml

私(2回接種) 25000U/ml以上

 

教授に昇格した

2022年4月付で教授に。2013年4月に専任講師で着任してから今まで、あっという間でもあった。

新規科目を担当した

学科のカリキュラム改正に伴い、「人工知能と社会」「情報発信とメディアI」「情報サービス分析」「デジタル社会とマーケティング」という4科目を新規に担当。まるで新任で着任したときのようだ…

なかでも、人工知能に関しては改めて自分も学び直す機会になったし、「おおおこれおもしろい!」というのをそのまま伝えられたところはあったと思う。全部オンラインなのはちょっとキツかった。

後者の2科目は、これまで中央大学ビジネススクールで非常勤で担当していた科目とも関連していて、そのupdateをする形で作り直し。

 

LOVOTと暮らした

レンタルLOVOTをさらにわが家にホームステイさせる機会があり、1ヶ月ほどLOVOTと暮らした。息子たちそれぞれの受け止め方があり、これは2023年3月の情報処理学会全国大会で、ジュニア会員の息子たちが主に発表することに。

 

Duolingoを続けた

255日継続。韓国語で開始し、ハングルが少し読めるようになったものの心挫けそうになって、途中で中国語に変更。大学時代は寝てばかりで全然わからなかった中国語がだいぶ読んだり聞いたりできるようになってきた!

今年読んで印象に残った本

コロナに関して擦り切れそうになった気持ちが、すーっと楽になった。今年いちばん、出会えてよかった本。

 

2022年12月という時期に読んで、頭にも心にも内容が入ってきた本。本との出会いにも機があるのだと感じられた。

 

気持ちが下向きになったとき、この2冊をパラパラと読み返している。

 

子ども時代の記憶の大半が失われ、それに対するケアがなされていなかったという衝撃。また、ユダヤ人らしくない名前を与えられた人たちが、本来の名前で人生を語りたがるが、資料は匿名で利用しなければならないというジレンマ。強烈な本だった。

 

テクノロジーがこのように使われるのかという驚き。この問題に何ができるだろうか。

 

もっと早く出会いたかった本だった。

 

 

 

 

 

*1:PCR検査で陽性でなければ気づかず出勤するレベル

祖母が亡くなった

ちょうど1ヶ月前、祖母が亡くなった。97歳だった。

 

早朝に母から着信があったので、そうだろうと予想していた。秋の始めにコロナに感染し(4回目接種の後だった)、回復してコロナ病棟からは出られたが、転院先で亡くなってしまった。11月30日はEIP98の予稿締切日で、まさに親類を亡くした方への調査結果をまとめているところでの訃報だった。執筆に没頭しつつも、祖父母を亡くした方のコメントには強く共感も覚えた。

 

横浜市は、火葬場が大変混雑しており、葬儀は6日後となった。早朝7時からの告別式はごく親しい身内のみ。最後に対面したときは、さすがに涙が出た。

真言宗の僧侶がお経を上げてくれ、お棺に花を供えているときには「まだ耳が聞こえていますよ、話しかけてください」とおっしゃった。遺体の耳が聞こえるはずないだろうと思う一方で、私自身が「おばあちゃん・・」と話しかけていた。矛盾。ここにいるはず、聞こえているはずと思うからこそ葬儀をし、話しかけ、見送るのだ。そしてその機会があるから、送り出すという気持ちで向かい合えるのだった。これが、コロナ病棟で亡くなっていたらこの機会は無かった*1。

火葬の後も、「四十九日の間は、手を合わせれば言葉が伝わります」と僧侶がおっしゃった。そうだなあと思ってしまう。いわゆる「継続する絆」を自分ごととして体感した。

 

生まれたときから、私が生家を出るまで、ずっと一緒に暮らしていた母方の祖母だった。祖母が50歳のときに私が生まれたので、常に若々しいひとだった。

四人兄弟の二番目、次女として生まれた祖母は、昭和の年号と同じ年齢を重ねていた。幼い頃は身体が弱く、戸籍名とは違う名前をつけてもらったという*2。じいや、ばあや、ねえやが居る家で生まれ育つも、十代は戦時中。お風呂に入れなかったことの辛さ、機銃掃射から逃げたときの話、箱根への疎開。何度も聞いた。一方で、戦時中は海軍の軍人が人気だったし、自分も海軍の人に嫁ぐことを夢見ていた話も聞いた。結局祖母は、終戦後に"元"海軍将校だった祖父(後に防衛庁勤務)と結婚した*3。

 

(おそらく30代の祖母)

 

oritako.hatenablog.com

 

