スタジオカラーVSガイナックス:『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』

もはやコミケにも行かないし深夜アニメもチェックしないヌルオタな自分だが、こればかりは見逃せないと初日に観てきましたよ。なにがって、勿論『ヱヴァQ』ですよ。


いやはや、映画館の席は右から左までビッチリで、あんなにも映画館が満席だったのは数ヶ月前に『先生を流産させる会』を観たとき以来だったよ。テレ東でTVシリーズやっていた時は、オタク以外見向きもしないカルトアニメだった『エヴァ』も、もはや立派なイベントムービー。若いカップル率の高さに、流れ去ってしまった時間の膨大さを感じたりもしてしまった。
ところが、今回の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』は、まごうことなきカルトムービーだったよ!前作『破』は、なんだか昔好きだった女の子がスゲーいい女、それも完全なるオトナの女になって帰ってきたようだったのだが、三年経ったら一転、外見はオトナだけど中身はそのままなことが判明した――みたいな感じだった。
もうさ、ゆるいギャグとか観客に媚びた萌えキャラとか一切無し! 予定調和を決して許さない展開とか、最終回一歩手前みたいな殺伐としたテンションが延々続くさまとか、前回で人間的に成長した筈なのにもう元に戻っているシンジくんとか、大量の独自用語を処理しきれなくておいてけぼりを喰らう感じとか、見終わった観客が呆気にとられたまま隣席の友人とざわつく上映後の館内とか、これぞエヴァ! おれ達が待ち望んでいたエヴァー*1だ! ……と思ったよ。いや、良かった良かった。
ただ、三作目にこういう内容を持ってきたのは、絶対に理由があると思った。



以下、完全にネタバレなのでそのつもりで。



庵野秀明をはじめとするガイナックス出身のクリエーターは、自らの置かれた状況を作品内にテーマとして込めることで有名だ。たとえば彼らが最初期に作ったDAICON3やDAICON4のオープニング映像は、その時のSF業界やアニメ業界内における自分たちの立ち位置を表現していた。その後に作った。『オネアミスの翼』も『トップをねらえ!』も『ふしぎの海のナディア』、も同様だった。
遺言
岡田 斗司夫
4480864059
TVシリーズの『エヴァ』も、当時出た研究本なんかでは、主人公であるシンジがエヴァに乗ることは庵野秀明がアニメを作ることのメタファーであるとか、父親である碇ゲンドウには『ナウシカ』を手伝った時の監督としての宮崎駿像が反映されているとか、ゼーレの面々がモノリスであるのはアニメスタジオの上に君臨して勝手なことばかり抜かしているスポンサーの面々の顔が見えないことの象徴であるとか……みたいなことが言われていたものだ。
『Q』の冒頭で上映された『巨神兵東京に現る』も同様だと自分は考えている。


『Q』は『破』から14年経った世界を舞台にしている。『新劇場版』がTV版と同じような話になると思っていた人はいないだろうが、これは予想外だった。
しかし、「自らの置かれた状況を作品内にテーマとして込める」という点に注目すれば、実はすんなり理解できるのではなかろうか。
何故『Q』は『破』から14年経った物語なのか。答えは簡単だ。『新世紀エヴァンゲリオン』というTVシリーズが96年に終了し、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』を始めるまでの十数年間、庵野秀明がどう世界を認識し、どう考え、どう行動したかが反映されているからだ。
たとえば『Q』ではミサトがネルフを抜け「ヴィレ」という組織を設立し、ネルフと敵対している。これは庵野が2006年にガイナックスの取締役を辞し、株式会社カラーを設立したことが象徴されている――というのは、そう穿った見方ではないだろう。
ヴィレが運用する戦艦ヴンターがエヴァ初号機の力で動いているというのも意味深だ。『新劇場版』の制作にガイナックスは全く関わっておらず、カラー主導で制作され、庵野秀明が原作権を持ち出資もしていることは有名な話だ。おまけに、ヴンダーに乗っている新キャラの一人を演じるのは『ナディア』でネモ船長を演じた大塚明夫で、操舵手を務める女性の肌は浅黒い。これは「おれ達、『ナディア』や『エヴァ』の遺産で動いてますよ」ということなのではなかろうか。
そう考えると当然、舌打ちばかりする北上ミドリや、鈴原トウジの妹鈴原サクラは、TV版放送時の現役視聴者で、庵野やガイナックスに憧れを抱いてアニメ業界入りした若手スタッフ達の象徴となるだろう。
ヴィレに対し、ネルフはエヴァ零号機や初号機のコピー品みたいな9号機や13号機で応戦してくる。零号機に載っているのは綾波タイプの初期ロット――『破』の綾波とは違う、魂の無いコピー品だ。これは、スタジオカラーからみた『グレンラガン』や『トップをねらえ!2』に対する悪意なのではなかろうか。あんなのはコピー品だ、とでもいうような。


で、シンジくんはヴィレではなくネルフを選択し、廃墟のようなネルフ本部でカヲルくんとピアノを弾く。ピアノの連弾で男二人が親しくなるという演出が、まるで一緒に飯を食うことで仲良くなるジョニー・トー演出のようで、否が応にもカルト映画っぽさを増強する。


TV版『エヴァ』はエポックメイキングなアニメだった。制作委員会方式が普及したのも、深夜アニメが佃煮のごとく量産されていくようになったのも、パチンコにアニメをモチーフとした台が増えたのも『エヴァ』がきっかけだった。エヴァは全てを変えた。まるでサードインパクトのように。
と同時に、苦しむ人間も出てきた。制作委員会方式は出資者が出資者が収益を確実に確保できるため、資金が集まりやすいと同時に、制作会社が苦しむシステムでもある。アニメ業界は多作の影響でアニメーターや新人声優の低収入が日常化してる。パチンコ化のライセンス料は美味しいし、これで劇場版も作れたけど、果たしてこれは真っ当なクリエーターの金の稼ぎ方なのか? という自省もある。
パチンコがアニメだらけになった理由(わけ)
安藤 健二
4862485081
こういった苦悩や自省が反映されたのが、廃墟となったネルフ本部や、サードインパクトで破壊し尽くされ人間が住めなくなった『Q』の世界なのではなかろうか。何もすることがなく、綾波に本を届けたり、カヲルくんとピアノを弾いたりするシンジくんは、TVシリーズ終了後に方向性を見失い、実写映画を撮ったりしてた庵野秀明の生き様が反映されているのでは? などと思うわけだ。


そういうわけで、『Q』はスタジオカラー(の前身的集まり)VSガイナックスみたいな話と、自分は受け止めたよ。こういう邪推で楽しめまくれるのも、実にエヴァっぽいね!