東浩紀氏×仲俣暁生氏トークセッション「神保町から〈東京〉を考える」 参加
あと東氏の『ゲーム的リアリズムの誕生―動物化するポストモダン2』が発売されていたので購入。『東京から考える』と『ゲーム的リアリズムの誕生―動物化するポストモダン2』を架橋するような話も聞けました。
※要注:以下のものは会場でとったメモをもとに、私が見聞きして印象に残ったことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。
『東京から考える』の前提
「個性的な街」か「工学的な街」かという対立
- サブカルチャーと呼ばれる戦後の文化の香りを独特に帯びている街が新宿から中央線沿いに拡がっている。今でも東京の文化を語るときに参照項になり続けている点に違和感。
- 2000年代の東京はタワーマンションやショッピングモールのある風景が参照項なのでは。今の東京の住人たちの文化のインフラに構造転換が起こって久しい、というのが東氏の考え。
- 「文化生活のインフラ」といったときにこれまで郊外のジャスコやTSUTAYAなどは外側にあるものと考えられて来たが、大型ショッピングモールに書店やシネコンができ文化的なインフラとしての役割を果たしつつある。それ無視すべきではないという問題意識。
- 中央線沿線は街として完成しているため新しい文化的インフラが入れない場所になっている。それを排除することで何を得ているのか。
- これまでの古典的な都市像がインターネットやその他様々な工学的技術によって相対化されるのでは。中央線的なものだけが文化だと思って、郊外に殺伐とした動物的な光景しか見ないのだとすればそれは貧しい視線。
- コンビニのように何百回通っても店員も客もまったく知らない人間のようにロールプレイするコミュニケーションは通常良くないものとして捉えられているが、コミュニケーションなしでも様々なサービスを、しかも徒歩圏で、享受できるのはある種の文化的洗練。
- 個性のある街が「テーマパークとして残る」という言い方は「なくなる」とは違う。現実として「ノスタルジーの権利」では都市計画に対抗できないだろう。
- 昭和期の雰囲気を持つ街がずっと残ってほしいというのは、次の世代が東京で生活を営むときの居住空間の再編成として最適解なのか。そこから個別の再開発の是非が問われる。
- 次の世代の利便性や本来可能であった選択肢を制限していくことをしてまで街を守るというためにはある程度の歴史等がないと説得力がない。中央線沿線的・下北沢的なものは権利主張できるか。
- 古い歴史的建造物を壊せとは思わないが、何をもって「古い」とみなすかは大変難しい問題。
『東京から考える』と『ゲーム的リアリズムの誕生』の繋がりについて
- 『東京から考える』では、人々は街にいろいろ意味を見出してしまうが、意味を見出さない場合は快適さだけが問題となる、その街にどんな意味があったとしても高齢者や障害者が入れない街よりも入れる街の方が「よい」、そういう意味の「よさ」しか残らないのではないか、ということを述べている。
- ライトノベルには物語の抽象的な「構造」と読者に心地よい「ガジェット」のデータベースの二つしかない。逆に純文学は自然主義的リアリズムとして「構造」と「ガジェット」の間を描くのが文学の使命というジャンル。その二つに分かれているというのが『ゲーム的リアリズムの誕生』の主張。
- 文化がなくていいと言っているのではなく、中間的な今まで「文化」と呼ばれてきたものがどんどん解体してきているのではないか(文化の二極解体)。
- 『動物化するポストモダン』で「動物化」が注目されたが、実は人間的なものと動物的なものが乖離することを言っている。文化的な香りが漂う街(=テーマパーク)は時々人間性を注入するために必要かもしれないが他方で人間工学的で快適な風景がすべてを覆っていく。同様にこれまで小説の内容・魅力と言われていたものが二極分解していると思って読んだ方が読めるのではないか。
ナショナリズム・右傾化について
- ネット右翼や嫌韓厨が「出てきた」と言われるが「出てきた」のではなくもともと日本は韓国や中国が嫌いなそういう国。障害者も差別するし外国人も差別する。
- これまで言説空間に出てこなかったのはアクセスできなかったから。従来の言説空間は国民全体の意見など反映していなくて、一部の出版人だけが言説を占有して「国民の意見」と僭称していた。
- その状況の成立条件は単に流通インフラによって実現していたので、流通インフラが変われば状態も変わる。これまで知識人が暗黙に不在と前提していた話が前面に出てきただけ。右傾化ではなくてこれまで見えなかった状態が可視化しただけ。
- インフラの改革によってこれまで言葉を発表しなかった人たちが発表できるようになったこと自体は良いことだから肯定するしかない。知識人たちの言説は一方で「民主主義的な価値観」や「個人の自由」を謳いながら、他方で価値判断の際に文学や出版の特権性を前提としてしまうという矛盾がある。
- もし本当に「民主的」になるのであれば、嫌韓・嫌中が6〜7割いる社会とともに生きていくしかない。韓国・中国を嫌った方がいいとは思えないが、これまで左翼・リベラルの人々が考えていたよりも遥かに困難なこと。
- それと都市論における郊外の光景の問題が関係。文化に誰がアクセスするかということは流通や技術が決めてしまう。物の流通や空間の設計が文化の内容にも決定的な影響を与えていく。それがいま目の前に現れている光景。そこからスタートするしかない。これは前提の話であって個人の趣味志向の話ではない。
前提条件から見えてくること
- 様々な人々が様々な選択肢を持てる社会を作ろうという合意で社会が営まれているのであれば、そこから論理・必然的に出てくるのはノースタイルな工学的に身体に優しい環境。
- 技術の集積による進化によって今醜いと感じるジャスコ的な風景も市場原理によって洗練されていくはず。その洗練された先にあるものは「個性ある街」とは異なるものだろう。
- 弱者のことを考えたくもないという人々がたくさんいることを前提として、弱者を救うことを考えるべき。弱者を救う立場に皆が立つべきと言ったとしても今の社会の原理がそれを許さない。そんなことは考えたくないという人は必ず出てくる。
- 世の中には差別的で偏見を持っている人たちがいる。誰も差別や偏見から自由とは言い難い。それを前提として皆が発言権を持つ社会になりつつある。
- 文芸誌がライトノベルを掲載すべきかという議論があるが、文学にとって全く大した話ではない。なぜ文芸誌に掲載されるものだけが文学であると思っているのか。その他の小説を読んでいる人たちにとっては関係がないこと。
- 下北沢再開発問題もパラレルに見える。下北沢の再開発問題に東京や都市の何かが象徴されているわけではなく、ただの地域的な問題でしかないと言える可能性がある。
※要注:以上のものは会場でとったメモをもとに、私が見聞きして印象に残ったことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。
あと会場で発売日前の特別先行販売ということで、部数限定で東浩紀氏の対談集『コンテンツの思想』が販売されていました。僕は幸運にもGETすることができたのですぐに読んでみました。『秒速5センチメートル』の新海誠監督の話や攻殻機動隊SACシリーズの神山健治監督の話は大変共感を持って読むことができました。