「怒り新党」を観てSF短編に興味を持った方へ

 27日(水)午後11時15分から放送されたテレビ朝日の深夜番組『マツコ&有吉の怒り新党』新・3大○○のコーナーで、藤子・F・不二雄先生のSF短編が取り上げられました。
 テーマは「藤子・F・不二雄らしからぬ 新・3大異色な物語」。
 この番組を観てこちらへたどり着いた方もいらっしゃると思いますので、先に申しておきますと、私は、今回の新・3大○○に選ばれた『コロリころげた木の根っ子』『自分会議』のVTRに入ろうというとき名前が表示された「藤子マンガ研究家 稲垣高広」です。
 
 ・『マツコ&有吉の怒り新党』2013年2月27日放送分(テレビ朝日系)より。


『怒り新党』をご覧になって「あの『ドラえもん』の作者藤子・F・不二雄がこんな衝撃的なマンガも描いていたんだ!」と驚かれた方、「『ドラえもん』や『パーマン』など藤子・F先生の児童マンガは読んだことがあるけれど、SF短編は読んだことがない。ちょっと読んでみようかな」と興味を持たれた方も少なくないと思います。今日は、そんな方々に向けて記事を書きます。(長文になるため、この記事の終盤(本の画像がいろいろと掲載された辺り)を確認していただくだけでも幸いです。現在刊行中のSF短編の単行本を紹介しているので参考になさってください)


 藤子・F・不二雄先生は、自分の描く「SF」は「すこしふしぎ」な物語の略だと述べていました。一般的に「SF」とは「サイエンス・フィクション」のことですが、藤子・F先生はサイエンス・フィクションの「サイエンス」の部分に弱いので、自分のSF作品をすこしふしぎな物語と呼んだのです。それは謙遜のニュアンスもあったと思いますし(じっさい藤子・F先生は博識ですし)、「SFとは何か?」というシビアな定義論争の外側にいたいというお気持ちもあったのかもしれませんが、それ以上に、次のような意味合いが大きいのだろう、と私は受けとめています。
 藤子・F先生の内面では、中国の古典『西遊記』も、中近東の昔話『アラビアンナイト』も、ブラッドベリやアシモフなどの小説も一線上に並んでいました。それらは、藤子F先生の言葉を借りれば「現実では考えられない突飛な思いつき」をもとに創作されたお話たちです。一般的にSFと呼ばれる作品たちも含まれますが、そうじゃない不思議話もあります。SFという括りだけだと、どうしてもはみ出してしまう作品たちが出てきます。藤子・F先生が描くSF作品は、そうした多様な不思議話たちの延長線上にあったのです。
「現実では考えられない突飛な思いつき」だけではなく、日常的な出来事であっても、ちょっと視点を変えてみるとそこから不思議な物語が生まれる…と藤子・F先生は述べていました。いつも見ている光景や、ありふれた生活、あたりまえのような出来事が、自分の視点を少しずらしたり角度を変えてみることで、不思議な、驚きの、奇妙な、お話として生まれ変わります。
 藤子・F先生は、SFの定義にとらわれることなく、そうした「現実では考えられない突飛な思いつき」や「少し角度を変えた視点」をマンガにしてきました。それらのマンガたちが「SF短編」というカテゴリで括られるようになったとき、先生は、「SF」に「すこしふしぎ」をあてはめてみたのです。


 今回の「新・3大○○」、私が作品選定にかかわった段階では「結末が衝撃的な異色短編を選ぶ」ということでした。それにしたがって『コロリころげた木の根っ子』や『自分会議』を新・3大に推したのです。
 藤子・F先生のSF短編には、結末が衝撃的な作品がいくつもあります。救いがなかったり、容赦がなかったり、皮肉っぽかったり、今まで見てきた景色が一変したり…と精神的なショックがもたらされます。
“衝撃的な”結末ばかりではありません。藤子・F先生のSF短編には、結末のすごさに唸らされるものが多いのです。
 ストンと腑に落ちる結末や、キレのある結末、パズルのピースがつながったような結末……、それから、ハッピーエンドの作品もありますし、落語のオチのように笑いを誘う結末も見られます。全体的に、結末が与えてくれる満足感が実に大きいです。


 藤子・F先生のSF短編は「アイデアSF」なんて呼ばれることもあります。アイデアが秀逸、アイデアで勝負、という側面が強いのです。
 新鮮なアイデア、特異なアイデアから、古典的なアイデアまでいろいろありますが、そのアイデアの練り方、調理法が素晴らしくて、元のアイデアが持っている面白さを何倍にも引き立てています。
 藤子・F先生の卓抜な構成力には感嘆するばかりです。


