唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

唐沢俊一は自分をオタクだと思っていない。

 「唐沢俊一検証blog」をやっているうちに「唐沢俊一はオタクではないのでは?」と思うようになってきた。なぜなら、唐沢は『機動戦士ガンダム』と『新世紀エヴァンゲリオン』を批判し、『宇宙戦艦ヤマト』のファンでなく(詳しくは2008年10月28日の記事を参照)、『ゴジラ』と『ルパン三世カリオストロの城』のストーリーを理解できていないのだ(詳しくは2008年11月6日と12月20日の記事を参照)。さらに過去には『ウルトラマン』を批判していたこともある(詳しくは2008年11月19日の記事を参照)。…こうなってくると、日本のオタク文化の根幹を成す作品をことごとく否定しているか、まるで理解できていないわけで、唐沢俊一が何をもって自分をオタクであるとしているのかわからなくなってしまったのである。ちなみに、『エヴァ』について唐沢俊一は『実録!サイコさんからの手紙』(宝島社)収録のコラムでこのように書いている。

なにしろ「キチガイアニメ」という肩書がアニメファンの間で通り相場になったようなアニメである。

 そうなんだろうか。少なくとも自分が『エヴァ』を好きなのはそんな理由じゃないんだけど。「鬼畜」なら「キチガイアニメ」を擁護すればいいのに(なお、『サイコさん』収録のコラムでは伊藤剛さんとのニフティ会議室でのやりとりを紹介しているが、自分には単に噛みあわないやりとりとしか見えない。話の合わない相手を「サイコさん」にしてしまえばラクなんだろうけど)。
 

 さて、岡田斗司夫『オタクはすでに死んでいる』(新潮新書)を検証しようと思い立って、「そういえば『オタク対談』でも「オタクは死んだ」とか言ってたっけ」と思い出して、『オタク論!』(創出版)を読み返していたら、唐沢俊一が「自分はオタクではない」と発言していたのでビックリしてしまった。どうして今まで見逃していたんだろう。というわけで、今回は『オタク論!』から唐沢の問題発言も収録されている「オタクは死んだ、のか?」(P.188〜199)を取り上げてみる。実はこの回の対談も相当おかしな内容なのである。

岡田 あのイベント(引用者註 「オタク・イズ・デッド」)後にブログに氾濫した感想を読むとうまく伝わっていないようなんですけど、僕は「最近の若いオタクはダメだ」という世代論を語ったんじゃないです。自分たち自身の中で起きている変化として捉えたかったんですよ。「オタクは死んだ」と言うからには、僕も唐沢さんも死んでいるはずなんです。お前らはもうダメだ、ではなくて、死んだんだからさっさと認めて葬式を出して、身軽になって明日から楽しく生きていこうよ、と言いたかった。

 
 詳しくは『オタクはすでに死んでいる』の検証をするときに書くが、「うまく伝わっていない」のは岡田氏が「うまく説明できていない」もしくは「誤った考え方をしている」からである。なんで受け手に問題があるかのような書き方をするの?それにどうしてオタクが身軽になる必要があるのかわからない。ほとんどのオタクは今でも気軽に楽しく趣味に生きていると思うけど。

岡田 このイベントで僕が言いたかった問題の本質は、「オタク共通の誇りや、共通の文化のようなものがなくなってきている」ということです。
 僕の住んでいた大阪には、在日朝鮮人がたくさんいます。彼らは子どもや孫に自分たちの文化を一生懸命に教えます。子どもを朝鮮学校に生かせたり、チマチョゴリを着せたり、ご飯もみんなと違うものを食べたりする。自分たちは朝鮮人だというアイデンティティを、行動やプライドでようやく保っているわけです。
 それから、コーラを飲んでTシャツを着ているネイティブ・アメリカンは、インディアンの血を継承している子孫かもしれないけど、いまもインディアンであるとは言えないですよね。
 これと同じことがオタクにも言えると思うんです。『オタク学入門』でも書いたんですが、オタクには色々なジャンルがあって、その全てを分かっていないといけないんじゃないかという義務感を持っているのがオタクだと思うんです。例えば、僕は唐沢さんの好きな「古書」というのは正直分からないんですが、だったら唐沢さんに聞けばいい。また唐沢さんは僕ほどプラモデルを好きじゃなくても、分からないからいいやではなく、時間があれば分かろうとしますよね。この感覚が急激になくなってきているんです。若い人の間だけではなくて、僕らの間でもなくなってきていると思います。
(中略)
岡田は萌えを分かってない、と言われても、萌えなんてわからなくていいもん、と思ってしまうんですよ。前は分かってなくてはいけないと思っていたのに、それが喪失されてきたことが、オタク文化がなくなってきた、オタクは死んじゃったなと思うところなんです。

