「ファーストネーム」の社会について(モーテンソンだより:補遺2)
日本人が「ファースト・ネーム」と言われた時、思い浮かべるのは、「ああ、名字ではなく名前のほうね」という感じだと思う。私を含め。
名字は「ラストネーム」、人によっては「ミドルネーム」が入るのが、欧米の社会である。
オンラインでホテルやシャトルバスの予約をしたりとかするときに、大体の場合ファースト・ネームから入力する。
しかし、この「ファースト・ネーム」という言い方は、人々の人間関係の中で私たち日本人が考えている以上の重要な位置を占めているのだということに、長期の滞在だったが故に触れることができたように思う。まさにファースト・ネームは"First"なのだ。
人々は、お互いをファーストネームで呼び合う。
モーテンソンセンターでも、所長のバーバラ、副所長のスーザンでも、お互い、あるいは私たち受講生、スタッフの間ではもっぱらファーストネームだった。
もちろん、最初はラストネームだったと思う。バーバラにシャンペーン空港まで迎えに来てもらったとき、バーバラが私を見つけてくれた最初の一言は"Mr.Suzuki?"だったと記憶している。
私の名前は"Masanori"なので、はっきり言ってファースト・ネームとしては使いづらい。そのことはあらかじめわかっていたので、バーバラの家での歓迎パーティの際、自己紹介で自分を"Nori"と読んでほしいと言っておいた。
以後、私は、"Masanori"ではなく"Nori"としてモーテンソン・サークルのなかでアイデンティファイされることになる(ただし、韓国のミヤンだけはときに"Masanori"と呼びかけていた。隣国韓国でも、姓と名の関係については、米国と違うという感触を持っていたのかもしれない。)
ここで思い出すのは、数年前に亡くなったロシア語通訳で作家の米原万里が自分とそして妹さん(ユリさん。ちなみに妹さんは故井上ひさしのお連れ合い)の名前の由来について書いてあった文章だ。
氏の母親は、万里さんが生まれた際、外国人との間でもファースト・ネームで呼ばれやすくという配慮から、"MARI"と付けたのだという。
そうした配慮が、ある意味でとっても妥当性を持っていたことについて、今回の滞在で思い至った。
もちろん、初対面からファースト・ネームで呼び合うということはないだろう。
しかし、日常のコミュニケーションでファースト・ネームを使うことは、その距離感、関係性(上下か、フラットか)という点において、日本のように姓をつけ、さらに肩書を付け呼び合うという文化とは大きく異なる。
もちろん、現代の東アジは姓を基本とする社会だと思う(しかし、これについて思い出すのは、2002年夏に語学研修でニューヨーク郊外の大学に滞在し、台湾の青年と部屋をシェアしていた際、私は彼の本名をついに知る機会を得なかった、ということである。彼は自分のことをずっと"Jerry"と称していたのだ)。
それは文化、慣習の違いであるので、いいとか悪いとかの問題ではない。
しかし、日本の組織の中で、肩書を付けて重々しく呼ぶということについて、私は正直辟易している。相手を尊重するというのは、何も肩書を付けるということだけでもなかろうと。教員はやたら「○○先生」と「先生」を付けたがる。
日常では「○○さん」でいいではないか。
そうしたほうがきっと風通しは良い。
受講者の母国のことと英語のこと(モーテンソンだより:補遺1)
帰国してから3カ月余りが過ぎまた。その間,海外研修に関しては,経費精算くらいしかやることができず,現地で考えたことなどを書くことが遅れに遅れました。
これから少しずつ(数回ですが)書いていこうと思います。
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今回のモーテンソンセンター・プログラムの参加者は遅れてきた2人を含め、全部で12名だった。
滞在中、彼女たちの母国について、時につらつらと考えていた。
参加者の地域別、国別内訳は以下の通りだ。
■ヨーロッパ
イタリア: 1
ブルガリア: 2
■中東
エジプト: 2
■アフリカ
ウガンダ: 1
ナイジェリア: 1
ガーナ: 1
■アジア
中国: 1
韓国: 2
日本: 1
オハイオへの小旅行の際、私たちはアーミッシュ(Amish)の人たちと接する機会をもったが、私はアーミッシュの人たちのことをなんにも知らなかったので、持っていた電子辞書の英和辞典やブリタニカでそれを調べていた。それを脇に座っていたウガンダのレイチェルが覗き込んでいたのだが、私がアーミッシュのスペルを"a,m,i..."と入力していると、彼女は、"amin"を見せてほしいと言ってきた。
"Amin"、いうまでもなく、ウガンダの元大統領で、残虐行為の数々を行ったことで知られる人物だ。レイチェルの年齢は定かではなかったが、アミン大統領の時代に生まれていたとは考えにくかった(アミンは1979年に亡命したと事典にはあった。すでに30年を経過している。)とすると、係累がなにか犠牲になったことがあるのだろうか? 何がしかの関係があるのではと考えるとともに、若いレイチェルが気にするほど、かの国でのこの暴君の影響はすごかったのかと思わずにいられなかった。
エジプトのラシャとヘバとは、研修が始まったころになんとはなしの話をしている際、いわゆる「ジャスミン革命」のことが話題として出てきた(誰かが話題として持ち出したのだったと思う)。
彼女たちは、チュニジアで始まった一連の動きに関連し、「ジャスミン革命」という言葉は一般的ではなく若い人たちが使っているだけだと言っていた。そして、(その名称はともかく)これにより社会の自由度は高まったと言っていた。ある意味で、もっとも現代のホットな動きを当事国の人たちから聞いたわけだ。
ちなみに、「ジャスミン革命」というレッテルがけっこういい加減(というか、ラシャたちが言うのと同じ意味で一般的ではないこと)は、ジャーナリストの日垣隆氏が氏のメールマガジンで、実際見てきたこととして、指摘をしていた。
以下、引用(ガッキイファイター,2011年4月17日号)
チュニジアで起きた市民革命は「ジャスミン革命」と呼ばれるが、これはフランスのAFPの一女性記者が勝手に思いつきで付けた名前。今回チュニジアで話した現地の人は誰一人として、そもそもジャスミンの木を知らず、自国で起きた革命を「ジャスミン革命」と呼んでもいない。呼ばれているのも知らなかった。
ブルガリアは、第二次世界大戦後、社会主義国として歩んできた国だ。それが1989年に始まる一連の東欧革命の中で政権が交替、というだけではなく、社会の価値観を大きく転換せざるを得なかったという歴史を経てきている。ニッキーとスパスカは年齢的にもあきらかにこの変化を(何歳でかはわからないが)実際に体験したはずだ。
ニッキーが職場とする大学は!"American University"である。ウィキペディア(英語版)によると、この大学は1991年に成立したとある。
http://en.wikipedia.org/wiki/American_University_in_Bulgaria
ニッキーの流暢な英語の背景にはどういった歴史があるのか、そんなことをつらつらと考えさせられる。
アフリカから来た3人の母国の公用語はいずれも英語である。これは、くどくどいうまでもなく、歴史上イギリスの支配を受けたことによるといっていいだろう。イリノイの人たちの英語とも、ニッキーの話すそれとも(微妙に)異なる(というのは私でもわかる)英語を話す。
しかし、インドの例を出すまでもなく、さまざまな「方言」を派生させつつ話者を増やしつつある英語を日常使っていることのアドバンテージは、私の目から見ると明らかであった。
私を入れたアジア系の4人のうちで英語を母語としている国から来ているものはいない。韓国のミヤンは米国留学の経験から,同じく韓国のヘイジンは、たぶん自分で努力をしたのだろう、会話には十分すぎるほどの英語の能力を発揮していた。中国からの人間と私は、かなり苦労したというのが実際のところだった。
イリノイ大学図書館の野口さんも、日本からの派遣者はいずれも英語で苦労していたようだとおっしゃっていた。
