はてブ嫌いと著作権

「はてなブックマークのコメントは卑怯だ」なんて事がよく言われるわけですが、ちょっと考えてみた。

はてなブックマーク(以下・はてブ)で、あるブログエントリのことをクソミソに書くことと、自分のブログエントリではてブユーザーの事をクソミソに書くのでは、どっちがより陰湿なのか?

はてブが卑怯だと言われる所以は、多くの場合「コメント・トラックバックを受け付けていないから」

で、冷静に考えると、これははてブだけの問題ではなくて、コメント・トラックバックを受け付けていないブログもあるわけだから、コレを理由に「はてブは卑怯」というのは必ずしも正しくはないと思う。

コメント・トラックバックを受付していないブログが卑怯なのか? というと、コレは言及されていることが閲覧者に分かりにくいだけであって、言及されることを免れているわけではない。

(ekken♂ : ネガティブコメント対決 ブログ VS はてブより引用)


はてなブックマークは卑怯だ,という議論がある。コメントやトラックバックのように見える場所で言及してくれないと反応しようがないだろう,という論理。特にそれがネガティブなコメントである場合,それは陰口と見なされることがある。

卑怯か陰口かというのは,まあ人によってはそう見えることもあるのかな,と思う。はてブコメントが気になるなら http://b.hatena.ne.jp/entry/〜〜 で見られるじゃん,というekken 氏の言い分はもっともなのだが,世の中にはそういうことのわからない人もたくさんいるし,知っててもめんどくさい,リファラ見るのもめんどい,って人もいる。*1そういう人にとって,自分の領域ってのはネット上ではブログや参加してるコミュニティの掲示板等であって,それ以外の場所での言及はすべて陰口的なものなんだと思う。*2

まあ,それはそれで問題ない。そもそも陰口が否定的に言われるのは,個人がブログのようなメディアをこれまで持てなかったためであって,ある人物のことを言及できるのが限られた人々だった時代の話。現在では,あるブロガーの発言に対する言及が世界の裏側で行われることもままある。これらすべてを陰口だとか言ってると疲れる。
たとえば,朝日新聞の記事についての批評を「陰口だ」とは言わないでしょう? 新聞なり政府なり有名人なりへの無許諾の言及はまったく日常的に行われている。ブログ等は,一般人をしばしばその位置に立たせる。*3
実際問題,ブログでの発言への言及を「陰口だ」などと非難すること自体がおかしい。そういう人だって,テレビや新聞に対する批評を常に投書しているわけではあるまいに。


で,まあそのへんは雑感として,本題はこれから。
人は,なぜ陰口陰口的な言及*4を嫌うのだろう?


まあ一般には,不名誉なこと,誤解をまねくことを言われるのを怖れるというのが通常だろうと思う。特に,「反論できない」ことを重視する見方が多いような気がする。相手の言及が明確に間違っていても,それを訂正することができないもどかしさ。「はてブ=卑怯」説も,はてなブックマークがコメントやトラックバックを受入れてないことをあげている。

もちろん前述したとおり,自分の見えないところでの陰口的な言及は,ブログを公開している以上避けえないものである。また,仮にすべての言及を見ることができたところで,そのすべてに対して反応するのは困難である。はてブを卑怯という人々も,そうしたことは薄々わかっていると思う。しかし,なぜそれほど「見えない場所での言及」を怖れるのか。


このあたりを考察していると,以前に著作権について考えていたことを思い出す。


自分の書いた物語が誰かに読まれるのは素晴らしいことだ。しかし,それが知らない誰かの作品として並んでいるというのは気持ち悪いだろう。あるいは自分の書いた覚えのない作品が自分のものとして並んでいたら? あるいは隠しておいたはずの詩が出版されたら。本が出ても,その売り上げの一端も手元には来ないとしたら。ビジネス面での訴訟も,これの延長と考えていい。自分のところで育てた作品,盛り上げてきた購買意欲,次なるビジネスチャンス,それを邪魔されるなんて,と。

だから管理したい。どれだけの人が読み,不当な方法で読んでいる者がいないか,勝手に利益をあげている人間はいないか。“自分の”物語を,誰かに汚されてはいないか。自分が受けるべき賞賛を,誰かに奪われてはいないか。著作権の根本とは,表現の管理への意思だろう。本来はそこら中に飛んでいってしまう「言葉」というものを,なんとか鎖をつけて飼い慣らしたい。それは不遜な考えだが,しかし理解できる感情でもある。

