川端康成の嘘

川端康成が自身の翻訳観・日本語観を披歴した文章に「鳶の舞う西空」という随筆があって、精読したことがある。「『源氏物語』の作者に『紫式部日記』があった方がよいのか、なかった方がよいのか。なくてもよかった、むしろなければよかったと、私は思う時もある」という書き出しのこの随筆は、最初のほう「源氏物語」の英訳や日本古典の現代語訳について取り留めのない話をしているけれど、半ばあたりでおもむろに「川嶋至」という名前を出し、そこから先、この人への反論となる。どうやら翻訳の話は枕にすぎなくて、反論が本題であるようだ。川嶋至は知らない名前だったので、精読の一環として軽い気持ちで調べ始めたら、とまらなくなった。それで結局、国会図書館まで行くはめになった。もう十年くらい前の話になるけれども。

いま小谷野敦『川端康成伝 双面の人』を読んでいるのだが、読み始めてすぐ、この人の名前が出てきた。引用させてもらう。「川端に対していくぶん屈折した情熱を抱いていた川嶋至(一九三五―二〇〇一)は、川端に対する批評のような、攻撃のような文章を書いていたが、文壇から『パージ』され、江藤の世話で東京工業大学に就職したと言われている(井口時男『危機と闘争』)」。「江藤」は江藤淳のことだが、井口時男のブログに、このあたりの事情について少し詳しい記事があったので、下にリンクを貼っておく。

川嶋至が忘れられている (事実は復讐する) : 井口時男のLIBRARY

川嶋至は批評家で、いまや知る人ぞ知るという存在で、つまりは知らない人が多い。そう思われる。けれど川端康成にある程度深い関心を持つ人で、川嶋の名前を知らない人は、たぶんいない。川嶋は、批評には答えないと繰り返し語ってきた川端*1から、二度にわたってリアクションの言葉を引き出した批評家として知られているのである。

こういう話を聞けば、だれでもこう思うだろう。いったいなぜ川端康成は、この批評家の言葉に限って、二度も反応を見せたのか。この批評家の言葉のどこに、それほどまで川端を刺激するものがあったのか。この素朴な疑問に答えたい。そう思っていま、これを書いている。

川嶋至が最初、川端康成に捕捉されたのは、「細川皓」名義で書いた「川端康成論――『伊豆の踊子』を手がかりに――」*2という評論によってである。「伊豆の踊子」に出てくる踊子には、伊豆旅行で出会った踊子ではなく、むしろ、それより後に出会った「みち子」*3のイメージが強く投影されているのではないかと問うものである。川嶋は、いくつかの根拠を挙げているけれど、その中に、「みち子」との「恋愛事件」を扱った一連の作品のひとつ「非常」の結末部と「伊豆の踊子」のそれとで、「主人公、『私』の「発想形式が酷似している」という指摘がある。前者「非常」では汽車の中、後者「伊豆の踊子」では汽船の中の出来事として、偶然に乗り合わせた受験生の好意を当然に「私」が受け入れ、そのまま眠りに落ちるという場面が描かれている。この事実を踏まえ、川嶋は言う。「『伊豆の踊子』が、四年前に出逢った記憶も薄れかけた踊子の姿を、一年前に別かれていまだ印象も鮮やかなみち子の姿で補色し、氏のみち子に対する強い慕情を踊子に対する淡い恋心にすりかえるという作業を通して成立した作品であることは、ほぼ確実であろう」(強調引用者)。

この評論は、雑誌『群像』の懸賞募集で選外になったものだが、これが伊藤整の目にとまった。川端は、同誌掲載前の段階で、この論文の存在を伊藤から告げ知らされたのである。この話は、川端自身がエッセイ「『伊豆の踊子』の作者」に書いている。そして川端は、このエッセイの中で、最初の反論――というほどストレートなものではないけれど――を記してもいる。

川端はまず「『伊豆の踊子』の面影に『みち子』の面影を重ねることなど、まったく作者の意識にはなかった」と否定する。けれど、やはりみち子との一件での「傷心がこれ[「伊豆の踊子」の草稿のこと。引用者註]を書かせる動機となったのではあったろう」とも言う。そうであるならば、やはり「細川氏の見方は的確なのだろうか」。そう自問した上で、川端の出したひとまずの答えは「沈黙の受容でいい」。つまり批評は黙って受けとめる、というものである。