 藤子・F先生のSF短編には、児童向け・少年(あるいは少女)向けのものから、青年・大人向けのものまで幅広く存在します。そのうち、子ども(児童、少年少女)向けの作品を“少年SF短編”、青年・大人向けの作品を“異色短編”と呼んだりして区別することがあります。
 今回の『怒り新党』で紹介された『コロリころげた木の根っ子』『自分会議』『間引き』は全て“異色短編”のカテゴリに入ります。結末が衝撃的だったり容赦がなかったり救いがなかったりする作品は、“少年SF短編”より“異色短編”のほうに多いのです。


 デビュー以来子ども向けのマンガを専門に描いてきた藤子・F先生が大人向けのマンガを描くようになった経緯を、先生ご自身がこう述べています。

 昭和四十四年でした。
(略)
世は挙げて劇画ブーム。コミック読者の主流が、子どもを離れて大学生、サラリーマンにまで広がり、こうなると昔ながらの生活ギャグなどかったるくて、というわけです。祭りの後の淋しさというか、はっきり言って落ち込んでいた時期でありました。
当時の『ビッグコミック』編集長小西さんが、ひょっこり顔を見せて一本書いてみろというのです。「冗談じゃない。書けるわけがない。ぼくの絵を知ってるでしょ。デビュー以来子どもマンガ一筋。骨の髄までお子さまランチなんだから」 いや、それでもいいから書いてみろという。とにかく強引な人なのです。話しているうちにだんだんやれそうな気になってきました。「たとえば、こんな話なんかどうです」と小西さんの話してくれたのが民話です。「猿後家」でしたか。はっきり覚えていないけど、民話特有の残酷な小話でした。「面白そうですね。それ、なんとかやてみましょう」と書いたのが「ミノタウロスの皿」でした。元の話とは全く何のつながりもないけれど、触発されて書いたことは事実です。
(愛蔵版『藤子不二雄SF全短篇 第1巻 カンビュセスの籤』中央公論社、1987年)

というわけで、藤子・F先生の異色短編の記念すべき第1作『ミノタウロスの皿』が誕生したのです。
『ミノタウロスの皿』は、「ビッグコミック」1969年10月10日号で発表されました。我々は、人間と家畜の関係を「人間→食う側」「牛(肉牛)→食われる側」という構図で当たり前のように捉えています。そして、人間はこういう姿で牛はこんな形をしている…という確たるイメージも持っています。そうしたことは、我々の肌身の奥に染みた固定観念・常識になっているでしょう。
『ミノタウロスの皿』を読むと、そんな固定観念がぐらぐらと揺さぶられます。自分がそういう固定観念にとらわれていたんだということに気づかされます。
食う側と食われる側の関係が転倒したような異世界に放り出され、カニバリズムを思い起こさせる事態にすら遭遇します。「ことばは通じるのに話が通じない」という不条理な状況にも見舞われます。
 自分がいま確かに立っているはずの足場が揺らぐ驚き、恐怖、衝撃…、それは一種の悦楽でもあります。


『ミノタウロスの皿』については、当ブログで詳しく感想や分析など書いたことがあります。お時間のあるときにもで読んでいただけたら幸いです。
 ●『ミノタウロスの皿』から感じたこと
 http://d.hatena.ne.jp/koikesan/20080306
 ●『ミノタウロスの皿』と『猿の惑星』『ガリヴァー旅行記』『猿婿入り』
 http://d.hatena.ne.jp/koikesan/20080303


 藤子・F先生は『ミノタウロスの皿』発表後、「ビッグコミック」「SFマガジン」「漫画アクション」などの雑誌を中心に、異色短編を続々と描いていきました。一つ一つの作品を紹介していく余裕はありませんが、『ドジ田ドジ郎の幸運』『気楽に殺ろうよ』『自分会議』『劇画・オバQ』『定年退食』『ノスタル爺』『コロリころげた木の根っ子』『やすらぎの館』『どことなくなんとなく』『ウルトラ・スーパー・デラックスマン』『カンビュセスの籤』『超兵器ガ壱號』『旅人還る』『夢カメラ』『ある日…』などなど、数々の異色短編が世に送り出されていったのです。


 藤子・F先生は、そうした異色短編について、こんなコメントを残しています。

『ドラえもん』とか『オバQ』とか、ああいう手の物は、いろいろやはり気をつかいながら描きます。今はおおかた、子供マンガ、大人マンガというのはない、という定説もありますけど、やはり乳幼児にカレーライスは食べさせられないのと同じで、年令によってやはりある程度、むくむかないはあると思うんです。小さな子供が読む物には、強すぎる香辛料は除くとかそういう配慮が必要だと思うので、一応気をつけて描いていますね。で、反動かどうか、大人むけならかなりのことがやれるもんだからもう“救い”とか、そのへんには気をつかわないことにして(笑)
(「少年/少女SFマガジン競作大全集」PART3、東京三世社、1979年)