Myrmecoleon in Paradoxical Library: 外山センセと「耳をすませば」より引用。



著作権というものは,本質的にはコントロールへの意志であると思う。特にそれが許諾によって成り立つ部分は,「自分の見えないところで何かが行われている」ということへの忌避があるだろう。このあたりの構造は,はてブを卑怯という感情によく似ている。


表現というのは,多かれ少なかれ,自分の分身のような部分がある。それに対する批判は,たとえ論理的に正しいとしても,しばしば気分を害するものだ。それが一冊の本であるか,それともブログのエントリであるかというのは些細な問題であって,それが世間でどう扱われているかというのは,誰でも少なからず気になるものだと思う。

自分の見えない場所で,自分の分身が手荒に扱われているのではないか,という想像。それが現実になったものとして同人誌やファイル共有がある。無論,両者ともにそうした悪意だけで成立しているものではないし,いくらかの著作者はそれを理解しているとはいえ,まるで感傷を受けないわけではないだろう。こうした点に,著作権の問題の困難がある。

自分のブログが2ちゃんねるやはてブなどで言及されているというのも,おそらくは似たようなものなのだ。自分の書いた記事が,自分の想定したのとは別のかたちで読まれている。ちょっとしたミスを誇張され,次々と自分の人格を否定するような言及を受ける。もしかしたら,それによって自分の記事を共感して読んでくれる読者が現われるかもしれない。しかしそれ以上に,自分のコントロールの外側ですべてが動いてるということが恐ろしい。

だから管理したい。ブログの外側での発言を認めたくない。しかしそれを規制する手段などないから,無断リンク禁止を訴え,はてブコメントは卑怯と罵る。そうした言葉が余計に「外側」をいらつかせ,火に油をそそぐことになると知っていても。

著作権も,はてブ嫌いも,無断リンク禁止も,根本は似たようなところにあるんではないだろうか。自分の生み出したもの,愛するわが子のような存在を,不当に扱われたくないという感情。それ自体は非常に自然なもので,おそらくは誰にでもあるものだ。

とすれば,そうした物言いに対する自分の反論は同じである。

本を書く行為は,子供を産むことにしばしば例えられる。
子供を管理したいという気持ちはわかるし,それが正当である場面は多い。子供が危険な世界に関われば,彼の可能性が閉ざされるのではないか。そういう心配は,決して悪意ではない。
だが,もっと自由でもいいのではないか?
子供は勝手に生きていくものであり,むしろそうであるからこそ,子は親の想像を超えた存在になって,親も想像しなかった仕事を果たしていく。そういうものではないか。


誰がどこで自分の書いたものを読んでたっていいじゃない。誰が何と言っていたっていいじゃない。不意に気になって,自分の記事のはてブを探して,面白い言及があったら,素直に喜べばいい。ひどいコメントがあったら,ちょっと残念に思えばいい。
そりゃまあ誤解や中傷は嫌だけど。個人情報さらされたらさすがにキツいけど。
でも,自分が自信をもって書いた文章なら,信じてやっていいんじゃない?


わたしはそんなふうに思います。*5

*1:自分はエゴサーチ大好きなんでよく見ますけどね

*2:逆に,2ちゃんねらにとっては2ちゃんが彼らの領域である。この点を考えると,2ちゃんでの発言を外部で批判的に言及されることを嫌う感情と,2ちゃんで自分のブログについて言及されることを嫌う感情とは,意外と近いものなのかもしれない。まあ,する方とされる方が似たもの同士というのはよくある話。

*3:もちろん,はてブの公開コメントも同様。たとえ個人的な感想であっても,公開されている以上はそれに対する批評を免れない。ブログからはてブコメントを批判する行為も当然認められると思う。

*4:id:otsuneさんにご指摘を受けたので9/27 0:00修正。意味はコメント欄にあるとおり「本人の前以外で行われる(悪口にかぎらない)言及」のこと。「陰口」は悪口に限定されるため,こちらを使用。

*5:まあだからといって,ブログ炎上は勘弁っすけどね;