しかし臆することはないと思う。それなりの準備(私自身は英会話学校に半年通った)をすればある程度の力の向上は見込めるし、あとはどれほど使うかである。
正直なところ、帰国直前になって現地の人たちの会話が自然に聞き取れるようになったのは皮肉なことではあった。
ピッツバーグ-> ナリタ: 6/30-7/1
6月30日(木)
日本へ帰るための移動日。
宿泊したホテルはピッツバーグ大学の近く、オークランドにある。ここから空港へは車を使うしかない。
グッドさんに相談したところ、やはり来た時に使ったシャトルバスが一番いいだろうとのこと。
空港から来る際に、片道にするか往復にするかを聞かれたのだが、なんとはなしに片道でいいと答えてしまった。なので、空港までの手配をしなくてはならない。ホテルのカウンタースタッフに予約をしてくれるかと尋ねたところ、ここに連絡すればいいといって連絡先を書いた紙をよこし、自分でやるように言われた。
電話ではまず不可能、というか、できても聞き取り違い、日時を伝えきれないなどの間違いが発生する可能性が私の場合高い。電話とは別にネットで予約できるとのことだったので、それで予約をすることにした。まったくノートPCが今回の滞在にどれくらい役立ったことか。
サイトにアクセスすると予約画面が出てきた。
目的地、現在の滞在地(ホテルであれば検索して設定できるようになっていた)、本人連絡先(これは携帯電話番号)、フライト日時、便名を入力していく。フライト日時、便名を入れると、「この時間の車でどうだ」という感じでシャトルのリコメンドが出てきた。なかなかやるじゃん、とか思う。
最後に支払い情報、クレジットカード情報の入力である。これはすでに数え切れないほどやってきているので、遅滞なく入力する。
しかし、最後、"Billing Address"というのがある。「請求先住所」ということになるので私の日本での住所を入力するのが妥当だろうと思い、番地、町名、市名を入力していく。しかし、"State"と"Zipcode"のところで行き詰ってしまった。
州名については、プルダウンのなかから選択するしかなく、そこでは米国の諸州しか出てこない。「えっ?」という感じである。またZIPについて入力していくと、5ケタ以上の入力ができない。日本では7ケタなのだが米国は5ケタだからだ。要するに米国内居住者の予約しか想定していないのである。
まったくなんなんだよ、という感じである。
困ったことになった。こういう場合どうすればいいかと、ネットで"Billing Address"をキーワードにして検索もかけてみた。しかし出てくる情報で役に立ちそうなものはなかった。
しばし考えた末、電話でどうすればいいか確認することにした。ダメもとである。ホテルから渡された紙に書いてある電話番号宛てに電話をかける。用件によって該当する番号を押せという、日本でもおなじみの機械的なメッセージが聞こえてくる。そのままにしておくとオペレータ嬢の声が聞こえてきた。米国のアドレスしか入力できない、これは空値でいいかといったことを片言で伝えると、先方は(私が理解した限りでは)それでいいという。そうか、と思い、電話を切った。
ではそうしようと思い、空値のまま画面上の[NEXT]ボタンを押す。
だめじゃん。
ちゃんと入力しろというメッセージが返ってくる。
さすがに頭にきた。
しばらく考えた後、もうどうにでもなれと思って、日本の住所を入力し、州名はプルダウンの先頭に表示されていた"Alabama"、ZIPは自分のところの郵便番号も頭から5ケタを入力し、えいっ!、と思って[NEXT]ボタンを押した。
画面は次の画面に遷移した。
あとは何の問題もない。確認画面が出て、これでいいかと聞いてくるので、いい(ほんとにいいの?)と答え、予約は完了した。
翌朝、6時半ころ、部屋の電話が鳴る。電話が鳴ること自体不思議な気がしたのだが、取ってみると、シャトルバス会社から、今日は7時50分から8時の間にあなたを迎えに行きます、といった内容の確認の電話だった。へぇーである。
会社としてはちゃんとしているのだから、予約画面についてはもうちょっと考えてほしいですね。
少し早目にチェックアウトをして、ホテルの正面玄関のところで待っているとシャトルも少し早目にやってきた。ドライバー氏は来るときと同じ人である。先方も覚えてくれていたらしく、「おお、あなたはおとといの…」というところまで英語でいい、"OHAYOGOZAIMASU"といきなり日本語で言ってお辞儀をしてきた。
この人、この後のふるまいを見ているとほんとうにまじめな人なのだけど、こういったパフォーマンスを自然にやってくれるのがなごみを感じられていい感じである。こっちも"MATAYOROSHIKU"とわけのわからない日本語を返していた。
空港まで、普通にいけば30分くらいで着ける。渋滞はそれほどないとグッドさんにもお聞きしていた。
しかし、渋滞で15分くらい流れなかった。事故渋滞であった。やっぱりこうしたことは起こりうる。早目に移動を始めて良かった。
シカゴ経由で成田、である。
シカゴに着いた時、例によって東部時間から中部時間に切り替わったことに気づかず、なんでまだ出ないんだ、といぶかしんでいる自分がいたのだが、もうそれについては詳しくはいいません。
成田行きの機内では、日本人の方と隣同士になった。
挨拶と自己紹介をしてみると、医療機器の海外営業が仕事だとのことで、南米への出張の帰りだということであった。
私が大学図書館で仕事をしているということで気を遣ってくれたのか、今スターバックス復興の物語を英語版(これは日本語版も出されている。ご存知の方も多いと思う。私も渡米直前に通販で買っておいた)でアマゾンで買って読んでるんですけど、米国の本屋をのぞいたらもっと安く売ってましてね、とか、英語の上達にはこうした本がいいですよとか教えてくれて、話は切れなかった。
しかし、彼の話でなんといっても面白かったのは、仕事先(出張先)で出くわした失敗の数々である。
イタリアのローマでは、車の窓ガラスが壊され、パスポート以下、いっさいの持ち物を盗まれたこと。また、夜一人でトレビの泉を歩いていると、旅行者と称して寄ってきたブラジル人と意気投合し、飲みに行こうといって連れて行かれたのが暴力バーで、大金を巻き上げられたこと(ほんとうにこわかったとおっしゃっていた。そうだろうと思う)。
アルゼンチンのブエノスアイレスでは、鳥のフンに似たようなものをかけられ、それを拭いてあげますといって寄ってきた女2人組に財布をすられそうになったこと(“鳥のフン”はマヨネーズとなにかを混ぜて作ってあり、すごいにおいがするらしい。これは未遂で終わる。)
どれも笑える話ではないのだけれど、ご本人も悔しいのはもちろんながら、面白おかしく話してくれるので、こちらも引き込まれてしまった。
では私も失敗話を(?)ということで、数年前、友人とアイルランドへ行こうと思って準備をし、すべての予約を済ませた出発の1週間前、自宅に空き巣に入られてパスポートを盗まれ、再発行が間にあわず旅行をキャンセルせざるを得なかったことを披露した。
ちなみに氏の経験した、トレビの泉での暴力バーの件と、ブエノスアイレスでの鳥のフンの件は、ネット検索するとまったく同じ手口で被害にあったことが報告されているそうだ。
だから余計に悔しかったのかも。
どの失敗話も笑ってられるものではないながら、でもやっぱり笑い話として十分使えるものなんだと思う。
失敗というのは(致命的なものでなければ)そうした性格を持っていると思うし旅に関することはいっそうその点面白さが増すようにも思う。
それ以外に、私が1か月の間、米国に関して感じたこと、思ったことをなんとはなしに話すと、彼はそれに対する自分の意見を述べてくれた。米国人は総じて食べすき傾向であること、ニューオーリンズのコーヒーがおいしいこと(これは両者一致した!)、米国は挨拶を重視する社会であること、などなど、話題はあちこちに飛んだ。
そんな話をする中で、自分はたぶん、いろいろ考えさせられたことのうち、いくつかのこと(挨拶重視の社会など)は観光という形での滞在であればわからなかったかもしれない、というと、彼もそれに同意してくれた。1か月、現地の人々と接し、コミュニケーションすることでわかること、感じられることがある。氏も外国人を相手にビジネスをしている立場として共通感覚のようなものを持っていたのだと思う。
