日本的なる「ソーシャル・ネットワーク」

映画『ソーシャル・ネットワーク』を観てきた。中身は画面に連続するコンピューターのモニターとキーボード、ハーバード流というようなハイテンポの議論、交渉そして裁判の連続。映画で感じるのは、情熱、アメリカン・ドリーム、純粋、若さ、友情、富、はたまた裏切りとスキャンダル。ウォール街やショービジネスの映画のようなハリウッドらしい見せ方だった。
題材がすべてIT業界と大学だからか、意外に暗い感じの映画だった。当のザッカーバーグフェイスブック創業者)は「現実と合っているのは服装だけ」とか文句を言っているようだが、実の彼は映画よりも柔らかめの普通のキャラクターではないか。報道写真やプレゼンテーションを見ている我々の方が先入観を作りだしているような気がした。

それにしても、都心から外れた映画館で土曜午前の時間のせいだろうか、思った以上に客が入っていない。考えてみれば、日本でフェイスブックといっても、業界関係の人間はともかく、普通はナニソレである。モバゲー、ミクシィGREEニンテンドーDSでお腹一杯の若い連中が今更「あの6億人の青いヤツ」に触手を伸ばすのか、海外好きやMBA指向の連中くらいではないか、という声もインターネットで目にする。アメリカで爆発して世界で大流行とかいっても、まあ今の日本のマッタリしたのでいい・・・というような心持ちがあるように思えてならない。

かつてネットバブルの頃には、ホリエモンをはじめとするベンチャー起業家への憧れや賞賛が拡がったが、彼らの不祥事や経営不振で評価は一転、ムードは極端に縮み、その後の今の学生気質はとにかく就職、海外留学回避、安定指向、つまりanti-entrepreneurial(非起業家的)な嗜好を強めているようである。かたや『ソーシャル・ネットワーク』にみる挑戦的なアメリカニズム、こなたマッタリ路線で公務員人気、永久就職(結婚)願望の日本・・・。過去に私が生きてきた時代と比べると、今ほど日米の価値規範の断層が大きな時代はないように感じるのである。

あえて小難しい話に入ろう。私は、日本人のベンチャーに対する意識の深層に、アメリカニズム指向と日本的(ないしは非アメリカ的)価値規範の間での相克が均衡のないまま継続しているという意識を持ち続けている。大上段に言えば、我々日本人の中で形成されてきた暗黙の常識が、起業やベンチャー企業に対する判断やファイナンスの姿勢に大きな影響を与えているという説である。たとえば、昨今のファンド悪者論や学生の公務員志向に見るように、独立、自由、挑戦、先駆、創造、グローバル化、失敗許容などのアメリカニズムにおいて積極肯定される規範について、日本人はそのまま評価して受け入れている訳ではないのである。私はこのブログでベンチャー企業の不祥事を厳しく指摘してはいるが、実際のマーケットは、「やはり日本のベンチャーアメリカのようには行かないもの」という先入観がないまぜになった判断があって、新興企業投資からの極端な回避行動が生じていると考えている。

日本のベンチャー企業は多くの課題を抱えているが、その背景は経済環境だけではなく、多くの構造要因が長年にわたって影響していると広く指摘されており、それらは社会基盤論、金融市場・制度論、アントレプレナー教育論の3点が主になっている。これらの構造論は、国民の価値規範に根差したものである。我々が何を優先し何を除外するのかというような暗黙の前提が、実際の経済活動にも経済学にも存在する。起業家やベンチャー企業の活動はアメリカニズムの体現であり、失敗と成功の反復の中で敗者は淘汰され、能力の高い者同士が集まり緊密なネットワークを形成して生き残る。さらに自由競争と参入機会均等という19世紀以降のアメリカが声高に主張してきた価値観を貫徹する一方で、もう一つの民主的規範である「結果としての平等」は逆に拡大し、その偏在が合理的と目されて顧みられることは少ない。ただ、昨今の日本の巷を見る限りにおいて、こうしたアメリカニズムは必ずしも受容されているとはいえない。ザッカーバーグのような若い起業家が成り上がり富を手に入れるプロセスに相応しいとアメリカが信ずる規範に対して、日本人は心の裡にアンビバレンス(両面価値)を持つのである。

映画に始まった話が観念的になりすぎたが、観客の入りにしても、先の日本のソーシャル・ネットワークにしても、昨今の若者気質を見ても、アメリカニズムと対立軸になりがちな日本的なるものを感じてしまう。EaglesのDon Henleyは、Hotel California(1976年)において、"We haven’t had that spirit here since nineteen sixty-nine."(当店は1969年以来その種のお酒は置いてございません) と詠ったが、
われわれは、1969年(安田講堂戦)以来、そんな魂は持ち合わせておりません」 と読み替えるくらいの反骨と風刺が今の日本にあってもよいのではないか。こういう檄は神田の居酒屋でオヤジ連中に飛ばした方が良いかもというのが本稿の落とし所ではあるが。