…なんというか、保守派の雑誌でよく読む話だなあ。「オタク」を「日本人」と置き換えたらそのまんまだ。…しかし、なんで「ネイティブ・アメリカン」なの?「コーラを飲んでTシャツを着ている日本人は…」とすればいいじゃん。まあ、だいぶ前に小林よしのりが「欧米のライフスタイルで生きている日本人って一体なんなの?」と問題提起してるんだけど(結局、小林よしのりは良くも悪くもその問題をずっと追求し続けているわけだ)。保守派の人は「日本人共通の誇りや、共通の文化」を守れと言うけど、岡田氏はそれをオタクにあてはめているわけだ。…というか、「オタク共通の誇りや、共通の文化」って本当にあるのかどうか怪しいものだが。
 それに「オタクには色々なジャンルがあって、その全てを分かっていないといけないんじゃないかという義務感を持っているのがオタクだと思うんです」という定義もわからない。いろんなジャンルに興味を持つかどうかは人によるとしか言えないのではないかと思うし、岡田氏の論法だとひとつのジャンルを極めることだけを考えて他のジャンルに脇目も振らない人はオタクじゃなくなってしまう。岡田氏はともかく唐沢俊一がプラモデルのことを分かろうとしているとは思えないしなあ。…この定義は今のオタクを批判しようとして編み出されたものなのではないか?と邪推したくなってしまう。
 そして、岡田氏が「萌え」を分からなくていい、と考えるようになったのは、単純に岡田氏が歳をとったせいである。ほとんどの人間は年齢を重ねると流行を追っていかなくなる、それだけの話であって、「オタクの死」を意味するものでもなんでもない。…まあ、分からなくていい、と思っているのに『オタクはすでに死んでいる』で「萌え」を考察しているから大変なことになっているんだが。続いては唐沢俊一の発言。

唐沢 オタクという人たちが死んだというより、オタクというくくりが死んだということですよね。これまではオタクの基礎教養として古いアニメからちゃんと見ていたので、世代が違ってもなんとか話ができたんです。でも今は、放送されているアニメを24時間追いかけるので精一杯でしょう。年寄りが子どもに、またその子どもが親になって子どもに語り伝えて形作られてきたような文化が、危機に瀕している。これはオタクに限らず、日本人のアイデンティティの危機だと思いますよ。これだけグローバルな世の中になると、一体どこで自分たちのアイデンティティを保てばいいのか、と。

 岡田氏に比べると唐沢俊一の話はまだマトモ(!)である。岡田斗司夫、どんだけヒドいんだって話だが。でも、今だって世代が違っても話はできると思うけど。むしろ、今の方がソフトやCSが充実していて古いアニメを見やすいかもしれない。『ガンダム』の本放送以降に生まれたのに『ガンダム』に詳しい人はいくらでもいるだろう。…しかし、岡田氏だけでなく唐沢も妙に「保守」的だなあ。「オタクと保守は親和性がある」と言ったのは大月隆寛だったっけ。

唐沢 僕は「自分は実はオタクではない」というコンプレックスを持った人間でもあるんですが、それなのになぜ岡田さんや眠田直さんとともに「オタクアミーゴス」を名乗ったり、オタク文化の担い手みたいなスタンスを取ったかというと、昭和33年生まれというのは、戦争も体験していなければ、飢餓も学生運動も体験していない。それではどこにアイデンティティを求めたらいいのかというと、僕らが共通に経験した高度経済成長の文化、中でも子ども文化が世代のアイデンティティになるんじゃないのかと思ったわけです。

 はい、問題発言きました。…そりゃあコンプレックスもあるでしょう。これまで検証している限り、唐沢がまっとうなオタクだとは思えないもの。加えて問題なのは、唐沢俊一が自分の意見を通すために「オタク」を名乗っていたということである。戦略的に振る舞ったのか、商業的にメリットがあったのか。それにしても、唐沢の「世代のアイデンティティ」って上の世代も下の世代も否定する効果しかもたらしていないような気が。同年代の方々のためになっているのかどうか。再び岡田斗司夫の発言。