「異文化体験」というのはこういうことをいうのだな、と思った。
そんな話をしながらだったので退屈することもなく、飛行機は定時に成田に到着した。
1か月ぶりの日本である。
1年の12分の1も日本を離れていたのだ。ずいぶんと長かったんだ。
しかし、終わってみればあっという間だった。
今回の滞在記は、失敗談の山、ということもいえるかもしれない(笑)。
ピッツバーグ: 6/28-29
6月28日(火)
朝3時にセットしておいたアラームで目を覚ました。
いつものことながら、ぜったいに寝過してはならないときは、携帯電話のアラームと旅行用目覚まし時計の2つをセットしておく。
チェックアウトし、30分ほどタクシーで移動すれば空港である。
事前に、出発が早朝でもタクシーはとりたてて予約をしなくても大丈夫か、と聞いたところ、大丈夫だということだったが、ほんとうにホテルの玄関の前で1台停まっていた。
領収書によると、先日送った荷物の代金は129ドルだった。かさや重さからするとシャンペーンから送ったものよりも大きくて重いような気がするが、そのときのUS Postalよりも安い。しかも箱はタダ(Postalは有料。そういえば日本のゆうパックも箱は有料だったような気がする)。さらにしかも、Postalのように細かな明細は書かなくてよい! ニューオーリンズ界隈はFedExが大きなシェアを占めているようだった。ググってみても、US Postalのオフィスは近くにはなかったし、道路ではFedExの車が頻繁に行き来していた。何より泊まったホテルがFedExしか扱ってないというのだ。
チェックアウトは簡単に済み、タクシーで空港に向かう。ドライバーは(例によって?)どこから来たのかと聞いてきたので、日本だと答えた。そうすると彼も日本に行ったことがあるという。滞在したという地名がたくさん出てきたが、それらに共通するのは軍関係施設があることだったので、"Army?"と尋ねたらそうだという回答が返ってきた。
20分ほどで空港に着いた。どこのエアラインかと聞かれた際に"United"だと答えておいたので、その前で降ろしてくれた。
4時10分ほど前。
すでにチェックイン待ちの人が数名いたが、あまり混んでいなかったことに安堵する。
事実、4時を10分ほど回ると一気に混んできた。それでもカウンターはなかなかあかない。
4時半になってカウンターが開いた。順番に手続きをする。セルフチェックインが原則だが、よくわからなかったので(予約番号がEチケットのどこに書かれているか見つけられなかった)、係員がパスポートを出せばやってやるというので渡した。彼はデータを読み込もうとしたが、どうも登録されていないようだった。Eチケットをよく見てみると、エアラインは"United"ではなくて"US Ariways"であることに気付いた。タクシーの中で聞かれて、なんとなく頭の文字が"U"だったことを記憶していたので、Unitedだといったことから間違いは始まっていた。
まったく何をやっているんだ、という感じである。
自分に呆れながら、あわててUS Airwaysのカウンターに急ぐ。だいぶ混みだしていたので、けっこうあわてていた。
が、幸いここは空いていた。ほどなくチェックインは終了した。
ニューオーリンズからワシントンを経由してピッツバーグへというルートである。シャンペーンからニューオーリンズへは、ぐんと南への移動だったが、今回はほぼ同じ距離を逆に移動してくるという感じだ。
最初の便は6時発、9時半ワシントン着となっていた。3時間半か、と思っていたら、実際ワシントンには8時半には着きそうだった。どういうことかとしばらく考えていたが、中部時間から東部時間に移っているのだということに気がついた。まったく、私には一つの国で時間帯が違うというのが、どうも感覚としてわからない。オハイオに行った時もそうだった。
ともかく飛行機は定刻に到着するということだった。
ワシントンからの便は10時発である。乗り換えに30分もなかった。実際、飛行機を降りて次の便が出るゲートに移動しているさなかに自分の名前がコールされているのが聞こえた。なんとか間に合い、便はこれも定刻でピッツバーグに着いた。
預けた荷物をとりにバゲージ・クレームに行く。乗り換え時間が短かったからもしや…という危惧があった。
しかし、同じ便でニューオーリンズからここまで来た人がいたことに機中で気づき、彼らが荷物をピックアップしていったので、自分のも大丈夫か…と思った。
しかし荷物は出てこなかった。
あーあ、である。
以前、こうしたケースは経験したことがあったので、特段あわてることはなかったが、なんで同じ便でありながら、別の人の荷物はあって、自分のがないのか、それがわからなかった。
クレームを受け付けるカウンターに行って、クレームタグを見せると、係員の女性はカウンター後ろの小部屋に入って行った。そして引っ張り出してきたのは私の荷物だった。
“ワオ!”である。
米国にひと月もいると、こうした声が自然に出てくるから不思議である。
荷物のタグには"HEAVY"と書かれたシールが貼られていた。重すぎたということだろう。しかし、それだけで、なんで別に保管されていたのか、今でもよくわからない。エクストラ・チャージを請求されたわけでもないし。
さて、今回のピッツバーグ訪問は、ピッツバーグ大学東アジア図書館で仕事をされているLibrarianであるグッド長橋さんのおかげで実現した。
グッドさんとは、ある小さな研究会でお会いしたのがつながりのきっかけだった。
今回の訪問の直接のきっかけは、昨年の図書館総合展でお会いした際、今回のことが具体化してきつつあったので、できればピッツバーグを訪問して図書館を見学させていただけないかと頼んだことによる。具体化したら連絡してほしいという回答をいただいていたので、その後メールで連絡を取り合い、今回の訪問の実現となった。
ちょっとしたきっかけでつながった関係が、こうしたことに結びついたことに、ある種の感慨と、図書館の世界の横のつながりのありがたさを思う。
実際グッドさんを訪ねるのは29日としていたので、到着した28日はホテルの周辺を散策することにした。
ピッツバーグ大学はたいへん有名な大学であることは知ってはいたものの、どんな大学なのか、具体的にイメージは持っていなかった。
じっさい、大学の敷地と町の仕切りはどこにあるのか、見当がつかない。
最初に目に入ったて来たのはCathedral of Learning(「学びの聖堂」と訳すらしい)。ものすごく高い、ゴシック様式の建物だ。
外観もすごいが、中に入ってみるとさらにその荘厳さに驚く。
ウィキペディアによると、これがメインの校舎であるとのこと。
学生の姿はまばらだったが、見学者が何人もいた。
そこから少し離れたところに"Carnegie Museum of Art + Natural History"なる博物館・美術館があったので、入ってみた。
展示品はともかく充実しており、博物館のほうは恐竜の骨、宝石などのほか、アフリカ芸術、アメリカ先住民の文化などを見ることができた。恐竜の歩く様子をコンピュータ・グラフィックスで見せるといった仕掛けもあった。
もっと早くこうした博物館があることを知っておけばと悔やんだ。閉館まで2時間足らずしかないところで気づいて入館したので、とても全部見ることができなかったからだ。それほどに大きい。
ピッツバーグ大学があるのはオークランドという地区であり、文教地区だそうだ。
学生が多く住み、落ち着いた街並みが続く。いいところだと思った。
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6月29日(水)
今日は10時にグッドさんをHillman Libraryに訪ねることになっていた。
約束の時間に図書館正面玄関へ行くと、グッドさんは出迎えてくれた。
この図書館で約2時間超えの見学。その後昼食をはさんで、日本でいうところの「保存書庫」が少し離れたところにあるとのことで、車で案内していただいた。
