いつまで経っても「変わらない」のは誰か ― 北朝鮮の人工衛星発射実験と日本のマスコミ報道について。

 4月13日は結局、北朝鮮の人工衛星発射にまつわるニュースに振り回された1日だった。そしてこの国はこんなにいつまでも変わろうとしないで大丈夫かと不安になった1日でもあった。もちろん北朝鮮のことじゃない、日本のことだ。

 この数週間の間、一体どれだけのマスコミが連日ニュースを垂れ流し、何回「人工衛星と称する事実上のミサイル」という珍妙な言葉を連呼したことだろう。僕にとってこの期間のメディアの乱痴気騒ぎは、彼らが自発的かつ積極的に情報統制に荷担したという意味で、報道の自殺にしか見えなかった。

 この期間、日本のマスコミは一回でも「何故、北朝鮮の人工衛星が事実上のミサイルと言えるのか」、「何故、彼らが人工衛星を打ち上げてはいけないのか」という疑問について掘り下げて取り扱ったことがあっただろうか。おそらくそんなことは無かっただろう。「北朝鮮だから事実上のミサイルに違いない」し、「安保理決議に違反しているからそんなことは許されないに決まっている」。放送電波と新聞紙をあれだけ埋め尽くしておきながら、彼らが叫んでいたのは小学生だって五分で覚えられそうなこの二つの定型文だけだった。

 確かに安保理決議を無視していいわけもないし、北朝鮮が主張する一般国際法上の権利と安保理決議のどちらが優先するかについて議論するのも大事だろう。だけどそれと同じくらい、「何故、北朝鮮の時だけこんなに大きな騒ぎになるのか」を考えることだって大事なはずだ。そこを考えずに「事実上のミサイルガー」「安保理決議ガー」とオウム返しのように繰り返していたって思考は発展しない。それは朝鮮学校の無償化除外問題を「法律上の整合性」という観点からのみ批判するのと同じくらい薄っぺらい。朝鮮学校に対する差別政策は、普遍的人権という観点から問題視されなくては意味が無いのと同様に、北朝鮮の人工衛星発射問題は、半世紀以上に及ぶ冷戦構造という歴史的経緯に対する視点を抜きにして考えることはできない。

 この国は北朝鮮が一回ミサイル発射実験をする度に大騒ぎするけれど、米韓が毎年のように北朝鮮の目の前で行っている大規模な軍事演習には何の関心も払わない。世界最強の大国の、最新鋭の戦闘機や空母が行き交う実戦演習が眼前で展開されるプレッシャーを、自分達に引きつけて考えようとはしない。

 この国は北朝鮮に国際的ルール(それも自分達の都合のいいように解釈した)の遵守を強要するけれども、アメリカが国際的ルールも規範も踏みにじって始めた戦争には諸手を挙げて賛成し、その戦争のキッカケとなった理由が大嘘だったと分かった後も、ただ一言の言い訳すらしようとしない。

 そして自分達が北朝鮮の「横暴」を見つめるように、北朝鮮も自分達の「横暴」をジッと見つめていると言うことを全く自覚しようとしない。「見る側」、「審判する側」は自分達であり、「見られる側」、「審判される側」は北朝鮮だと当たり前のように思っている。息をするように自然に、そう信じている。

 そもそも日本のマスコミは一回だって、「北朝鮮が人工衛星を欲しがるとしたらそれは何故か」という問いをたてたことがあるだろうか。仮にあるとしても、「国威発揚のため」とかいう簡単極まりないレッテルを貼るだけで、それ以上のことは考えようともしないだろう。別にそのレッテルが完全に間違っているというつもりはない。国威発揚という側面、大いにあるだろう。ただしそれと同じくらい切実に、自前の気象衛星を持つことで天気予報に役立てたいとも思っているはずだ。そうすれば他国から高い衛星写真や天候データを買わなくて済む。自前の気象衛星を持てば、災害対策や農業の発展にだって役立つ。普段あれだけ北朝鮮の深刻な食糧事情や農業の不作について取り上げているわりに、日本のマスコミの皆さんはこういう時にはそこら辺の事情が全く目に入らなくなるらしい。

 確かに費用対効果という問題はある。はたして「今」、莫大な費用を投じてまで人工衛星の開発に注力する必要があるのかという指摘は出てきて当然だろう。しかし僕達は、その費用対効果について正確に判断できるほどの知識を持っているだろうか。そして日本のマスコミは、そういった費用対効果を判断するだけの情報を伝えようと努力してきただろうか。北朝鮮をお昼のバラエティ番組のネタ提供媒体以上のものとして、自分達と地理的にも歴史的にも関係の深い隣国として、真剣にその実像を捉えようとしてきただろうか。

 僕にはそうは思えない。軍事パレードを映し続けること、指導者の姿だけをクローズアップし続けること、最近だと発展する平壌の街並みを撮影し、「首都には無理やりな集中投資しているようだが地方は悲惨」という定型文だけを繰り返し続けることが北朝鮮の実像を伝える報道だとは思えない。それらは確かに一面の真実ではあるけれど、北朝鮮の全てでは無い。軍事パレードに出てる軍人は普段何をしているのか?指導者の下で働く人達はどんな情報をトップに上げているのか?具体的にどこの地方がどれくらい、どう悲惨で、何でそのような状態にあるのか?