岡田 今のオタクは文化的なアイデンティティではなく、個人のアイデンティティが大事なんですよね。だから自分が好きなものに関して、これは勉強しないといけない、という考えではなくて、僕は僕のままでいいんだ、だってオタクなんだもん、と個人の脆弱なアイデンティティを補完するものになってしまっているんです。
(中略)
今の若いオタクの人たちというのは自分がオタクであることが、自分のアイデンティティとイコールなんです。
 僕や唐沢さんは、オタクである部分を抜いても、「あ、これ好きだ」ということを平気で言えるし、こんなもの好きじゃないと言われても割と平気なんですけど、オタクをアイデンティティにしている人は、自分が好きなオタク作品を否定されるとヨタヨタになってしまうんですね。個人というのは一人一人の差のことをいうわけですから、となると共通文化を持てるはずがない。では何が残るかというと、同族同士の果てしない抗争ですね。お前にはこれが分からないから違うとか、お前は年齢が離れているから違うとか、バベルの塔が崩壊して、言葉が違っている者同士の間には喧嘩しか残らないんですよ。それがオタク文化が沈没している最後の様相だと思います。

…「唐沢俊一検証blog」として『オタク対談』を取り上げるときに困惑することがあって、それは「唐沢俊一より岡田斗司夫の方がおかしい場合がある」ということである。誤った理屈を編み出す能力は唐沢より岡田氏の方が高いかもなあ。「岡田斗司夫検証blog」もやらなきゃダメなのかい?
 まあ、それにしてもこの発言はヒドい。まず、自分の好きなジャンルについて勉強するかどうかは、これも人によるとしか言えない。岡田氏のまわりの若いオタクがどうかはわからないけどね。っていうか、「個人の脆弱なアイデンティティ」とか言っておきながら「「最近の若いオタクはダメだ」という世代論を語ったんじゃないです」ってよく言えるなあ。
 それに「僕や唐沢さんは、オタクである部分を抜いても」という部分からは、唐沢俊一だけでなく岡田氏も「自分は実はオタクではない」と思っているとも受け取れてしまう。現にダイエットとかしてオタク業界から離れつつあるようだけど。ヨタヨタになってるのは誰なんだろう。
 面白いのは「お前にはこれが分からないから違うとか、お前は年齢が離れているから違うとか」という部分で、岡田氏は実際のところ「萌え」がわからないこと、若いオタクとのジェネレーション・ギャップを相当気にしているんだなあ、というのがわかってしまう(オタクの集まりで岡田氏が「萌えが分からない」と発言したところ「信じられない!」と周囲から口々に言われたらしい)。まあ、岡田氏が「お前にはこれが分からないから違う」と今までに言ったことがないのか気になるところだし、「ぴあ」の「ガンダム論争」を見る限り昔だって話の通じない人はいたんだけど。昔をやたら美化するのはどうだろう。細かいことだが、言葉が違ってしまうと「お前にはこれが分からないから違う」と口げんかすることもできなくなると思う。再び唐沢俊一の発言。

唐沢 オタクとSFは重なる部分があると思うんだけれども、それぞれが「これは違う、あれは違う」と言って衰亡していったというのを我々は見ているはずなんだけどね(笑)。
 僕たち、特に僕は、団塊の世代のように強迫観念的に国家を否定しなければならないという世代と、それより下の強迫的にオタクであらねばならないとか、個人の自我を確率しなければならないという世代に挟まれたエアポケット的な世代で、本当に“おいしいとこ取り”だったと思いますよ。
 逆に言うとオタクというくくりを作って、その中の広報や宣伝で矢面にたって、アカデミズム系の人たちのオタクに対する誤解や批判に抵抗してきたというのは、あまりにその狭間で好き勝手な人生を送ってきたことに対する責務感でもあるんです。

 責務感があるのなら盗用なんかするなよ。盗用のせいで「オタク第一世代」や「と学会」のイメージがどれだけ悪くなったことか。アカデミズム系の人たちに抵抗してきたというのなら、東浩紀にももっとちゃんとした批判をやってほしかった(詳しくは2月5日の記事を参照)。責務感など抱かずにどうぞ好き勝手なことだけしてくれればいいと思うんだけど。あ、もちろん盗用はしちゃダメだよ。

