雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

いじめられて自殺する子にはスルー力が足りない

自分も物心ついた頃からいじめられっ子だったから,いじめの問題には一家言もっている.いじめはなくならないが,いじめの質を改善することはできるし,いじめられっ子がスルー力を磨くこともできる.
要領よく生きて立身出世した人々に教育を語らせれば,明後日の方向に向うのは仕方ない気もするが,それにしても教育再生会議での議論は聞くに堪えない.年に一回,家族一緒に夕食を取れば,心が成長するという発想はどこから生まれるのだろうか.だいたい家族の団欒が年1回でいい訳がないではないか.*1「30人31脚」だって,同調圧力を強めていじめの原因を増やすだけだろう.暗黙の了解として,子どもが未熟だからカリキュラムなりを整えて『心の成長』を促せば,いじめはなくなり,いじめによる自殺もなくなるというのか.これまで,いじめや世界史の単位履修問題でこれまで何人もの先生が死んでいるが,いじめる教師も自殺する校長先生も未熟なのか*2,或いは成熟したところでいじめも自殺もなくならないのか,そのどちらも当たっている気がするけれども,だとすれば教育再生会議の提言は何ら実効性はない,床屋政談の次元ではないか.
当たり前のことだが,大人の世界にもいじめはある.けれども組織によっていじめの有無や程度は大きく異なる.一般にストレスが大きく,流動性が低く,均質性が高く同調圧力の強い組織ほどいじめは多いのではないか.学校というのは生徒や教師の流動性が低く,近隣の地域,同じ年齢,高校の場合は近い学力で入ってきているものだから均質性も高い.いまの学校はそういった意味で外形的にも風通しの悪い組織だし,これだけ下らない理由による校長の自殺が多いところをみても,生徒にとってだけでなく教師にとっても息苦しい世界なのだろう.
職場環境についてベンチマーキングが一般化しているように,学校・学級についても学習環境のベンチマーキングを行えば,いじめの遠因となる環境圧力を幾分弱めることができる.外形的には飛び級や留年を増やして年齢に多様性を持たせ,学校選択制で地域を散らせば幾分同質性を緩和できる.学校別・クラス別・地域別などでベンチマーキングすれば,問題の所在を統計的に明らかにすることも難しくない.*3
クラスの中で教師は,子どもたちとは最も異なる個であり,いじめに加わらず,可能であれば解決すべき職務責任を負っている訳で,生徒のいじめに加担したり,煽るような言動があれば懲戒免職にすべきだ.いじめっ子の停学処分は法的にも問題が多いが,いじめに加担した先生の懲戒免職は法的にも問題ないし世論の理解も得られよう.冤罪を防ぐべく抗弁の機会は設け,但し名誉が回復された場合も別の学校に移すことにする.
そこまで手を打ったところで,この世からいじめはなくならない.本当に重要なのは,いじめられた子が自殺するまで追い込まれないことである.思春期とは微妙な時期で,この時期に死にたくなるのは人間として重要な成長過程でもある.仮にいじめをなくしたところで,この世代の子は何か理由をつけて死んでしまおうとすることはある気もする.逆にいじめをなくすことができないとしても,それは学校だけでなく社会に出てからもなくせないのだから,いじめられっ子に対しては,周囲からいじめをなくすことよりも,いじめられてもめげずに生きていけるよう『心の成長』を促した方がよい.
子供を死ぬまで追い込まないためには,自尊心の拠り所を持たせ,逃げ場をつくることが有効だ.学校だけが唯一の社会で,そこから疎外されてしまうから自死を選ぶほど追い込まれるのであって,他にも社会との接点を持ち,何らかの世界で居場所があれば,かなり気楽になれる.そうやって気楽になった上で,もうちょっと視野を広げて,自分をいじめる周囲のことを下らない奴らだと思えるようになれば,そこでいじめられなくなる日も近い.逃げ場がないという虚構の内側で追い詰めていくことこそいじめの醍醐味であって,いじめられっ子からスルーされてしまうと大概はいじめ甲斐がないのである.
本当の問題は彼らの世界が学校に閉じていることではないか.学校に閉じている時点で改善策にも限界があるし,話が煮詰まっている.ちょっと違ったプレーヤーを混ぜて,刺激を与えた方がいい.例えば2007年問題で大量に引退する人々の数%でも,教育の世界に少し興味を持って,世間知らずの先生たちに代って子どもたちに学校以外の世界を垣間見せ,いじめられっ子の居場所を提供できるようなことがあると,いじめも自殺もなくならないけれども減らせる可能性は充分にあるし,自殺こそしなかったけれどもいじめられて灰色の青春時代を送るその何万人もの子供たちが,もっと意義深い人生を送れるように導けるかも知れない.
やり方はいろいろあるだろうけど,学校で先生が努力さえすれば子供社会を健全に導けるという発想そのものの傲慢さが,この問題の背景にあるように思えてならない.いじめはなくならないが,いじめられっ子がスルー力を磨くことはできるのである.

「子どもの『心の成長』のために」と題し、「家族の日」を創設し、家族一緒に夕食を取ることや、協力・助け合いの重要性を実感してもらうため体育の時間に「30人31脚」を行うことなどを提唱している。

*1:いや,僕もいじめっ子や,自殺まで追い込まれるいじめられっ子の家庭環境に問題がある可能性が高いという見解には同意するけれども,「家族の日」をつくれば解決する問題ではないし,問題を矮小化したいのか外部環境に責任転嫁したいのか理解に苦しむ

*2:社会経験が少ないという店では,この可能性は充分にある.しからば未熟な先生が努力したところで子供たちの『心の成長』をどこまで促せるのだろう.よしんば『心の成長』が学校教育ではなく家庭の役割であると規定したところで,親の精神的未熟さとか,地域社会の崩壊とか,歪な人口構成と労働流動化で皺寄せを食っている若年層の長時間労働とか,「家族の日」をつくれば家庭環境が改善するような安直な問題でないことは明らかだ

*3:問題の所在が明らかになったとして,それが解決できるとは限らない.いじめっ子の親の所得水準とか,家庭環境とか,いじめっ子の背景に学校では解決しがたい課題がある可能性が高い.但しそういった課題が定量的に明らかになればこそ,「いじめっ子を停学にすればいい」などという安直な議論を排斥できるので意味はある