「おばさん」というもの

「おばさん」関係記事が賑わっております。
かわいいとうつくしい5 それがゾンビの生きる道ぃ♪(兎美味し 蚊の山)
早くおばさんになりたかった(深く考えないで捨てるように書く)
おんなであること(メモ)※現在、プライベートモードです。
おばさんよりはおじさんかおじいさんになりたい(呉市振興委員会)


usauraraさんのところで、コメント(の終わりの方)に「同世代の女性に訊いてみたいのは、「おばさん」であることをどう受け入れていくのかということです」と書いたことが発端かもしれない。私は48歳のおばさんど真ん中年齢なので、ブログを書いている同世代の女の人の意見をちょっと訊いてみたかった。


そこでusauraraさんは、
「ん。。。。受け入れなくちゃいけないですか?いいんじゃないですか、中身が女でも。
あ、ただね、子ども産んだら一旦普通は女捨てますね。だから子供というのは大きいです。
でもしばらくすればまた「あー、私って女だったのねー」みたいな揺り戻しがあるし、
40代くらいはみんなジタバタしていると思います。私もそうですよ^^」
と答えていた。
そうかー。そうですかやはり。
で、翌日の記事で「大野さんはゾンビとして生きなさい」と言われたような気がする。ゾンビだっていいのよと。優しいなusauraraさんは。


azumyさんの「「おばさん」になったらば自由にできることがある」にも半ば同意し、aozora21さんの見た老女にも半ば感情移入し、torlyさんの「おじさんかおじいさんになりたい」気持ちもわかるような気がする私。
要するに、中途半端ということだ。もっと腰と目線が座っていたら、「おばさん」であることをどう受け入れていくのか‥‥なんて悩みは自分の中に発生しないだろうし。


ところで私の考える「おばさん」とは、「女としての諦観にどっぷり浸りつつ楽しく生きる者」である。にそう書いたので、一応これを自分の「おばさん」の定義としておこう。以下抜粋。

 たとえば五十五歳の渋い”ロマンスグレー”が二十代や三十代の女性と恋に落ちることは結構ありそうだが、男女が反対のケースは極端に少ないだろう。せいぜい頑張って四十代前半までだ。それも大抵若々しい美人に限られる。
 そういう恋愛関係を四十代女優の代表、黒木瞳が映画『東京タワー』で演じていた。黒木瞳だからできるのであって、そこらの四十代半ばの地味なオバさんが二十代の男とせつない仲になるのは、金も地位も顔にも恵まれない男が美女と結ばれるくらいファンタジックな話。それが、あの映画の裏のメッセージだった。
 四十代でも五十代でも六十代でも、内面の輝きが容色の衰えをカバーして余りあるほど魅力的で、しかもそれに引き寄せられる希有な男を正確にキャッチできる能力をもった人は、オバさんとは決して呼ばれない。
 小説家のマルグリット・デュラスみたいに、六十六歳にして二十八歳の青年に熱烈に崇拝、敬愛され同棲生活を送ったような人になると、別格中の別格である。ゲイジュツの世界にしかありえない話かもしれない。
 そういう例外を除いて、恋愛相手としての女性の価値で重点を置かれるのは若さと容色であるから、男女はどうしても対称にならないだろう。だから五十代以上のオバさんたちの多くは、ヨン様の住んでいるファンタジーの世界に逃避する。
 四十代のオバさんにはまだ迷いと焦りと男への期待があるが、五十を過ぎるオバさんたちは、周辺の男に対してリアリストである。
会社では女子職員に「部長、渋くてステキ」と思われているかもしれない夫も、家ではサエないただのオッサン。人の前で平気でオナラはするし、パンツ一丁で歩き回るし。
 現実の男なんてそんなもんよ。ヨン様さえいればいい。それにこの歳じゃ男は寄ってこないしね。オバさんという人種は、諦めが早く出来ている。女としての諦念にどっぷり浸りつつ楽しく生きる者を、オバさんと呼ぶのである。


『モテと純愛は両立するか』より「おじさんと純愛プロジェクトX」

「冬ソナ」ファンの中心は言うまでもなく中高年女性、いわゆるおばさんと呼ばれる層である。おばさん達の絶大な人気を獲得した秘密は、安心感と王子様願望とノスタルジー。何についての安心感かと言えば、まずセックスのことを考えなくていいという点にある。
 多くの女は歳をとると性的魅力が乏しくなっていくので、既婚未婚に限らず、恋愛、セックスの機会も徐々に減少していく。超熟女ブームが世の中を席巻しない限り(たぶんしない)、これは厳然たる事実である。
 だからばりばりのセックス込みの恋愛ものは、それが感動的であればあるだけ、「厳然たる事実」を重く受け止める中年女の、嫉妬と羨望と焦燥感を掻き立ててしまう。
 しかし、もしそれが純愛ものであれば、話は別。性的描写の希薄さが物語上許されるので、感動的であればあるだけ、現実(もう「女」とはみなされないこの体‥‥)から目を背け、安心してドラマに没入することができる。
 渡辺淳一の言うように、必ずしもおばさん達の「性的成熟度」が低いわけではない。セックスなんかしなくても、大事にしてもらいたいのだ。重要なのは「愛されている」という実感だ。
 だから「冬ソナ」のチュンサンとユジンの関係は、おばさんにとって理想の男女関係である。すぐイヤラシイことに持ち込まない奥ゆかしさがいい。そんなことしてつなぎ止めなくても、男は「ちゃんとごはんを食べるんだよ」などと情け深い言葉をかけてくれるではないか。なんて癒されるんでしょう。
 (中略)
 あの古き良き時代に戻って、純粋に愛に生きたい。優しい王子様に出会い(直し)たい‥‥。その積もり積もった怨念にも似た思いは、胸の奥深くに封印されていたのだが、ヨン様の「ちゃんとごはんを食べるんだよ」の一言によって、ダムが決壊したかのごとく溢れ出したのであった。
 ヨン様に群がるおばさんたちから皆が目を背けたくなるのは、その長年封印された思いの「発酵臭」ゆえである。なぜそんなになるまでほっといたんだ、もうちっと早くなんとかならんかったのかということであるが、なんともならんかったのである。おばさんを揶揄するだけのおじさん達にも、反省を促したい。


同書より「韓国純愛ファンタジー」


書きながら「これはおばさんと呼ばれる人の一面でしかないだろうな。いつかちゃんとおばさんについて書かないと」と思いつつ、あれから何も書いてない。
おばさんについて語ると、自分語りが入る。おばさんがおばさんについて書くのだから、どうしてもそうなる。
「おばさん」を落ち着いて静かに受け入れている人の自分語りは、人生の厚みと味わいを感じさせて気持ちいいものだが、そうでないといろいろ見苦しいものが滲み出てくるのではないか?という気がして、怖くて書けない。
まあいつか書こう。