蔵書数は6,000,000冊。しかしながらそのうちの3分の1しかこのヒルマン図書館には置いていないとのこと。後のものは、午後に案内していただく保存書庫にある。
また、グッドさんがLibrarianとして仕事をしている「東アジア図書館」(ヒルマン図書館の中、2階の1フロア全体がそれにあたる)には蔵書が450,000冊あるが(おおむね中国、日本、韓国(いわゆるCJK)、資料数の割合は60%、35%、5%くらいだろうということだった)、そのうちヒルマン図書館には150,000冊しか置けないとのこと。それほどに保存スペースには苦慮されているようだった。
ちなみに、ご存知の方には蛇足となるが、米国の"Librarian"は、日本で一般に認識されている、資格を持って図書館で働いている人という意味での「司書」と実態は異なる。Librarianはそれぞれ一定範囲で物事を判断し決定する権限を有しており、個室が与えられるなど、図書館組織の中でもProfessionとして地位が高い。
ヒルマン図書館と保存書庫の間は車で図書や場合によってはスタッフの輸送が行われているそうで、それが1時間ごとというのに驚いた。
面白いこと、発見は数限りなくあったが、組織(人)と、ILLのこと(と、それに付随すること)を書いておきたい。
図書館のスタッフとしては、雇用期限なし(といっていいと思う。ただしテニュア(終身在職権)を得るまでは数年かかる)のフルタイム、10か月雇用のフルタイム(10か月連続で雇用し、2か月はオフ。再雇用は可能。労働時間はフルタイム)、そして学生アルバイト(労働時間はばらつきはあるが、平均すると週あたり10時間くらい)という構成だということ。
グッドさんのお話では、学生スタッフがいなければ図書館は回らないのではないかということだ。
私の職場もかつて貸出カウンターのスタッフとして学生を雇用していた時期があるが、試験期の出勤が難しくなるという問題を解決できず、それをやめてしまったということがあった(学生たちに図書館で働いてもらうこと自体はとてもよいことだと当時は職員の間で話していた)。その点をどうしているかとお聞きすると、利用部門の責任者に確認をしてくれた。それによると、試験期のみの雇用を行う(多少の賃金割増しを行う)、仕事中も差し支えがなければ勉強してよいということにしてある(これは試験期だけではないようだが)ということでやりくりをしており、何とかなっているということだった。また、学生はおおむね大学の近くに住んでいる、ということもそれを可能とする条件の一つになっているのかもしれない。
ILL部門。実はグッドさんのお連れ合いがここで仕事をされているということで、直接説明をしていただいた。
ILLはかなりシステム化(なんといえばよいか、システム的なナビゲーション、たとえばOPACを検索し、所蔵していなければ、"E-ZBorrow"というシステムにユーザーは誘導され、資料の依頼ができる)されているということだった。しかしながらシステムの移行期であることから不具合も起きているらしく、今後調整が必要だということだった。
電子的なILL(E-DDS)は"まったく"(と強調されていた)一般的、OCLCはコストが高くデータに不十分な部分があるなどの理由で"Rapid-ILL"というシステムが開発され稼働している(これは雑誌記事のみ対象)など、米国の興味深い事情をお聞きすることができた。私がこちらにいる間にNIIから明らかにされた、Webcatのサービス停止とCiNii-Booksへの移行もこちらでは話題となっているということだった。ただし、英語版のインターフェイスはありながらも、検索後の画面遷移の中では外国で使われることについての異言語への配慮が十分でないということを指摘されていた。英語での機関データの情報が不十分であるなど、日本にいては(私がこれに関する実務をしたことがないことも影響しているが)想像できない事情を伺うことができた。
日本と事情は同じだ、という点で面白かったのは、いわゆる図書館特有の用語(jargon)の問題だった。
こちらの利用者も図書館が当たり前に使う用語(Reference, ILL: Inter Library Loan etc)などの用語は説明をしなくてはわからないとのことで、この図書館では利用者向けの呼称に工夫を凝らしたという。Referenceを"Ask Librarian"など"Ask"という一般的な用語で利用者向けに案内していることについてはすでに日本にも伝わっていることだし、こちらでも訪問した先では大学図書館、公共図書館を問わず、"Ask..."の呼称が使われているのを目にしていた。さらにこちらでは、かの"ILL"を"Requests from other libraries"としていたのである。
図書館のジャーゴンについてはずっと違和感と問題意識をもっていただけに(もっとも長年やっていると、それに染まってしまう自分をコントロールするのもなかなか難しくなるのだけど)、こうした対応・工夫をしている事例に出会えて我が意を得たりだった。
昼食をグッドさん、お連れ合い、私の三人で摂ったのち、保存書庫に向かった。
ここには、日本の研究機関から寄贈された蔵書があるということで、まずそれを見せていただいた。
(この経緯は、グッドさんご自身が『専門図書館』No246(2011.11)に書かれているのを、ホテルに帰ってから検索して見つけた。)
整理のために予算を要求し、目録作業をOCLCに外注しているということだった。
次に案内していただいたのは保存スペースである。
ほとんど「倉庫」である。そこの担当スタッフから、管理、サービスの仕方などの概要を聞いた。高いところにあるものはフォークリフトに工夫を凝らしたリフトで取りだすとのこと。
何より、目の前にそびえたつ棚の高さとその量は、すさまじいの一言だった。
その姿を見て、日本で導入が進んでいる自動書庫の発想は、この倉庫管理の発想だということで合点した。
グッドさんには、この後車で送ってもらい、図書館近くでお別れした。
お忙しい中、時間を割いていただき、ほんとうにありがとうございました。
さて、この後、夕方までに多少時間があったので、昨日訪れたカーネギー博物館と隣接する、Carnegie Library of Pittsburgh"に向かった。
米国公共図書館とカーネギーのかかわりについてはよく知られていることなので、ここでは述べない。
(カーネギーとカーネギー図書館については、ウィキぺディア(日本語)にも比較的詳しい記述がある)
ただ、カーネギーが自身がこのピッツバーグ、ペンシルバニア州を拠点としていたことはここにきて知った。
図書館の外観は石造りで威厳のあるものだった。しかし、中は適度な装飾が美しく、閲覧席にはクラシカルな電灯が措置されるなど、落ち着いた、温かい雰囲気を作り出していた。
人々は読書をしたり、調べ物をしたり、思い思いのことをしている。
図書館の正面入り口には、以下のことばが掲げられていた。
FREE TO THE PEOPLE
ウィキペディアによれば、カーネギーは、無条件に貧しいものへ与えることをよしとせず、努力する者を支援するために、富が使用されるよう寄付する者が責任を持つべきだとしていたとのことだ。
そこから(といってよいだろう)、図書館建設のための寄付の前提として、町が守らなくてはならないルールとして以下のことを課していたという。
- 町は公共図書館の必要性を説明すること。
- 図書館を建てるための土地を用意すること。
- 毎年、図書館建設の費用の10%を運営費として用意すること。
- 事業は無料であること。
そのうえで、寄付金は一度では支払わず、段階的に進行状況を見つつ支払われたとのことだ。
館内にあった図書館の概要には以下のようなことが書かれている。
The library provides critical services such as early learning programs for children and families, job search assistance, and computer and Internet access.
