戦後日本の原子力発電計画に対する一人の米国人物理学者の諌言*1

 ※[転送・転載歓迎・拡散希望] このコンテンツは、「原発ダイアリー」でご紹介したものです。

(川本 稔 2011年4月8日)

 1957年、私は当時の岸内閣の経済閣僚であった高崎達之助氏の命を受け、原子力の平和利用の現状視察のため同僚と二人でアメリカへ渡った。

 当時日本の原子力に対する一般認識が低く、原子力=原子爆弾と云う域を余り出ていなかったと思う。原子力の平和利用については、まったくという程一般知識が欠けていた。勿論私も例外ではなかった。

 そのような時代に私は、アメリカの代表的な原子力発電施設や原子力研究所の幾つかをつぶさに見ることができ、極めて充実した希望の毎日を送っていた。そして旅程の最後にテネシー州にあるオークリッジ国立研究所(Oak Ridge National Laboratory)を訪問したときほど深い感銘をうけたことがなかった。そこで初めて、原子力開発自体に極めて根本的な問題が幾つもあることに開眼させられた。

 同研究所の所長、アルヴィン・ワインバーグ博士(Dr. Alvin Weinberg)が、戦後初めて会う我々日本人に話してくれた貴重な lesson をここで紹介しておきたいと思う。

 「私は広島に落とされた原子爆弾、"Little Boy" の製作に係わった一人です。まさか人間の密集する頭上にこれが落とされるとは思いも寄らなかった。それ以来罪悪感に苛まれ、若しもう一度人間に生まれ変わることがあれば物理学者に絶対ならないと誓っている。それほど後悔している。日本国民に深くお詫びしたい」と言って右手をさしだした。

 その時彼の眼には光るものが見え、私も胸中熱いものが込み上げて来たのを今でも鮮明に覚えている。私にとって、原爆投下の罪を詫びたアメリカ人が、彼が初めてであったからであろう。そして今でも、彼が最初で最後である。

 ワインバーグ博士は更に言う:
 「日本は廣島、長崎と二度までも原爆と言う悪魔の洗礼を受け、もう原子力には懲り懲りだと思っていたにも拘わらず、今度は原子力の平和利用と言う名目で、特に原子力発電に興味を持ち始めた。これには私は理解に苦しむ。そこで貴方に言っておきたい事がある。どうかそれを私の土産として日本の皆様に伝えてほしい」

 「いったん原子力開発に手を染めるとPandoraのBoxをOpenするのと同じことになる。この世のありとあらゆる災難が頭上に降りかかって来る。それは平和利用の為であっても。やがては人類、ひいてはこの地上のすべての生物を破滅に導くのである」と彼は語気強く語った。

 さらに彼は言う:
 「原子炉でウラン燃料を燃やすとウランの灰が残る。この灰には有毒放射能が残っていて其の毒性は何千何万年と言う長時間残存するものが多い。そこでこの灰を人類其の他地上のあらゆる生物に危害が加わらない安全な方法で保管または処置をしなければならない。

 現在アメリカでは、用済み燃料をドラム缶に詰めて人里はなれた広大な砂漠の地中深く埋めるか、深海に沈めている。しかしいずれドラム缶が腐食し中の放射能が漏れて地下水に溶け込み、河川に運ばれ魚介類に吸収され、食物連鎖で最終的には人間の口に入り我々の健康を害し、また連鎖的に動植物に危害を加え、その結果生物に取り返しのつかない事態を引き起こす。

 アメリカの一般国民はまだこの様な無責任なやり方に気付いていない。しかし早晩これに気付き、大問題に発展することは必至である。しかし今の所、山積する放射能廃棄物を処分する方法はこれ以外にないのである。実に情けないことである。

 未来何千年、何万年にわたり、地上の生物を放射能の危害から100%安全に守る方法が見つかる可能性は残念ながら薄いと言わざるを得ない。まさに八方塞がりの状態で、これは原子力開発のもつ実に悲しい宿命である。

 また原子炉の耐用命数は約30年。30年経てば解体しなければならない。しかし今日現在、いまだ安全な解体技術が開発されてないという悲しい現状である。かりに開発されたとしても、比べ物にならない高レベルの放射能を持つ炉心部やその他部品をどうやって安全管理するのかと言う更なる難問題にぶつかる。

 一方、原子力による発電コスト(直接費)については、各種レベルの放射性廃棄物の保管又は処分にかかるコスト(間接費)を加算すると、きわめて高いものにつく。アメリカの原子力発電は戦争目的で作られた原子炉の副産物であり、しかも無利子の資金を使っているので商業用発電コストの参考にはならない。