けれど川端は、川嶋の指摘の中にひとつ、「私を愕然とさせ、恐怖に突き落とした」ものがあると、そう続けている。ここで川端の挙げる指摘とは、すでに見た、「非常」と「伊豆の踊子」の結末が酷似しているという指摘のことだ。

川端によれば、驚愕の理由は、ふたつある。ひとつは、「伊豆の踊子」(大正15年)を書いたとき、「非常」(大正13年)で受験生の好意について書いたことは「忘れていた」が、川嶋の指摘によって、その忘却の事実に気付かされたというもの。そしてもうひとつは、両作品の末尾に書いてあることは「二つとも事実あった通り」なのであり、であるのなら、自分は人生で二度あった危機的状況において、いずれもたまたま乗り合わせた受験生から好意を受けるという体験をしていることになるのであり、これはじつに「ふしぎである」というものだ。つまり川端は、二つの作品で結末部の類似しているのは「作家として恥である」が、これは「捕色」や「すりかえ」が行われたことの決定的な証拠にはならないと暗に語っているのである。

川端の書くものではよくあることとはいえ、この先、文章は紆余曲折をはじめ、徐々に論旨が追いにくくなる。今は詳しくは見ないけれど、類似性の問題、事実と虚構の峻別の問題、記憶の問題、無意識の問題などをめぐる、つかみどころのない話が続き、最後、川嶋に対して感謝の意をあらわすような言葉が記され、ぷつりと途切れる。

さて、川嶋至は、その後もこの作家にこだわり続け、昭和44年、『川端康成の世界』を著す。原稿用紙にして500枚ほどのこの本が、川端二度目の反論を引き起こすことになる。川嶋が、この本の第二章「宿命の影」で、川端がみずから処女作と位置付ける作品「十六歳の日記」について、その評価の土台をゆるがしかねない、ある本質的な疑問を提出したからだ。

「十六歳の日記」は、最も新しい三十五巻本全集(昭和56年〜昭和59年)のかたちにいたるまで、かなり複雑な成立過程を経ている。その構成もまた複雑で、大きく日記の本文、「あとがき」、「あとがきの二」の三つに分けることができる。日記の本文は、作者が十六歳の時に書いたという日記の原文である。「あとがき」は日記の本文についてのメタレベルの説明、「あとがきの二」は〈日記の本文+「あとがき」〉についてのメタレベルの説明である。また、日記の本文には、適宜、括弧でくくられた作者による説明が挿入されている。「あとがきの二」は、そもそも十六巻本全集(昭和23年〜昭和29年)の各巻に付された「あとがき」として書かれた文章の一部を、後年「十六歳の日記」の作品それ自体に統合したものである。なおこの「あとがきの二」には、新たに発見されたという日記の文章が引用されている。

川端は、この「十六歳の日記」の日記部分について、改造社版九巻本選集第六巻(昭和13年〜昭和14年)の「あとがき」で、「字句の誤まりを正したほかは、十六歳の時の原文そのまま」だと語っている。だが川嶋はこの言葉を疑問視し、日記部分は十六歳当時の「原文そのまま」ではなく、二十七歳発表時、作者による「加筆訂正」を受けているのではないかという疑念を提出した。川端はこの作品を「すでに発表ずみの作品に先行する処女作としたかった」のであり、「この作品が十六歳の少年の作品であってはじめて精彩を放つことを、察知したのであろう」というのだ。

こうした川嶋の主張に対して、川端は、昭和45年3月、「鳶の舞う西空」を発表し、「憶測、誤判」と、やや強めの言葉で反駁を加えた。

これには川嶋至も黙っておらず、『春秋』昭和46年12月号に掲載された「川端康成の『紫式部日記』」で、自分は川端の反駁に「すべて納得したわけではない」と言い、「反論の材料もないわけではないが、いまはまだその時期ではないと考えている」と書いた。さらに「実証が現存作家におよぼす影響を考えると、当然のことながら、論者みずからにいろいろの制約を課さなければならない」のであって、「私の場合は、作者自身語ったこと、あるいはすでに先学が発表していることがらだけを、『解禁事項』として資料に用いることにしている。弁解めくが、川端論についても、他にも資料がなかったわけではないが、解禁事項しか使わなかった」と、なにやら意味深なことを言う。