 大人向けの異色短編を描くさいは、子ども向け作品を描くときの配慮を外し“救い”などに気を遣わない、というのですから、藤子・F先生の児童マンガに慣れ親しんできた読者がある時点で異色短編に出会ったとき、「藤子・F・不二雄ってこんなマンガも描いていたのか!」と衝撃を受けるのは無理もない話です。私もかつて同様の衝撃を受けた1人です。当時は藤子・F・不二雄先生と藤子不二雄A先生がコンビを組んで「藤子不二雄」名義で活動していた時代でしたから、私の場合は「藤子不二雄ってこんなマンガも描いていたのか!」という驚き方でしたが。
 そうした異色短編との出会いによって、私はますます藤子ワールドから離れられなくなりました。『ドラえもん』ファン、藤子先生の児童マンガが好き、という感じだった私が、藤子中毒者のような状況になった理由の一つに、異色短編をはじめとしたSF短編群との出会いがあったのは間違いありません。
で、SF短編などを読んだ目で、もう一度『ドラえもん』などの児童マンガを読み返してみると、児童マンガのなかにも異色短編と同様のアイデアやモチーフや精神性が見つかります。異色短編で赤裸々に容赦なく表出した諸要素を、糖衣やオブラートでくるんだものが『ドラえもん』などの児童マンガなのだ…と感じるようになりました。(さらに言えば、そんな『ドラえもん』だって、1300話以上も描かれた中には、糖衣が剥落したかのような、オブラートが破れたかのような内容の話もあったりするのですが)
 藤子・F先生は「ぼくにとってSF短篇は、どちらかというと、プロ作家の意識よりも趣味的に描いていたジャンルです」と述べています。つまり、藤子・F先生の趣味や好みや考えなどが、さほど気を遣うことなく露わになっているのがSF短編であり、プロとして自己表出をコントロールしながら職人的に描いていたのが児童マンガであった、というふうに言えるのです。(ただ、藤子・F先生の内部にある永遠の童心は、児童マンガのほうで生き生きと反映されていた、とも考えられます)


『ミノタウロスの皿』を嚆矢とする異色短編(=大人向けSF短編)を網羅的に読みたい場合、現在刊行中のものではこんな単行本があります。
 
 藤子・F・不二雄大全集『SF・異色短編』全4巻(小学館、2011〜12年)です。(この全4巻を揃えれば異色短編を全作読むことができます)


 全集に手を出す前にまず文庫サイズの単行本で入門したい、という場合は…
 
 小学館文庫『藤子・F・不二雄 異色短編集』全4巻(小学館、1995年)が、現在もまだ発売中です。(文庫版は、全集を買えば必要ありません)


 それから、
 
 中公文庫コミック版『藤子・F・不二雄 SF短篇集』全4巻(中央公論新社、1994年)も現在入手可能です。(大人向けの短編だけでなく、少年向けSF短編も混ざっています)


 大人向けの、いわゆる異色短編ばかりに注目してしまいましたが、少年向けに描かれたSF短編も傑作ぞろいです。多彩なアイデアや優れた物語構成、不思議な状況設定のなか、思春期的な心情が浮かび上がっているものが多いと感じます。
 少年向けのSF短編を網羅的に読みたい場合は、こちらです!
 
 藤子・F・不二雄大全集『少年SF短編』全3巻(小学館、2010〜11年)。(この全3巻を揃えれば、少年SF短編は全作読むことができます)


 それから、文庫サイズでは、こんな単行本も発売中です。
 
 小学館コロコロ文庫『藤子・F・不二雄 少年SF短編集』全2巻(小学館、1996年)。


 長々と書いてきましたが、『マツコ&有吉の怒り新党』で藤子・F・不二雄先生のSF短編が取り上げられたのをきっかけに、それらの作品を読んでみよう! もっと知ってみよう!と思ってくださる方が幾人かでも出てくれば、この企画にかかわった者として幸せに感じます。


●追記
「怒り新党」でSF短編が取り上げられた翌日(28日)という見事なタイミングで、SF短編を8作収録した単行本『藤子・F・不二雄 ビッグ作家 究極の短篇集』 (小学館) が発売されました。
 
 『ミノタウロスの皿』『権敷無妾付き』『やすらぎの館』『コロリころげた木の根っ子』など計8作が収録されています。


●さらに追記 
 いろいろな単行本を紹介しましたが、お薦めは藤子・F・不二雄大全集です。 
 藤子・F・不二雄大全集『SF・異色短編』全4巻と『少年SF短編』全3巻の合計7冊を揃えれば、番組中で夏目さんが言っていた「全111話」を読むことができるので、他の単行本は必要ありません。

 文庫版を紹介したのは、藤子・F・不二雄大全集に手を出すのはハードルが高いと思われた方のために「こんな本もありますよ」とお知らせしたのでして、オークションなどでこの文庫版を定価以上の価格で購入するのはお薦めできません。文庫版に高いお金を出すくらいなら、藤子・F・不二雄大全集を買ったほうが圧倒的に良いです。(文庫版の定価は、500円以上〜600円未満程度です)