唐沢 前に、ある一世代下のノイズ好きのライターから、「なぜ岡田さんの“ロケット”というのはオタクとしてのアイデンティティになり得て、僕の世代が“ノイズ”というのをアイデンティティにしてはいけないんですか」と訊かれたことがあるんです。そのとき言ったのは、ノイズというのは頭で理解するものだけど、ロケットがカッコいいというのは身に付けた教養や知識ではなく、子どもの頃に面白い、カッコいいと感じた情動から来ているものだ、ということでした。
 たとえばアポロを見た同じ世代は同じものでバーッと洗礼を受けちゃったわけですよ。大人になってから、アニメという中心に付随する形で、歌舞伎や中世の歴史がどうだという知識がついてくるかもしれないが、それは共通認識足り得ない、ばらばらのものになってしまう。そのように答えたんです。
 ところが僕たちより下の人間、つまり後からオタクになった者たちというのは、「オタク足るべき」というのがまず先にあって、それならばアニメを見なくてはいけないだろう、という後付けの強迫観念で見ている人たちが大部分。アニメを見ている分量がいくら多くても、それは個々の人間の解釈に最終的に収斂してしまうわけで、全体的なオタクというククリにはなり得ないんじゃないかと思うんですよね。「個人でなければならない」「“何々の一員”ではありたくない」という戦後の教育が出てしまうんですよ。

…もうなんというのかなあ。どうして岡田・唐沢は「俺らの世代は他の世代とは違うんだぜ」アピールが激しいんだろう。ものすごい「強迫観念」を感じる。
 いや、唐沢より下の世代のオタクだって取り立てて「オタク足るべき」と考えているわけじゃないし、強迫観念でアニメを見ているわけじゃないだろう。自分のことを例に出すと、自分は物心がつく前から特撮番組が大好きで、それこそ「情動」でオタクになったようなものだ。今も昔もオタクになるきっかけというのはだいたい「情動」によるものではないだろうか?(ノイズミュージックに「情動」を感じることもあると思うが) それに今だって単純に「見たい」から特撮やアニメを見ているのであって「見なければならない」と思っているわけではない。普通の人から見ればものすごい量かもしれないが、好きだから、楽しいからこそ見られてしまうのだ。もしかすると、唐沢俊一は過去に「強迫観念」でなんらかのジャンルをお勉強したことがあるのかもしれない。だから、他人も「強迫観念」でアニメを見ていると考えてしまっているのだろうか。みんな好きでやっているだけなんだけどね。そして、好きで楽しくやっているうちにそのジャンルに携わる「流れ」へと参加していくようになるのである。どうしてそれを躍起になって否定するのかさっぱりわからない。…それにしても、岡田氏は現在の若いオタクは「これは勉強しないといけない、という考え」ではないと言っているのに、唐沢俊一は「後付けの強迫観念で見ている」と言っていて、それって真逆じゃないか!?と驚いてしまう。なにがなんでも若いオタクのことを否定したいのか、二人とも相手の話をちゃんと聞いてないのか。

岡田 もう一つは、エリートの戦闘機パイロットが、「日本とアメリカが戦争になっても、東京は爆撃できない」と言うんです。練馬にはアニメスタジオがある。東京のどこかには氷川神社がある。そんな国を大統領の命令とは言え破壊できない。もちろん自分はアメリカという国に絶対の忠誠を誓っているし、何よりもアメリカ人の男でありたいと子どもの頃から思っていたんだけど、日本を爆撃することはできない。
 これを聞いたときに、「オタクは民族なんだ!」と思ったんです。

 紀田順一郎氏がよく書いているセルゲイ・エリセーエフが神保町への爆撃を防いだとされるエピソードにそっくりだ。古本好きも民族なんだろうか。というか、唐沢俊一はなぜこのエピソードに触れない?

唐沢 ところで、今、この民族を研究する民俗学とか文化人類学という学問は本当に人気がないんですよね。我々が大きな文化の流れの中に生かされているという感覚を若い人は嫌うんですよ。僕は僕でありたい、というのがあって。「たったひとつの小さな花」ですよね。だからオタクというくくりの中で、「同じオタクじゃないか」とは言いたくない。オタクだけど俺とお前とはこんなに違うという独自性を尊びたい。岡田さんのように個性の強い人や「と学会」の人のように、何かの分野でアイデンティティを形作れている人は突出している。でもほとんどの人はそこまでのオタクにはなりきれないでしょう。
 結局「自分はここが違う、そこが違う」と、同じカッコの中で、ギリギリのところで綱にしがみついている自分という自我が見えてしようがない。ネットの世界ではものすごい反動が来ているじゃないですか。自分の好きなものでまとまろうとしてもまとまれないから、何かが嫌いだというところは共通だろうということで、共通の敵を作ってまとまっている。例えば『マンガ嫌韓流』(山野車輪著)などはいい例ですよね。