ここに書かれている「図書館が提供するもの」は、時とともに書き換えられてきたはずである。米国の図書館は変化を恐れず、社会の動向を敏感に察知し、使えるものは図書館のリソースとして積極的に取り込んできた(と私は理解しているし、それを今回の滞在である程度は確認できたと考えている)。
その背景にあるものについて、それは私がもっとも確認したかったことなのだが、ほんの少しだけだけれども、触れることができたような気がしている。さらに理解を深めるための材料はいろいろ確保することができた。帰ってから、時間はかかるだろうが、もう少し、理解を深めてみたい。
そんな思いを抱きつつ、この滞在記の最後を書いている。
ニューオーリンズ: 6/26-27
現在、6月27日の夕方というか、夜7時。
まだ外は明るい。
明日の朝3時に起きて、空港に向かい、6時の便に乗らなくてはならない。
6月26-27日までの概要を大急ぎで書いておきたい。
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6月26日(日)
この日参加したセッション
10:30 - 12:00 am
- Demonstrating the Value of libnrary: Assessment Tools and Technique(MCC338)
1:30 - 3:30 pm
- The 21st Century Academic Library Building: a Forum on Recent Plannning, Design, and Construction of New Library Space (MCC383-385)
4:00 - 5:30 pm
- Using Today's Mumbers to Plan Tomorrow's Services: Effective User Services Assessment(MC334)
すでにFacebookには書き込んであるので、知っている人は知っているのだけど、私にとってこの日は「アメイジングな」1日だった。
前日は12時ころ寝たのだけど、いつの間にか悪夢にうなされていた。かなりリアルな悪夢で、何かが自分に襲いかかって来そうだったので、ガバッとベッドから起き上がると自分の右側後ろに白い人の影のようなものがあった。恐ろしくて、声をあげて右手でそれを払いのけると現実に戻った。払いのけたのは、実際にはベットサイドのスタンドだった。
時計を見るとまだ1時だった。たかだか1時間寝たところでそんな悪夢を見てしまったのである。
スタンドは台から転げ落ちていた。
どうなっているんだろうかとよく見ると電球が壊れている。本体もなんだか曲がっており、これは弁償するしかないのか、と観念した。いくらになるんだろう? けっこうビビったのだけど、しばらくしてから旅行保険に入っていたのを思い出し、いざとなったら保険で対応すればいいか、とかあれこれ考えた。
結局、明け方に起きて冷静に現実を見てみると、ランプの破損への対応だけでいけそうだったので、ハウスキーパーにその旨のメモを書いて置いておくと、交換をしてくれてあった。
やれやれである。
しかしこれでこの日のアメイジングは終わらない。
午後1時半からのセッションは、図書館建築に関するトレンドといった話題でけっこうおもしろかった。
ノートにメモをとりつつ聞いていて、満足感をもってセッションは終わった。
しかし、会場を出てしばらくすると、メモを取っていたノートがないことに気付いた。
書くために使っていたボールペンが見当たらなくて変だなと思っていたのだが、まあしょうがないかとそれはあきらめていた。しかしふと、まさかと思ってバッグを探ってみるとノートがないことは、揺るぎなき現実として迫ってきた。
ゲッ、である。
このノートはモーテンソンセンターでの研修が始まって1週間たった最初の休日にウォルマートで買ったものだった。それまではルーズリーフを使っていたのだが、使いづらかったので、リング式のノートを買った。くるっと折り返してコンパクトになるし、誰かから「メモ用紙をちょうだい」と言われたら、何枚か破ってあげることができる(実際何回かそうしたことがあった)、など、マルチパーパスな利用ができて便利だと思っていたのだ。しかも買って以後、ずっと携行して、モーテンソンセンターでのセッション、見学先、事務連絡、そしてこのカンファレンスでのセッションのメモなど、ありとあらゆる手書きによる情報はこれに書き込んであった。
それが見当たらならくなってしまったのだ。
どうしようかとあせりまくりながら歩いていると、前をジェイミイが通りかかった。声をかけ、ノートがなくなったことを伝え、どうしたらいいかを相談した。遺失物担当の係がどこにあるか知っているかと聞くと、ALAのオフィスにあるから連れて行ってあげるといってくれた。そこまでいってスタッフにノートは届いてないかとジェイミイが聞いてくれる。スタッフの女性はそうしたものは届いてないという。ある意味、これは当然だった。まだセッションが終わって時間がたっていないので、仮に拾得されていたとしてもここまで届くには時間がなさすぎたからだ。
スタッフの女性は明日もう一度来て確認してはどうか、と言ってくれた。
そうするしかないかと思い、ジェイミイに礼を言って別れた。しかし、なんだかあきらめきれず、もう一度、セッションが行われたミーティング・ルームに行ってみた。
会場はすでにきれいに片づけられていた。やっぱりダメかと思いつつも、自分が座っていた席まで行ってみると、その右側あたりにノートが開かれたそのままに置かれていた。
!!!!!、である。
セッションの際に配られたハンドアウトはきれいに片づけられていたのに、自分のノートだけはそのまんまに置かれていた。たぶん、セッションのスタッフが忘れ物で落とし主が取りに来るだろうと考えて残してくれたのだろう(そうとしか考えられない)。
ALAオフィスの遺失物係の女性には、そこまでいって見つかったことを告げると、両手をあげて喜んでくれた。米国のホームドラマか何かで、親切な中年のご婦人がうれしいことがあると両手をあげて満面の笑みを浮かべてくれる、わりとよく見かけるシーンそのまんまの表情で喜んでくれた。
その間、時間にすれば30分くらいである。
心臓が止まりそうな時間帯だった。
時刻はすでに4時を回っていた。
最後に出たいと思っていたセッションはすでに始まっている。座れるかどうかわからないがともかく行ってみようと思い、会場に行ってみた。
案の定、セッションの会場は後ろで立ち見が出るくらいに混雑していた。アセスメントが話題となるセッションはそうなるだろうと思っていたので、さもありなんだった。
疲れてもいたし、あきらめて帰ろうかと、少し離れたところにあるソファに座って考えていた。しかしやっぱりあきらめきれない。利用サービスの評価の話なので、現実の業務上、自分にとっては切実なテーマだったからだ。
立ち見でもいいかと思い、会場入り口までふたたび行ってみた。声はよく聞こえないのだが、となりでやはり立ち見をしていた女性がカメラでプレゼンの資料が投影されているのを写真で撮っているのを見て、そうすればいいかと思い至り、ともかくスライドの写真を撮りつつ聞いていた(といっても話はよくわからなかった。しかしPPTの資料でフォローできそうだった)。そうこうしているうちに、40分くらいたってくると座っている人たちが席を立って帰り始めた。空いた席に立ち見の人、床に座っていた人たちが順繰りに椅子に座り始めた。私も5時近くになって、空いた席に座ることができた。