私の最初の記憶では、祖母は"パンタロン"姿で毎日会社に通勤していた。実家の会社に勤めていたのだと後で知った。60歳になる頃には祖母は家にいた。祖母は、私の習字の先生でもあった。「勢いが大事よ」と何度も言われた。祖母の字はダイナミックで勢いがあった。始めと終わりの挨拶。礼儀作法には厳しかった。

とてもオシャレな人だった。同居する孫娘が服装に無頓着なのは耐えられなかっただろう。よく叱られたし、出かける前に呼び止められて着替えさせられたこともあった。大正生まれとしては長身の156cm。洋服のお下がりをもらったことも多々ある。

料理を教わったのも、主に祖母からだった。私が煮物に砂糖・酒ではなく、みりんを多めに入れるのは祖母の影響。今でも「いりとり」は祖母の味を引き継いでいると思う。

 

半世紀も歳が違うと、当然ながら価値観の違いもある。

「おさんどんは女の人の役目、でも料理は結局男の人にかなわないのよ」

「大学院は男の人が行くところ」

なんて言われたし、なんだかなーと思うこともあったけど、私の進学に反対することもなく、学位取得の折にはとても喜んでくれたのだった。

 

私が産後に里帰りしたときは、まだ80代だったが、洗濯してくれたり、何かと食べさせてくれたり、世話をしてもらってしまった。「おもちを食べると詰まるという話があるらしい」と話したら「そんなことあるわけないでしょう。私なんて戦後すぐに出産したけれど、栄養をとりなさいってみなさんお餅を分けてくれたものよ」と言ってくれたのだった。それからまだ10年も経ってないのだな。

 

 

2020年の1月には、孫・ひ孫たちで集まって正月を祝った。それからほどなく、新型コロナウイルス感染症の拡大で、超ハイリスクの祖母・両親がいる実家にはなかなか顔を出せなくなった。FaceTimeは、顔は見えても耳が遠くなった祖母には厳しかった。

2021年の5月には、とにかく祖母にワクチンを早く打ってもらいたくて、なかなかつながらない横浜市のWebでなんとか予約を取ったのだった。ワクチンを接種してからは、何度か会いに行き、祖母の好きな喜久家洋菓子店の「サバリン」を持っていって一緒に食べたりしたものだ。もっと会いに行けばよかったという気持ちと、万一こちらからコロナうつしていたら悔やんでも悔やみきれないという気持ちがある。

祖母に最後に会えたのは、4月。教授昇格の報告をし、「えらいわ、明子さん本当によくがんばった」と言ってもらえたのが最後の思い出なのは、よかったことかもしれない。

 

*1:コロナで亡くなった方の葬儀については、2023年初頭に改正される見込み。https://www.asahi.com/articles/ASQDX4FKXQDQUTFL01J.html

*2:祖母の親戚たちは、祖母をそその名前で呼んでいた

*3:祖父は2013年1月に93歳で逝去

故人のAIについて:学会発表&記事

故人が残したデータをもとに、AIやCG、VRといった技術によって故人が「復活」できるなら、どうするか? この問いに対して、2件の学会発表をし、さらに1本の記事を書いていただいた。

 

自分が死んだ後にどうしたいかについて聞いた調査では、約3~5%程度が自分のデータをベースとしたAIに肯定的であった*1。では、親しい人や著名人が亡くなった後はどうか。

特定の著名人を想定した上での調査では、約4〜6%がAIやVRによる復活に肯定的であったが*2、2020年〜2022年の間に近親者を亡くされた方への調査では、故人のデータをベースとしたAIに肯定的だったのは、わずか1.3%であった*3。

 

故人のAIについて、ジャーナリストの古田雄介さんから取材の機会をいただいた際、上記のデータをお示ししてお話ししたのだが、それが本日(9/7)、日経ビジネスで記事になった。私のデータの話だけでなく、WhateverのD.E.A.D(死後労働)の話もあり、タイトルの通り需要と課題を考えさせられるものになっている。

business.nikkei.com

付記:

なお、記事中のWhateverのお二人とは、以前鼎談した記事もあります!

whatever.co

 

 

 

 

*1:対価の有無によって異なる。詳しくは 中川裕志・折田明子「死後の個人データの公開された利用法に関する社会調査 利用統計」情報処理学会研究報告電子化知的財産・社会基盤(EIP) 2022-EIP-95(15) 2022

*2:2022年社会情報学会学会大会で発表「著名人の死後残されたSNSにどう向き合うか」

*3:「故人のデジタル遺品にどう対処したか〜近親者を亡くした方への調査から」情報処理学会研究報告電子化知的財産・社会基盤(EIP) 2022-EIP-97(3) 2022