情報の断片化とその政治性

nitarさんによる聴講メモ、東浩紀「ポストモダンと情報社会」2008年度第6回(11/14)より抜粋。斎藤純一さんの『公共性』を引用しながらの講義。

次のページに、世界喪失とは生命の配慮であるとかそういうことが書いてある

P48
 つまり近代の人間が「世界への配慮」の喪失と引き換えに手に入れたのは、
 厳密にいえば「自己への配慮」ではなく、万人にとって同一である「生命の配慮」なのである。

P49
 共通世界をめぐる言説の空間としての公共性からは、絶対的な真理は排されている

共通の世界について考えるのは、無限に続く議論空間
常に何かの異議申し立てが可能
別の見方を全部許容できる空間

僕はブログでよく叩かれている
雑誌をあまり読まないのでブログで批判されないと気付かない
『リアルのゆくえ』
南京大虐殺について僕はあると思っている
しかしあるという奴とないという奴がいてこれを調整するのは不可能
いくらでも理論武装することは可能
この世界で公共性を考えるなら、まずあるいう奴とないという奴がいるんだ、
ということからはじめないといけない
と書いたところ、案の定批判が来た

批判が来るに決まっている発言
まさにそのまんまの反応が来る
何故分かっているということを信頼できないのか

左翼系の公共性の議論は突飛に見える
しかし公共性の定義の通りやったらそうなる
絶対的な真理なんかない
討議は無限に開かれていないといけない
僕はそういうところが出自なのでよく知っている
そのまんま実現するなら、南京大虐殺はあるという奴とないという奴が要る、という包摂
しかし歴史的真実は一個である云々

僕の発言がどこから出てきているのか
デリダ
指導教官は高橋哲哉 『靖国問題』で有名
デリダを通ってしまうと、歴史的真実とか言えなくなる
言うということはデリダを裏切る
左翼とかポストモダニストが言っていたことはそういうこと
という文脈で話をしていたのだが、本では南京の部分だけが残された
それがネットにコピペ
ばーっと批判

様々な見方、無限の寛容を認める
テロリストを認めるということに近い
そういうことを言っている人間が、
右翼とか保守主義に対しては、ほとんど愚直に対して真理だと言う

これは非常に難しい問題
従軍慰安婦は、軍の命令なんかはなかったんじゃないか
南京大虐殺は、あっただろうけど規模は小さかったんじゃないか
全ては解釈ゲーム

先日安原さんのところからコピペしたり近隣でブクマされているのが目に触れたのかなあ、と思いながらヒトコト。解釈ゲームのはずが解釈になって日本軍司令官レベルが教科書につかって「日本は間違ったことはない」云々と軍隊を煽ったり、日本の(元)首相が「慰安婦はいなかった」と吼えてみたりしている現状で、それがまさに政治利用されている、という状況をある程度は尻拭いをする必要はあるのではないだろうか。わたしが仕事場のカフェでスリランカ人の給仕に「日本の首相が慰安婦いなかったていったんだって!」といわれるような状況は、そこにも連続しているとわたしは考えるのである。言説の自由を最大限ぎりぎりまでみとめたとしても、その「誤配」が誤配であることを発表してはいかがであろうか、と思う。それはたんなるノイズではない。誤配をわざわざ「有名な哲学者さんがこういっている」とすなおに受け止める人間もさくさんいるのである。「あえて」が通じない。一部ではあろうが、それを政治的に「あえて」利用する逆張りさえ見え隠れしている。飛躍するがこれは「日本語の亡び」にちらほらと見え隠れするエリーティズムの問題でもまさにあるのだったりする、とわたしは思っている。

『人間の条件』のアーレントの念頭にあるのは、 全体主義というよりも大衆社会・消費社会のコンフォーミズムである。

という上の同じ講義にある斎藤純一さんの『公共性』からの引用はまさにここに適用され考えられるべきことにほかならない、とわたしなぞは思ってしまうのだが。

公共性
・現われ→2chの名無しの話ではないか
・世界・複数意見→これもまた2chなのではないか
2chのネット右翼も許容しろという話
本質的な逆説がある

アーレント、斎藤純一の定義する公共性を定義を定義として真に受けると、彼らの想定しているのとは全く違うコミュニケーション空間が出てくる
もしかしたら公共性は定義できないのかもしれない
彼らが最も嫌いな空間こそがその特徴を備えているのかもしれない

というか、でてしまっている、というのがわたしの意見。コンフォーミズム。真に受け取るのはいいけれども、公共性は情報の断片化として現れた。その度合いはすさまじいのだから、それに対応すべき公共性を模索すべきではなかろうか。

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東さんの「信頼」ってなにかなあ、と思っていたのだが、これにたいする考え方はこのあたりかな。

世界は複雑であり、学問は専門領域に分割されていて、いちいち文脈を押さえないと議論に参加できないのではあまりに不自由で、したがってすべての反論可能性に開かれているブログはすばらしい場所です。しかし、やはりそれでも、コミュニケーションのコストを低くするためには、他人の主張を批判するときにはあるていど前提を読んでほしいと思います(それこそ信頼社会として?)。

たとえばぼくが「ナショナリズム」というときには、当然人文系のさまざまなナショナリズム批判を念頭に置いているし、それはぼくのプロフィールからも明らかなはずなので(といってもfinalventさんはぼくのプロフはご存知なかったようだけど)、その意味で読んでほしいです(ちなみに、そこらへんさらいたいかたには大澤真幸の大著『ナショナリズムの由来』をお勧めします。その補論3が強制収容所論です。そこでは人間の定義の境界についても書かれています)。また「動物」という言葉も、ハイデガーの(というよりもデリダが読んだハイデガーの)「動物」だとか、アーレントの「人間の条件」だとか、そういう文脈のうえで使っています。アウシュヴィッツとネイションの繋がりとか、公共性と「人間」の定義だとか、そういう話はべつに俺流理解でやっているのではなくて、少なくともそういう議論がされている場はあるのです。

さらに付け加えれば、「信頼」は英語の「trust」で、こちらは微妙にフランシス・フクヤマなんかを意識しています。『人間の終わり』を読めばわかりますが、フクヤマの議論でも信頼と人間の定義(というかヘーゲル的「歴史」の定義)は密接に繋がっています(ところで肝心の宮台さんはルーマン的な意味で「信頼」を使っているはずでそれならむしろナショナリズムには繋がらないと思うのですが――といってもぼくはルーマンは詳しくないのですが――、最近の宮台さんの議論ではそこが短絡されているような気がしていて、そこもぼくのエントリのひとつのコンテクストを形成しています)。あと、信頼という言葉を使っていたかどうか記憶にないですが、信頼の論理が信頼できる人間と信頼できない人間を峻別しないと成立しないことは、ロールズが『万民の法』でリベラルにつきあえる国家とそうでない国家を分けざるをえなかったことにも現れていると思います。
http://www.hirokiazuma.com/archives/000395.html