そんなこんなでこのセッションは終わった。
会場であるコンベンション・センターを出た。
シャトルバスに乗ることも考えたが、今日は歩いて帰ろうと思い、歩き始めた。そうしたら、なんの障害物があるわけでもないのに、バランスを崩しコケそうになった。映画で、大都会で疲れ切った男が歩道を歩いていると、追い打ちをかけられるように道端でコケる、そんなシーン、そのまんまの感じだと思った。
こんな日はうろうろ出かけたりせず、早く寝るに限ると思ったが、身内や知人への土産を買わなくてはと思いCanal通り沿いのショップを何件かはしごした。それもどうにか済ませ、ホテルに戻ってベッドにもぐりこんだ。12時くらいだった。
アメイジングな1日はこうして終わった。
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6月27日(月)
この日参加したセッション
- Nothing ただし、
- International Librarians Reception (Generation's Hall)
実のところ、プログラムをどんなに注意深く見ても、この日は参加したいと思うセッションが見つからなかった。
一方で、28日は、午前3時に起きて6時の便に間に合うようホテルを出なくてはならないので、荷物の整理をしなくてはならなかった。
カンファレンスではエキジビション関係を中心に多くの荷物が出たので、別送する必要が生じ、その手続きに追われた。
そのうえで結局、ニューオーリンズ公共図書館とTulan Universityの図書館を見ることにした。
やはりこれは見ておきたかったのである。
Googleで検索してみると、ニューオーリンズ公共図書館は宿泊しているホテルから歩いて行けるくらいに近かった。
10分ほど歩くと図書館が見つかった。
公共図書館の評価なんぞ、私にできるはずもないのだが、入って歩きまわってみた限りでは、それは「普通の」図書館だった。
昼食をCanal通り沿いにあるファストフード店で済ませた後、ホテルに戻った。そこで短パンに履き替え(それまでは長ズボンでかなり暑苦しかったのだ)、次の目的地に向かった。前々日に会った知人から、セントチャールズ通り沿いに走っている路面電車に乗っていけば大学は見えてくると聞いていたので、路面電車の線路沿いに歩いて行った。歩いているうちに路面電車に乗るのが面倒に思えてきて、結局大学まで歩いてきてしまた。時間にすれは1時間から1時半くらいではなかったかと思う。
旅行先での徒歩での移動は、基本的には苦に思わないタチなのだけど、今日はさすがに疲れた。路面電車の料金は距離に関係なく1.25ドルで、値段ではミネラルウォーター1本といい勝負だということだった。ニューオーリンズの午後はたまらなく暑い。
Tulan大学は旅行案内では「南部のハーバード大学」と紹介されていた。それがどういうことなのか、意味をとりかねたのだが、確かにキャンパスはものすごくきれいだった。
じゃあ、図書館もすごいんだろう、と期待をもって行ってみると、写真のような外観だった。
入り口付近で警備のおじさんが立っているのを見て、入らずに帰ろうかと思った。
すでに10年くらいを経過しているが、ニューヨークにあるコロンビア大学の図書館をアポなしで見学させてもらうと思って交渉したら、その入口に立っている警備のおじさんは、関係者が以外は入れない、と職務にまったく忠実な回答をくれた。こっちはけっこうへこんだ。
そんな記憶があったので、注意されたりするのが面倒だと思ったのだ。
しかし、エントランスに入ろうとした私に対し、警備のおじさんはなんにも言わなかった。
エントランスに近いカウンター(デスク)にいるスタッフに見学の依頼をすると快くOKしてくれた。
いろいろ見てみたが、
- ラーニング・コモンズが整備されていること
- ユーザー・インストラクションが一定のビジョンをもって展開されていること
あたりが目に付いたことだっただろうか。
くるっと歩いただけでの「評価」なのでこの辺にしておきたい。
帰りは路面電車に乗って、快適な気分で帰って行った。
コンベンション・センター近くの停留所で下りて、会場に歩き始める。
会場はすでに片づけモード全開だったが、なんとなくうろうろしていると、数日前に紹介した、自然災害により被害を受けた図書館を紹介するコーナーにいくつかそれまでには見つけられなかった資料を入手することができた。
6時前にコンベンションセンターに近いレセプション会場に着いた。
レセプションは6時からということだったが、すでに飲み物、食べ物は用意され、銘々が勝手に料理を取り、アルコールで気分上々といった感じになってきた。
どういえばいいのだろう。
ともかく好き勝手にみんなしゃべっている。新しいコネクション形成のために振舞っている人もいるのだろう。
会場では、バーバラ、ジェイミイ、ヘバ、ラシャに会うことができた。
バーバラは、私が着ていたALAのTシャツ(10年以上も前に買ったもの)を褒めてくれ、また、振舞われていた寿司と私が手にしていたバドワイザーを指して、日本とアメリカがいっしょになっているといっていた。またこれからもメールで連絡を取り合おうということも。ジェイミイには昨日の件について、すでにメールでノートが見つかったことは連絡してあったのだが、もう一度その話題に触れ、礼を言った。
会場からは30分ほどで引き揚げてしまった。手持無沙汰が最大の理由ではあったが、早くに寝なくては、ということもあった。
そんなこんなでニューオーリンズ滞在が終わろうとしている。
ニューオーリンズ: 6/24-25
6月24日(金)
ALA Annual Conferenceの実質的な開会日、会場はホテルから歩いたら10から15分くらいかかるところにある"Morial Convention Center"である。
日本のこの手の「開会式」にあたるOpening sessionは4時から。その前に初参加者のための、またそれとは別に外国からの参加者のためのオリエンテーションが設定されていたので、それに間に合えばいいと思い、昼過ぎにレジストレーション・カウンターで手続きを行った。
会場は昨日のうちに外観だけは確認をしてあったが、ともかく大きい。東京ビッグサイトなんか目ではない、というほど、巨大なコンベンションセンターである。
会場に行ったら、モーテンソン・センターの研修でいっしょだった、エジプトのラシャとヘバに会った。やあやあ、という感じである。研修参加者の何人かはこのカンファレンスに参加することになっていた。
Registrationを済ませるとプログラムや関連資料とそれを入れるバッグを手渡された。
プログラムの厚さは2センチほど、なかには予定されているプログラムがびっしり書き込まれている。何件あるか数えようかとも思ったが、どれくらい時間がかかるか分からないのでやめた。
オライリーの本みたいな感じだ。
1時からNMRT(New Members Round Table)という初参加者対象のオリエンテーションがあったので、それに顔を出してみた。ちなみに大会プログラムの中には、このNMRTのようにアクロニムが頻出する。そのインデックスさえプログラムに掲載されているほどだ。
このオリエンテーションは、ALAのメンバー向けという感じの案内だったが、やっぱりそうだった。私自身、10数年前ALAのメンバーであったことがあるが、現在はそうではないので、話がとりわけ関係するわけではなかった。早々に引き揚げようと思ったのだが、司会と参加者の間でこんなやり取りがされたという1点は書き留めておきたい。