川嶋がこう書いた翌年、川端康成が自殺を遂げる。

しかし、川嶋はその後、『文学の虚実』としてまとめられる評論を書き継ぎながらも、川端については、これといったことは語っていない。彼が再び川端について論じ始めたのは、平成7年に入ってからのことである。この年、川嶋は、昭和女子大学の紀要『学苑』に「川端康成日記の改変」という論文を発表する。そして、この論文を皮切りに、彼自身の死(平成13年)の前年に至るまで、川端康成についての論文を断続的に書き続けることになる。

川嶋は、この「川端康成日記の改変」(『学苑』平成7年8・9月合併号)において、ひとつの興味深い事実を明かしている。

川端康成は、生前から、エッセイなどに自分の書いた昔の日記をよく引用しているが、『川端康成の世界』の川嶋は、そのうち大正12年の記事に「保身」という語が頻出していることに注意を促す。たとえば、十六巻本全集「あとがき」(後に『独影自命』としてまとめられるもの)から大正12年1月3日の記事を直接引くと、終わりの方に、

夜中突然小説書きたくなる。哀れな自像なり。
昨夜汚き夢、汚き場所に月経の水を見る。何の故にや。
保身。

とある。また、1月10日の記事にも、

夜、月評書かんとせるも、頭悪くて話にならず。自棄になる。
保身。

とある(ほかの日にもある)。

この「保身」とは、いったいどういう意味なのか。川嶋はこう解釈する。「ともすれば孤独のうちにくずれおれようとする心身を、父の残した『保身』の文字を日記にしるすことによって、支えていたのであろう」。そして、「批評家としての川端氏が、(中略)父から与えられた『保身』の語を覚悟としていかに大切にしていたかをもの語っているようである」(『川端康成の世界』p.43)。

けれど吉行淳之介は、まったく別の見方をしていた。「川端康成日記の改変」によれば、昭和45年に川嶋が受け取った私信の中で、吉行は次のように書いている。

川端氏の日記に出てくる「保身」という言葉ですが、私はこの文字を見たとき、迷わず「オナニー」のことと解しました。「身の安全を計ること」という意味が、いま調べた辞書に出ていましたが、当時の氏の対女性観から考えて、うまく当て嵌まります。

しかし、川嶋は言う。「この吉行説は当時の私を説得するに至らなかった」。なぜか。「吉行が直観で推測しているのに対し、私の場合は、なによりも作者自身の発言に拠っていたからである」。ここで「作者自身の発言」とは、小説「父母への手紙」にある次の一節をさす。

父のあなたは死の床に起き上がつて、まだ頑是ない姉と私への遺訓のつもりで、姉のためには「貞節」と、私のためには「保身」と、字を書いてくれました。(中略)「保身」という言葉の本来の意味は分からぬながら、子供の私は、「たっしやになれよ。」と、あなたの心を読みました。わずか三歳の体の弱い私を遺して死んでゆく、あなたの胸のうちが察しられるような気がいたしました。

先の引用で「父の残した」云々とあるのは、この記述が根拠である。川嶋は、この小説を「自伝的作品」と呼んでいる。

ところが、後年、三十五巻本全集補巻一(昭和59年)に収められた日記に目を通して、川嶋は仰天する。次のような記載があったからだ。

保身――(三十日、この前)(大正十二年一月一日)


(頭悪くて、[こん]こんな文章さへ書けず。保身の害恐るべし。)(大正十二年一月二十五日)


疲労の感あり。保身のためなるべし。(大正十三年三月三十日)

「ここにおいて、吉行説が正しかったことには、なんの説明も要しない」と川嶋はいい、小説家の「炯眼にただ感服」する。と同時に、「日記の初出」となる十六巻本全集「あとがき」の該当部分に「保身」の意味を隠蔽するような削除・改変があったことを確認する。初出では、上と同じ個所が、次のように記載されていた。

保身(大正十二年一月一日)
[「――(三十日、この前)」が削除されている。引用者註]


(頭悪くて、こんな文章さへ書けず。――恐るべし。)(大正十二年一月二十五日)
[「保身の害」が削除されている。引用者注]


疲労の感あり。不節制のためなるべし。(大正十三年三月三十日)
[「保身」が「不節制」に変えられている。引用者註]

また、昭和38年発表のエッセイ「私のふるさと」の中に「死の床で父は私のために『耐忍』、姉の芳子には『貞節』と書き遺した」とあることを確認した上で、「康成の父が書き遺した言葉は、『保身』ではなく、『耐忍』であった可能性も濃厚なのである」と川嶋は述べる(なお『川端康成の世界』執筆時は、このエッセイは未見であったとのこと)。

