科学論と科学史の同床異夢 Daston, "Science Studies and the History of Science"

 1970年代から2000年代にかけての科学論と科学史の関係を素描した論考である。科学論と科学史はかつては大変緊密な関係にあった。とくに科学史は科学論から研究領域や研究方法の面で大きな刺激を受けていた。この共同戦線は両分野が共通の敵と対峙していたからなりたっていた。その敵とは科学を経験と論理だけの産物とみなすポジディヴィズムである。

 だが二つの分野はやがて違う道を歩みはじめる。分かれ道の出発点は同じだった。クーンの『科学革命の構造』である。だがそこから読みとられたメッセージが異なっていた。科学論はクーンの著作から、「対称性の原則」をとりだした。論争の結果、ある科学理論Aが採用され、別の理論Bが棄却されたとしよう。このとき科学論者なり科学史家は、この帰結をAがBより正しかったからと説明してはならない。そうではなく真理の問題に関しては、AとBは同じ地位を占める(対称的である)とみなしたうえで、それ以外の水準でAの採用とBの棄却を説明せねばならない。この意味で科学は(単なる論理でも経験に回収できない)なんらかの社会的プロセスによって構築される産物である。このプロセスを説明するために多様なディシプリンからの様々な方法が導入される。科学論は学際的な領域であり続ける。また科学論は強い相対主義にいたる。著者自身がやや戯画的に描いているとみとめる描像によると、科学論者の科学観はマニ教のごとき二元論に支配されている(この点でじつは科学論は科学そのものに近いと著者はいう)。科学の営みが論理と経験だけでは説明できない。ならば科学は社会的構築物であり、その真理性とそれを唱える科学者の誠実さは疑問視されねばならないというわけだ。

 たいして科学史がクーンに読みとったのは、科学の歴史記述から目的論(teleology)を排除しなければならないという教訓であった。かつての科学をそれよりあとの時代の科学のプロトタイプとみなし、その観点から論じるべき点や評価を決定してはならない。かつての科学をそれが行なわれていた時代から論じるべきだ。ここから科学史家はかつて行なわれた活動のなかで、現在の科学に該当するようにみえるものを、ほんとうに科学と呼ぶべきかに強い疑念をいだくにいたった。むしろそれは科学ではないなにかであり、それがなんらかのプロセスで科学となったのではないか。この過程を解明せねばならない(こうしてかつての営みを科学から切り離すことで、科学史の著作は科学者に読まれなくなった)。そこから科学史家の目はその(科学とは厳密には呼べない)活動を成立させていた当時の歴史状況に注がれることになる。こうして科学史は歴史学に接近する。科学の本質に関するなにか哲学的、ないしは社会学的なテーゼを裏づけるためのケーススタディはなりをひそめる。アーカイブでの調査に依拠したミクロなレベルでの記述が増大する。科学論者は科学を出発点において、それに学際的にアプローチする。たいして科学史家は科学自体のなりたちを説明するために歴史学の方法を採用するのだ。

 さらにミシェル・フーコーによるセクシュアリティ、自己、真理といったものを歴史化する試みが科学史に巨大なインパクトを持った。そこから事実、客観性、論証なども科学史家による歴史化の対象となる。これは一見相対主義にみえるかもしれない。しかし違う。科学史家はある科学的営みが歴史上の特定の状況で形成されたことを認める。その意味でそれは偶然的(contingent)だ。だがそのことはその営みによって現実のある側面が真実にとらえられていることを否定しない。

 こうして科学論と科学史は分離した。科学史は歴史学としてディシプリン化された。これがよきことかどうかはわからない。かつての科学史は多様なバックグラウンドを持つ人々を受けいれることで、多くの読むにたえない作品を生むとともに、いくつかのきわめてすぐれた成果を生みだし、隣接領域に刺激を与えた。一方歴史学化した科学史の成果はみなきわめてよくできる。そこから教えられることも多々ある。だがそうじて平板だ。一方科学論はつねに学際的で、(その実践者たちがいうように)「周縁的」で「萌芽的 adolescent」な領域にとどまっている。だからこそ科学論は同僚による同僚への批判が飛びかう論争的な場として機能しつづけている。だがそこに参画している人々は、科学論が持つ可能性に自信を失っているようにみえる。