それは、司会が、このなかで、今よりいい仕事を得たいと思っている人はどれくらいいるか(という趣旨だったと思う)という質問に対し、半分くらいの参加者が"Yes"と手を挙げたことだ。
こちらに来る前に、このカンファレンスは、職探しのために参加する人も少なくない、ということを聞いていた。その一面を目の当たりにしたわけだ。
実際、会場には"JobLIST Placement Center"というのが設けられており、図書館への就職相談やキャリア形成に関するカウンセリングなどのサービスが行われるという。ここで開催されるワークショップにはたとえば、"How to successhful When Searching for Academic Library Positions - An Insider Perspective"などというものがあるようだ。
"Build your Personal Brand"はいかにもこの国らしい。
また、セッションにも"The Job Hunt: What to do While You Wait"とそのものズバリのものがあった。
カンファレンスの案内にも、ともかく名刺(Business Card)をもって、人とのつながりを作るように、というアドバイスがある。
ここの人たちは、就職してしまえばそれで終わりではない。もちろん米国にもいろんな人はいるように見受けられた。しかし、本気でやっている人間たちは貪欲だ。自ら努力し、それを支えてくれる人的ネットワークを作り(旧交を温める風景をそこかしこで見かけた)、また組織を使いながら自分の歩みを進めていこうとしている。
それを目の当たりにした。
2時半からは、"International Librarians Orientation"というものが設定されていた。私のように米国以外から参加する人間を対象としたオリエンテーションである。
ここに行くと、バーバラとスーザンに会うことができた。二人とも飛行機が欠航したことを心配してくれた。またカンファレンスを楽しんで、とも。わたしはこの日はイリノイ大学のロゴの入ったTシャツを着ていた(記念にと思ってシャンペーン滞在中に買っておいた)。この日に着ていたことにさしたる理由はないのだが、バーバラはそれを指して"Great!"と言ってくれた。
会場は、丸テーブルに各12,3人程度が座るようになっており、そのテーブルが12-3くらいあっただろか。単純計算すると、参加者は120-130人程度だっただろうか。テーブルには、メンターとして米国の図書館関係者が座っていた。ジェイミーもメンターを務めているようだ。
オリエンテーションは和気あいあいとしたものだった。主催者側のホスピタリティが伝わってくる。大会の概要、注意点、ニューオーリンズの街の情報(公共図書館や大学図書館についての情報も)などが、パワーポイントを使いながら要領よく説明される。私としては視覚情報があるのがありがたい。
オリエンテーションの最後は抽選会だった。スポンサー企業から、アマゾンの金券や、グッズなど、テーブルごとにそれぞれ50ドル相当の賞品を用意しているという。テーブルごとの賞品と提供企業名がスクリーンに映し出される。
やり方は、テーブルごとに司会がくじを引き、それに当たった参加者が賞品を手に入れることができる。
私は"Table3, Seat9"に座っていた。
1番目のテーブルから順々に始まり、当選者が決まる。「どこから来たか?」との質問が司会から出され、それぞれが答える。
私たちの番になった。私はこの手のくじ運は決定的に悪いと思っているのであたるなんて思いもしていなかった。しかし司会がコールしたのは"Table3, Seat9"だったのだ。「えっ?」という感じである。
賞品はワイリー提供の、アマゾンの金券だった。
これはオリエンテーション終了後、自分でワイリーのブースに行って交換することになる。
当選者は前に呼び出され、写真を撮ることになった。なんだかすごい感じだ。
そこで配られた資料の中に外国からの参加者の名簿があった。"Japan"のところを見ると、私以外に2名が参加していた。そのうちの一人は知り合いだった。
4時からはオープニング・セッションである。
時間に少し遅れて会場に入っていくと、すでに白いスーツを着た女性がスピーチを始めていた。あとで確認したことだが、この人がALAのPresident, Roberta Stevens氏だった。
このセレモニー、その参加者の数に圧倒された。どれくらいか、うまく伝えられないのだが、1,000人とかそんなレベルではなかったと思う。広い会場がぎっしりと埋まってしまったのである。
そのうえで、ともかく演出がすごい。会場の天井からつられているスクリーンを使い、さまざまな映像が流れる。これが図書館関係者の集まりか?と日本での状況に慣れきっている私にとっては、何よりもその演出のすごさが驚きであった。
それにキーノート・スピーチなどが続き、(私が参加するという意味での)この日のイベントは修了した。
なお、このセッションの最後にテープカットが行われた。たくさんの関連企業、団体等によるエキジビションがこの瞬間に始まった。
日本でなじみの企業名も見られる。
議会図書館(LC)は巨大なトレーラーを運び込んでいた。LCの紹介をするための車のようで、これで各地に移動し、中にある展示で紹介をしているようだ。
会場を歩きまわっていると、日本を含めた世界各地の自然災害に対するDonationを呼び掛けるコーナーが、小さいのだけど、あったのをみつけた。
滞在先のホテルまではシャトルバスが用意されていた。
参加者が泊まっているホテルは市内に点在しているので、いくつかのコースに分かれて運行されている。スポンサーはゲール・センゲージ。
私も初日の帰路以後、これにお世話になることになる。朝もホテル前から会場に向けて運行されているのだ。
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6月25日(土)
セッションへの参加はこの日から。
プログラムの中には数えきれないほどのセッションがあるが、この中から選ばなくてはならない。
なお、ALAのカンファレンスは、参加登録の際に自分が出るセッションを決める必要はない。
日本のこの手のイベントと勝手が違うので、レジストレーションの際、私はこのことが本当に分からなかった。ともかく最初は、基本的な登録と、出たい有料のイベントやプレカンファレンスがあれば、それに登録をする。後は宿泊施設。これも自分で探すのであれば、不要である。
ホテルについては、実際に泊まった際に清算がされるので、それを除いた費用が請求されることになる。クレジットカードにより支払いの手続きをすればそれで終わりである。
# ただし、これはあくまでも今回のレギュレーションで、他の場合はどうなのかはわかりません。
結局、この日は以下のセッション、イベントに参加することにした(カッコ内は会場)。
10:30 - 12:00 am
- President PRogram: From Idea to Innnovation to Impletation: How teams make it happen (MCC356-357)
1:30 - 3:30 pm
- Academic Librarian Lightning Round! Innovative New Roles (MCC-AUDITORIUM A)
4:00 - 5:30 pm