ここで、ひとつ気になることが出てくる。こういうことである。川嶋が「保身」という言葉について幾らか高尚な解釈を開陳したのは、「十六歳の日記」の加筆訂正疑惑を提出したのと同じ『川端康成の世界』第二章「宿命の影」においてなのである。ところが川端は、「鳶の舞う西空」で、「十六歳の日記」の加筆訂正疑惑には反論しているのに、「保身」の誤解については、まったく何も言っていない。この沈黙をどう見るべきか。

「保身」に言及することで、その本当の意味を明かすことを川端がためらったためだ。「川端康成日記の改変」で「『保身』に関係した箇所を改竄した理由については、改めて語る必要もないだろう」と書く川嶋至であれば、迷いなくそう答えるだろう。つまり、羞恥心がその理由であると。しかし、この見方は疑わしい。もし羞恥心ということであれば、川端は、安全を期して(つまり吉行のような炯眼の士がいるから)、「保身」という言葉を日記からすっかり削除することもできたはずなのである。けれど川端は、そうしなかった。十六巻本全集「あとがき」の日記において、「保身」をいくつもそのまま残している。しかし、それだけではないのだ。

これは川嶋の指摘していないことなのだが、川端は生前すでに「保身」の意味を読者に明かしているのである。場所は『新潮』昭和34年9月号に掲載された「古い日記」の中だ。この「古い日記」には、十六巻本全集「あとがき」、そして川嶋を驚かせた三十五巻本全集補巻一とならんで、同じ大正十二年一月一日の日記が含まれている(つまり、川端の大正十二年一月一日の日記には3つのヴァリアントが存在するわけである)。そして、この日記の末尾に記されている言葉は、「保身、前は三十日。」。「前は」の語は、三十五巻本全集補巻一の「この前」同様、「保身」が何らかの「行為」であることを示すものであり、かつ、この日の周辺にある別の「保身」の記載や、それらの置かれている位置(一日の終わりや起床前)を考え合わせれば、その意味は明らかである。

川端は、これを「取得のない、恥ずかしい『古い日記』」と呼んでいるけれど、本当に恥ずかしいならそれこそ公開しなければいいだけの話で、公開しているのだから、たぶん本当は恥ずかしいと思っていない。

ようするに、川端が、「鳶の舞う西空」で、「十六歳の日記」の改竄疑惑に反駁する一方、「保身」の誤解にひとことも触れていないのは、羞恥心のためではない。理由はほかにあると見なければならないだろう。

(たぶん続く)


参考)関係年表
昭和7年……川端「父母への手紙」:父親が「保身」の字を書き残したという記述
昭和23年……川端「十六巻本全集あとがき」:昔の日記から「保身」の一部を削除・変更して掲載
昭和34年……川端「古い日記」:「保身、前は三十日」の記述
昭和38年……川端「私のふるさと」:父親が「耐忍」の字を書き残したという記述
昭和44年……川嶋『川端康成の世界』:「保身」についての自説と「十六歳の日記」加筆訂正疑惑
昭和45年……川端「鳶の舞う西空」:「十六歳の日記」加筆訂正疑惑への反論(「保身」については言及なし)
昭和46年……川嶋「川端康成の『紫式部日記』」:再反論の用意がある旨の記載
昭和47年……川端死去
昭和59年……川端『三十五巻全集補巻一』:「保身」をめぐる日記の改変の事実が明らかになる。
平成7年……川嶋「川端康成日記の改変」
平成13年……川嶋死去

*1:目についたものから適当に挙げておく。「僕は僕の作品に加えられた批評に対して、抗弁の必要を感じたことなし」(「嘘と逆」)。「私はこれまで自作の批評に対して、一言半句も答えたことはない。これからも答えないつもりである」(「文芸張雑」)。「私は自作については語らない。批評にも答えない」(「『東京の人』を書き終えて」)。「どのような批評に対しても私は答えたためしがない」(「改造社版『新日本文学全集・川端康成集』あとがき)。

*2:『群像』昭和42年9月号初出。のちに「原体験の意味するもの――『伊豆の踊子』」と改題の上、『美神の反逆』(昭和47年)に収録。

*3:本名は伊藤初代。川端の通っていたカフェで働いていた年下の少女で、川端は、いったん結婚の約束を取り付けるが、初代の側に「非常」が生じ、破談となる。