 さらに日本の原子力発電施設の立地条件の観点から見ると、

    1. 日本は人口が多い。(アメリカの約50%)
    2. その領土は狭い。(アメリカの約5%)
    3. その上、地震多発国である。

 という悪条件が三拍子揃っている。まるでバッターボックスに立つ前に三振がコオルされているのと同然である(like having three strikes called before coming to the batter's box)。

 また原子炉の運転ミスが絶対にないと言い切れない。その上、予想外に大きい地震が発生し大量の放射能漏れが発生したとなると、日本の人口が稠密(ちょうみつ)である為、外国と比べ物にならない多くの人身災害が出る可能性が大である。かりに放射能漏れがなくとも、放射性廃棄物の不完全管理の為、原子爆弾による一瞬にして起こるダメージと同程度のものが、じわじわと起こることが必然である。

 原爆の恐ろしさを身をもって体験させられた日本人こそ、原子力の平和利用、中でも安価で豊富な電力と言う美名に乗せられて悪魔と取引してはならない。又、科学者の言うことを鵜呑みしてはいけない。

 日本には同じ太陽熱の利用であっても核分裂によらない世界に冠たるクリーンな生産技術があるではないか。それはクロレラ生産の技術である。代表的な施設が東京郊外にあるはずだ。クロレラを増産し、人や動物の食用に供し、そのノウハウを応用発展させれば有益な展望が開けるのではないか。


 このようにワインバーグ博士は、原子力開発の先駆者として、それも廣島に投下された原子爆弾製造に加担した一人として、後悔の念もあって心の奥底から日本に対して忠告してくれているのだ、と緊張して一言一句逃さないよう聞き耳を立てていた。

 帰国して岸総理、高崎大臣に、博士の忠告をそのまま報告したことは言うまでもない。しかし日本の採った道は博士の言う「悪魔の原子力発電」であった。いまや60余の原子力発電施設が日本狭しと並んでいる。しかも日本が選んだ発電炉は皮肉にもワインバーグ博士の特許である、ウランを燃料とする軽水炉であった。しかも早や1960年代初頭、既に博士はウラン型軽水炉の弱点を声高々と警告していた。

 博士は、電気系統に故障が起きた時に原子炉が制御困難に陥り暴走する危険性のあることを指摘し、そのようなことのないトリウム燃料型への切り替えを推奨していたのだが、アメリカ政府と業界の猛反対に遭い、ついに博士は長年勤めたオークリッジ研究所を追われる身となった。

 いうまでもなく日本の原子力発電は、勤勉な日本の労働力と相まって、戦後日本の産業復興に貢献し「ジャパン・アズ・ナンバーワン」のラベルが至るところに貼られるまでに至った。その功績は将(まさ)に原子力発電に負うところ大であった。一方、パンドラの箱が開かれてから早や50数年、博士の恐れた「この世のありとあらゆる災難」の一つ、いや三つ、「地震、津波、原発破壊」がわが国を襲い、我々は英知を絞って対処している真っ最中である。

 結果いかんを問わずわが国民は、これ以上原子力発電政策の継続を許さないだろう。これに変わるClean energy, clean air政策を重点的に採用することを要求するであろうし、そうすべきである。

 日本としては、すでに実用化されている風力発電、太陽熱パネルの利用を大々的に後押しし、小型強力電池(大型車両、船舶、住宅、ビル、工場等に用いる)の開発を応援し、その他 clean な方法でcleanな環境つくりに専念すべきであることは、いうまでもなく肝要(かんよう:非常に大切なこと)である。

 原子力が日本にもたらした功罪、就中(なかんづく:とりわけ)、現在展開中の第三の惨状をワインバーグ博士はどのような思いで観ておられのであろうか。いまや知る術もない。ただ慙愧(ざんき:恥じ入ること)の涙で目を一杯にしていることであろう。願わくば、彼の顔に笑みが戻る日の早からんことを祈っている。

川本 稔 1920年カリフォルニア州サクラメント生まれ。35年日本に帰国。43年陸軍に入隊。戦後、日米の文化と言語に通じた能力を生かしてGHQの民間情報教育局勤務。51年シンシナティ大学政治学科卒業。帰国後は戦後の昭和史に残るさまざまな国家プロジェクトに係わる。電源開発初代総裁高崎達之助の特別秘書、石橋湛山首相秘書を務めた後に政治の世界を離れ、九州石油開発、インドネシア石油などの役員顧問を歴任。現在は東京の自宅と湘南の別荘で生活を楽しむ。