- The Future is Now!: E-books and Their Increasing Impact on Library Services (MCC392)
6:00 - 7:30 pm
- Now Showing@ALA: The Most Dangerous Man in America: Daniel Ellsberg and the Pentagon Papers(Film) (MCC-AUDITORIUM C)
中身をいちいち紹介するのはこのブログの目的ではないので基本的には触れない。
しかし、この後の状況も含めて概観すると、総じて、マネジメント関係と電子資料関係のセッションへの参加者が多かったように思う(もちろん、私が参加した範囲での印象)。
この日もEブックのセッションには(200人程度の席に)300人が押しかけ、立ち見(というよりは床に座っての参加)が出るほどだった。
感想めいたことをいっておくと、Eブックをめぐる日米の状況はこれほど違うか、という感がした。実際、一般の人がいわゆる電子書籍をどれほど身近に感じているかはわからないのだけど、確かに、KindleやiPadを使って何かを読んでいる人をそこかしこで見かけたことからすると、日本よりは普及しているように思われる。隣に座った人からはどこから来たのかと聞かれたので、日本から来たと話すと、日本のEブックについての状況はどうかと聞かれた。電子ジャーナルは一般化したが、Eブックについては、言語や法律の問題などにより十分には普及はしていないと答えた。
スピーカーの説明では、サプライサイド(出版社)との調整が進んだこと、一般の人が電子書籍への理解を増したことにより、この数年で普及はずいぶんと進んだという。
最後のドキュメンタリーフィルムを見てから引き揚げたので、だいぶ遅い時間になってしまった。
それでもシャトルバスが運んでくれるのでありがたい。
ニューオーリンズ: 6/22-23
性懲りもなく、米国滞在日記を再開します。
ニューオーリンズに到着してから今日までのことをとりあえずまとめ、以後は日々書いていくか、数日まとめて書くつもり。
それとは別に、イリノイのことで書き残したことなどを「モーテンソン補遺」という無骨なタイトルで思い出したところで書いていこうと思います。
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6月22日(水)
午後2時ころダラス経由でニューオーリンズ空港に着いた。シャンペーン発の便が予定通り飛んでいたら11時には着いてしまっていたので、程よい時間となった。かえってよかったのかもしれない。
降りてからバゲージクレームへと歩いていると、ジャズが流れてきた。さすがニューオーリンズと感心する。
荷物をピックアップし、どうやってホテルまで行こうかと考える。
ガイドブックには市の中心部までタクシーで33ドルとある(固定料金)。
それでもいいが、もう少し安い手段はないかと見まわしてみるとシャトルバスの案内があった。ドライバーらしき人が「乗るか?」というので後払いでよいかと聞くとよいというので、それに従った。
乗客の目的地を順番に回ってくれるのでありがたい。一番最後に乗り込んだせいか、最後の客となった。どこから来たかと聞かれたので日本だと答えると、地震と津波が話題となった。ここはよく知られているように2005年にハリケーン、カトリーナで大打撃を受けたところだ。自然と関心がそこに向かうのだろう。シャンペーンでも日本から来たというと、誰かれなくこれが話題となった。私はきまって、「地震と津波の被害からはこれから復興に向かえばいいが、原子力発電所の事故(Nuclear Power Plant Acccident)は現在も被害が広がっていて深刻だ」と答えることにしていた。遠いところから映像だけで見れは地震と津波、とりわけ津波の被害はセンセーショナルだろう。しかし日本の現在の状況でさらに恐ろしいのは、広がり続けている放射能への人々の内部被ばくと、そこからかなり時間がたったところで表れる健康への影響だと思う。
まあ、それは別にまとめて書きたいと思うのでこの辺で。
ホテルに着いた。いくら?と聞くと20ドルだ、というので5ドル上乗せした支払った。料金にはドライバーへの謝礼は含まれていません、という車内の掲示を見たので、少し上乗せしたのだ。シャトルバスのドライバーは大変である。客が降りるところごとに乗客を降ろし(女性であればドアを開けてあげていた)、大きなバッグをいちいち降ろしてあげている。見ているうちにそのサービスに感心してしまい、自然と上乗せしようという気になったのだ。
チェックインを済ませ、部屋に荷物を置いたあと、街を軽く歩いてみる。
今回は来る前に、イリノイであれシカゴであれここであれ、滞在するところについてはいずれもほとんど知識を入れる余裕がなかったので、ここも地理が頭に入っていない。
明日1日はまるまる空いているので、ALAカンファレンスの会場の下見もしながら本格的に歩くことにした。
ホテルのロケーションは、どこへいくにも都合がよいことが、地図とにらめっこをしていると分かってきた。
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6月23日(木)
日本人の感覚でイベントが「6月23日から」と書かれてあったら、だいたいその日の昼くらいに受付が始まると考えるのではないだろうか。
しかし、ALAのカンファレンスはそうではなかった。確かに23日からイベントは予定されているのだけど、それは一部のプレカンファレンスだけのようで、一般参加者のレジストレーションは24日からだった。これは私がうかつだったのかもしれないが、わかりにくいところである。なので、私はシャンペーンについてすぐの頃に、ニューオーリンズへの移動のための飛行機を23日ではなく22日で頼んだのだが、結果からみればその必要はなかったということになる。途中でそのことはわかったのだが、まあ1日早く乗り込んで慣れておこうというというくらいの気持ちでいたのだ。
実際、この1日で市の中心部の主なところは歩いてしまったと思う。
メインストリートであるCanal st, もっとも人が集まるFrench Quarter, ミシシッピ川、「第二次世界大戦記念博物館」(というものがある)など。
この博物館は別名"D-day Museum"といわれるらしい。D-dayは説明するまでもなく、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線で、連合国軍がナチスドイツに勝利をおさめる決定的なポイントとなったノルマンディ上陸作戦に踏み切った日を指す。
日本とのいわゆる太平洋戦争についても取り上げられているのだが、最後が原爆投下ということで米国側にある種の後ろめたさがあるのか(とガイドブックには書いてあった)大きくは取り上げられていない。
有名な喫茶店だとガイドブックで知った"Cafe du Monde"の前ではミュージシャン(らしき人)がそこの客に向かってトランペットで演奏をしながら歌を歌っていた。曲はアメイジンググレイスだった(もちろん、ジャズ風)。そうした人たちがそこかしこにいる。ニューオーリンズらしいんだろう、これが。
ここは現在、日が沈む時刻は8時過ぎだ。シャンペーンのような高緯度ではないのだけどその時刻(サマータイムが設定されているのかもしれないが、このサマータイムというのはどうも体感的によくわからないので考えないことにしている)にならないと陽が沈まない。
ホテルに戻り、なんとはなしに過ごし、翌日の開会に備えた。