ネットの中の人格について

昔よくあったテーマじゃないですか、「機械の反乱」。コンピューターにあらゆる情報を吹き込んだらその情報を媒介にして、自我を持ち始めて人間に反乱するってヤツ。
それによく似たことが実際起きはじめているんじゃないかなぁ。いや、反乱じゃなくて、人格を持った、あるいは人格として理解されるネット上の意志。ブログを書いているとそれに関する反応がカウンターやトラバ、ブクマ、はてなちゃんスターという形で返ってきます。正の意味でも負の意味でも贈答がなされるわけです。しかしその場に私はいない。そうであるのに私の意志の残滓を手がかりに人がこのページを訪れる。
これは私が不在の時もブログに集積された私の意志が、訪れる人々に「人格」として理解されているからではないでしょうか。分かりやすくいえば出版された本を見て著者の人格を類推する作業が、ブログ世界では恒常的に、相互に、繰り返されているということです。

この本の中で著者は上記の私の感慨をこういう言葉にしています。

「脳を預けたらそれが膨らんで戻ってくる」ような気がした。
                            ウェブ時代をゆくp160

過去の時代では「著作」を購入。ないしはメディアに取り上げられることで見知らぬ第三者の人格は判断されてきました。いわゆるテクストの読解によって著者の言わんとしていることに迫る「現代国語」などは、その最たるものだと考えられます。
しかし、ブログが普及したこれからは書く記事、トラバの内容、はてなスターの配置、ブクマのジャンル、記事の人気。あらゆる要素が「私」を判断する材料となってきます。現代国語のように類推能力も必要ですが、著者が生きているならそのブログに行って質問する方が早いし、正確。
「ブログ」は現在進行形ですが、あくまで残滓にすぎません。つまり書かれた時点で「過去ログ」となるわけですが、他人にとってはそんなことは関係なく、現在進行形の「人格」と受けとめられ、そこに著者本人が「いる」かのように解釈されます。
このブログに集積された文章から、他者に類推されるものがネット上での「人格」
です。
ネット上での「人格」はハンドルネームや素性、ホーム*1の場所など、ある程度個人情報や自身の属性をオープンにしていった方が、その形成は加速されます。またなにより「ネット内での信頼性」が上昇します。匿名、変名、「名なし」では、いくら秀逸な意見を述べようが、ネット上の「人格」がないためそれらは一つの場所に収斂されませんし、そこに信頼は生じにくい。
なぜなら「己」を担保にしていないからです。
私のように、
「同人誌の売り上げを上げたい」
「カウンターを50万台まで上昇させたい」

とかの、ネットによって実現できるプランや、個人的欲望がある人間は、前者を採ります。己の人格を担保にして「信頼」と「知名度」を得るために。
ただし集積された人格は「信頼」と同時に「動きにくさ」も生じさせます。そこに「人格」の集積があるため。「キャラ変更」は現実の世界以上に効かない。ある日急に性格を変えて一人称を「オレ様」にしたり、「世界同時革命」を目指すわけにはいかないのです。まあ、できますけどそれまで培ったネット上の「人格」が揺らぎ、破綻します。このような「キャラ変更」をするためには、匿名になったり新しい名前でブログを開設するなどの「別人格」になる必要があります。ただしその際、今まで培った「信頼性」は利用できない。
「集積」して人格を形成するか、「別人格」を使い分けて自分を雲散霧消させるか。それは自由。その選択の幅こそが周囲の自分に対する評価がある程度定まった「現実世界」にないネットの魅力です。ここでは一から自分を作ることができるからです。ただし、それでも今まで培った「地」が出てこざるを得ません。なので、具体的な権益を得るのはそういう「地」を出しつつ、己の人格を前面に出す前者だと考えます。
ただ前者を掣肘(せいちゅう)する意味でも後者の、自由な意志は必要です。
そこは好き勝手に自分の意見が言える場だからです。何気ない不満。実名では恥ずかしくて言えないこと。そういう「匿名だからなしえる発言」は必要だし、その方が真実を含むことも往々してあるのです。それが社会に対して力を持つためにはネット上で「人格」を持つ前者が拾い上げ、ソースを明確化する必要がありますが。世界の言論が、志向性が固定化しないようにするためには「匿名」のルサンチマンや怨念をも含めた発言が必要だと私は考えます。
自分に関するソースを明らかにしてネット内に「人格」を形成するか。ゴーストの如く匿名で気ままに漂うか。ネットにおける己が身の処し方と、そのバリエーションはまだまだ広がりを見せていくような気がします。

*1:自宅じゃないぞ