 こう言うと必ず次のような反論が帰ってくるはずだ。「そういう突っ込んだところまで取材できないのは、北朝鮮が極度の閉鎖国家だからだ」。成る程その通りだ。そしてそういう時こそジャーナリストの腕が鳴るってもんじゃないのか。本丸が固いなら外堀から攻めていく手はいくつだってあるだろう。北朝鮮の経済戦略について知りたいなら、なぜ韓国の北朝鮮研究の現状をフォローしようとしないのか。対外経済関係について知りたいなら、なぜオラスコムの会長にインタビューしようとしないのか。北朝鮮の食糧事情について知りたいなら、なぜ文浩一の研究を参照しないのか(それも日本で出版されてるのに!)。

 そういうアプローチは遠回りかもしれない。センセーショナルで無いかもしれない。視聴率が取れないかもしれない。だけど北朝鮮の実像を知りたいと思うなら有益な情報だろう。日本全国あらゆるチャンネルで十年一日みたいに代わり映えしない報道を流す暇があるなら、それくらい試してもいいだろうに。

 だけど日本のマスコミは決してそうしようとはしない。毎日毎日同じ鉄板の上で焼いたような同じ型の「北朝鮮報道」を洪水のように流し続け、たまに今回みたいな耳目を引くニュースが出ると一斉にこうだ。「いやー、あの国はホント相変わらずですね!」。

 相変わらずなのは君達の方だと言いたい気持ちをグッと我慢して、それでは北朝鮮が本当に「相変わらず」なのかどうか、ちょっとだけ検討してみよう。1998年の光明星1号、これは事前予告も何も無しにいきなり発射した後の完全な事後通達だった。2009年の光明星2号、これは宇宙条約に加盟した上で事前に人工衛星の打ち上げと主張し、宇宙の平和利用の権利を国際社会に訴えた。そして2012年、今回の「銀河三号」に載せた光明星3号の発射実験では、海外の専門家とメディアを招待するにいたる。

 この一連の流れは、一つの明らかな事実を示している。北朝鮮が国際社会の視線を意識して、自らをそこに適応させようと努力しているという事実だ(そう言えばベルヌ条約にも加盟して、国際法に則って自らの著作権も主張していたね。まあどこかの国は恥知らずにも最高裁でその訴えを踏みにじったけど)。

 しかし日本のマスコミの目にそうした一連の流れは随分歪んだものとして映し出されるらしく、宇宙条約への加盟も海外メディアや専門化の招待も、「ミサイル発射の隠れ蓑」、「批判逃れの言い訳作り」としか写らないらしい。成る程ね、北朝鮮はたかが「言い訳作り」のために機密漏洩や失敗した時にかく赤っ恥まで覚悟して人工衛星の発射実験の様子を公開するわけだ。それはまた随分とオープンな閉鎖国家だ。まあ実際のところ、赤っ恥をかく可能性をトップがどれだけ真剣に考えていたかどうかは分からないけれど。

 それでも一つ確かなことは、北朝鮮が自分達の人工衛星の発射実験を海外メディアに公開し、見事な赤っ恥をかき、(引っ込みがつかなくなったのかどうか知らないが)その失敗を公に認めたと言うことだ。僕にはそのこと自体が大した変化に思えるけれど、日本のメディアはそれを「国威失墜」、「体制への打撃」としか書かない。北朝鮮が国際社会に自分達を受け入れさせようと努力している姿だとは絶対に書かない。

 それが一番最初に言った、この国の絶望的な「変わらなさ」だ。自分達が「見たい」北朝鮮の姿以外を決して見ようとしない頑なさだ。もっとも厳密には、この国の政府とマスメディアが、と言うべきだろう。この国に暮らす人達は、10年以上もこんな茶番劇に騙されるほど馬鹿じゃない。

 それは今回、ツイッター上のごくごくごくごくごく一部で流行った #主体宇宙軍 というタグが示している。そのタグの周りで盛り上がっていた宇宙クラスタの人達は、別に北朝鮮に近しい人物でもなければ専門家でもない、普段は「北朝鮮ってひどい国だなあ」と思っているだろう人達だ。それでもこの数週間、この国の政府とマスコミが繰り広げ続けた馬鹿騒ぎに乗っかったりはしない。「人工衛星と称する事実上のミサイル」とかいう呼称の珍妙さを醒めた目で見ている。そして北朝鮮の人工衛星が本物なのかどうか、自分達の培った知識に基づいて考えている。別に宇宙クラスタでなくたって、そういう冷静な思考を持った人達はこの国に大勢いるだろう。別に北朝鮮の味方でも何でもない、だけど自分達の目にヴェールをかけ、変な方向に引っ張っていこうとする動きを見抜く目を持った人達が、この国には実に大勢いるだろう。

 だから今、この国で北朝鮮に関する情報を提供する独占権を握っている人達は、その権利を濫用する前に、自分達に向けられている視線を少しは気にした方がいいと思う。いつか歴史からその「変わらなさ」を審判されるのは、自分達かも知れないのだから。