雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

そこにある格差社会

似たような情景を御用学者が描くのとフェミニストが描くのとでこう変わるのかという風に興味深く読み比べた.どちらもニューエコノミーが格差社会を生み,激務や少子化を招き,働いても報われない仕掛けをつくっている様を描いているのだが,片や原因に焦点を当てて現象の描写と変化の本質について取り上げ,片や社会や経営者を批判し市場競争そのものも必要があれば見直すべきと論ずる.山田氏の淡々とした論調はともすれば空疎な再チャレンジ論を容認する枕詞になりかねないあやうさを感じるし,中野氏のベキ論っぽい提言の多くはマクロ経済の現実から遊離しているようにも思える.
新平等社会―「希望格差」を超えて 労働ダンピング―雇用の多様化の果てに (岩波新書)
中野氏の主張する最低賃金の大幅引き上げを行った場合,まずコンビニやファーストフードの店頭価格が高騰し,フリーターやNEETの生活を直撃するとか,インフレで結果的に資産を持っている層が得をするんじゃないかとか,労働時間を制限すると,逆に社会的立場を逆転させるチャンスを矯めてしまうのではないかとか,そういう具合.個々の指摘には鋭いし頷かされる点も少なからずあるのだが,彼女の志向する社会の大まかな姿が像を結ばない.そうかこれが岩波的な進歩的文化人の言辞かと妙に納得してしまう.ただ,仮に自分がクビになったとき,助けてくれる弁護士はこういう価値観でいていただいた方が安心できる気もする.弁護する前から「マクロ経済のためには,君の賃金が大幅に切り下げられた方が正しいんだよ」とかいわれた日には天を仰ぐしかないし.
僕は正直なところ日本で学歴パイプラインシステムが生き続けることは難しい気がする.2007年問題で一時的に新卒採用が回復しているが,多くの大企業が年功序列・終身雇用・集権的人事制度を改めないまま即戦力志向で採ろうとすると,結構な割合で3〜5年で辞めるんじゃないかという気もするし,やっぱり年功序列・終身雇用という幻想は遠からず捨てられることになるのだろう.かといって我らが失われた世代のNEET・フリーターたちが報われるシナリオも描けないのだが.いずれにせよ企業に余力のあるときに人事制度を抜本的に改正せず,夢よもう一度で新卒一斉確保に走る大企業には失望を隠せないのだが.
私個人は学歴パイプラインが崩れたことで大きな得をした.これまでのパイプラインが健在なら高校中退,中堅私大文系学部卒の私はかなり不本意な就職をしていたのではないか.とはいえ話はそこで終わらない.自分の子供に,僕は何を教えればいいのだろうか.親父は僕に,いい学校に入って,いい大学に入って,いい会社に入れよといった.高卒故にキャリア組から次々と抜かれていくことに思うことがあったのだろう.中学1年のときに父方の祖父が死に父の上司が弔問に訪れたのだが,親父より若そうなひとを上司と紹介され驚いた.親父の背中が小さく見えた.
けれども親不孝息子の僕は中学に入るなり勉強しなくなった.碌に勉強せずコンピュータと新聞に明け暮れていたことが,今のところ振り返るに結果的には正しかった.けれども自分が本を読んだり頭を使ったといっても,時代と人の縁がたまたま味方したのであって,自分の生き方というのは生き方として敷衍できないし,子供に勧められるものでもないという悩みがある.僕は自分の子が学校で苛められても,中学で留年しても,高校を中退しても,大学で留年しても動じないかも知れないが,自室に引き籠もるようなことがあったら,悩んだり,子供が甘えているのではないかという気がするだろう.けれども僕と子の学校は同じではない.それでも学校のことは社会なり教師のせいにするのだろう.
けれども例えば組織とか経営のことを考えた場合に,スケーラビリティを高めつつ属人性への依存度を下げるために,ITを導入して組織を少数の運営層と多数の単純労働者とに分けて後者を非正規雇用とすることは当たり前のようにやるのだろう.自分が労働集約型産業の経営者であればそう経営するかも知れないし,SIベンダであれば客に対してそういったシステムを勧めるであろうし,株主として企業にそういった経営を求めるのだろう.そのとき,そこで低賃金で働き昇級の見込みもないアルバイトが自分の子供だったら,ということを考えるだろうか.それより他に途がないのだという子だったときに,それでも働けといえるだろうか,或いは様子をみろとNEETになることを勧めるんだろうか.
たまたま自分がこの刹那,格差社会の被害者でなかったとしても,自分なり配偶者なり子供なりが,その被害者となる蓋然性はかなり高い.一方でコンビニをはじめとした24時間サービスや,100円ショップ・スーパーの割引といったかたちで,フリーター経済の恩恵も受けている.フリーターこそ最もフリーター経済に依存している一面もある.答えを出すことの難しい議論ではあるけれども,マクロ的にみれば社会が構造的に生んだ格差をミクロ的な自己責任論で事後的に追認するような言辞には気をつけた方が良い.対案を出さずに済む点で,現状追認よりもディベートに強い立論はなかなかないのだが.