「弱者/強者」の落とし穴(Masaoさんの「ダブスタ」問題)

「被害者」の反撃を「正論の暴力」だと責めたのに、自分が「被害者」になると窮状を訴えているのはダブスタだというのはその通りだが、それ以前に気になったことがあった。


ウェブ上で中傷され脅迫めいたことを何度か書かれるという点で、ごく短期だが似たような経験を去年した。それについて遠回しに触れた記事を上げて、はてな界隈でちょっとした「揉め事」になった時、いち早く渦中の相手を批判した人の一人がMasaoさんだった。
正直に書くが、それまでたまに違和感を覚えて突っ込みを入れたことのあるブロガーであるMasaoさんのその記事を、私はあの時どれだけ心強く思ったか知れない。
そのMasaoさんが、半年後、今度は被害を受けた人を非難するような記事を書いているのを見て、ありゃりゃと思った。半年前のアレは、いったい何だったのかと。これこそダブルスタンダードではないか。
だがしばらくして、少し違う見方になった。


ダブスタとは、二つの相反する規範=「理」が共存している矛盾を指す。でもMasaoさんの中にあったのは、二つの「理」というより「情」であり、行為そのものへの判断があったのではなく、好き嫌いという感情が中心となって態度が決まっていたように思える。
私の件では相手のことを前から嫌いだった(実際そう書いていた)から一層非難しやすく、今回は一方に感情移入するあまりに、その人に嫌がらせをされていて反撃した人を非難した。
その条件というか傾向としては、相対的に「弱者」に見える人に味方し、それと比べて「強者」に見える人を攻撃していた。だからMasaoさんとしては今回も、「被害者」叩きではなく、その時々の相対的な「強者」叩きをしているつもりだったと思う。*1


「弱者」に肩入れしたいという心情、スタンスそれ自体はよくわかる。私もそうしたものを持っている。
しかし「弱者/強者」の枠組みは、視点の取り方によって違ってくるし、当事者の言動によっても別の関係に変わり得る。
にも関わらず、Masaoさんにとって「弱者/強者」は固定的であり、「弱者」贔屓は「いかなる場合も正義」となっていたのではないだろうか。「正義」と思えば、それを主張し人に押し付けることも可能となる。


Masaoさんは批判されて、自分でもダブスタを認めていた。確かに、はしごたん擁護と「今、脅迫されてます」は、言動だけ見ればダブスタにはなるが、それはあくまでそれぞれの言動に相反する理屈があるとした上でのことであって、実際は個人的感情が強く関与しているとしたら、ダブスタがいけませんでしたと言っても、あまり意味はない。
気をつけなければならないのは、なんでも「弱者/強者」という構図で固定的に見てしまうことの陥穽だ。そういうフレーミングはわかりやすい分、時としてある種の思考停止を招くのではないかと思う。

*1:だから、「被害者叩きだ」という批判には、実のところあまりピンと来てなかったんじゃないかな。