 数年前、自分は大学で民俗学の授業をとったこともあるが、授業はいつも盛況で民俗学の人気がないとは感じなかった。仮に民俗学や文化人類学が人気がなかったとしても、それは「僕は僕でありたい」という気持ちとはまるで関係ないと思うんだが。しかし、岡田・唐沢の方が「自分はここが違う、そこが違う」とつまんないどうでもいいことを言い立てているようにしか思えない。外野から見れば若かろうと歳をとってようとオタクはオタクだよ。

唐沢 中国の歴史書で『蜀碧』という本があるんですが、蜀の国を黄献中という盗賊が一時期乗っ取った話なんです。普通は国を乗っ取ると、その国には善政を敷いて、国民に信頼されたところでよその国を侵略するんだけど、この黄献中がユニークなのは蜀の国の人間を殺して殺して殺し尽くすんです。他の国の人間に自分の国の人間を殺されるのなら、自分が殺してしまおうと。これを初めて読んだときに思い出したのが古いSFファンのことで(笑)、何かを徹底して好きだというときに、破壊衝動が生まれるわけですよ。
 SFファンやミステリーファンの濃い人たちによくいますが、とにかくこれもダメあれもダメだと否定して、一体なぜお前はSFファンになったのかと聞きたくなるまでに何でもかんでも否定する人がいるんです。どんなに好きな分野でも、そこがいかにダメかということを滔々と語るんです。自分の好きなジャンルを否定して、なんでそんなに楽しそうなの、と思うんだけど、そういう人のサイトやブログを見ていると、蜀碧の黄献中を思い出してしまうんですよね。

 「愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記」ですでに指摘されているが、『蜀碧』に登場する盗賊は「張献忠」である。それから「何でもかんでも否定する人」って「ガンダム論争」の時の唐沢俊一のことだよね。確かに『ガンダム』とファンを批判する唐沢は実に楽しそうであった。いや、検証しながら「この人は何が好きなんだ?」って困ってしまったからなあ。「本当にアニメや特撮が好きなわけじゃないのでは?」と思ったけど。

唐沢 開田裕治さんなんかは、たとえ自分の中ではあまり気にくわないような作品であっても、それが特撮である、怪獣映画であるというくくりがあると、まずけなしません。ある程度名前のある人が特定の作品をけなすと、それがその分野全体の沈滞につながってしまうから。それは古くから特撮という世界に関わってきたファンの義務、というふうに思っている。それが今の若い人たちにはない。ガメラだろうとなんだろうととにかくけなしまくって、それでアイデンティティを保っていますね。
 日本人ひとりひとり、自分が自分だと言えるほどみんなアイデンティティは強くない。自分は自分だと言えと焚き付けているアーティストや文化人というのは「自我肥大者」という奇形児なんです。そういう人たちに焚き付けられて、個性や才能、知性、教養、経験というのがない人間たちが「自分が自分が」と言ってしまったらどうなるか。アニメとかマンガに熱中できるのは若い時代ですから、彼らが40歳になってアニメを見続けられなくなった時に、ふと、それに代わるアイデンティティを満たせるかというと、すごい空虚感、自己喪失感に苛まれるんじゃないかと思うんです。そういうふうに人のアイデンティティのことを心配すると「唐沢なんかが考える問題じゃないだろう」と言われるんですが、考えざるを得ないですね。国家とか社会とか、オタクではとても背負いきれなくなったアイデンティティをどこに着地させるのか。

 開田氏のような立場を良しとするかどうかは考えが分かれるところだろう。やはり批判すべき点はきちんと批判すべきだ、とも考えられるのだから。まあ、唐沢俊一は「特定の作品」をけなしまくっているけど、「その分野全体の沈滞につながって」ないから別にいいのかな。
 それにそこまで他人のアイデンティティを気にする唐沢俊一こそ「自我肥大者」だろう。岡田氏もそうだけど、自分が何者であるかに不安があるから、他人のことを過剰に心配したり批判したりするのではないか。この対談当時、50歳を目前にしていた2人が「自分」をそんなに気にしているというのがなんとも。自分探しは人生の早い時期に済ませておこう。一般ピープルはそこまでアイデンティティのことなんか気にしてないから大丈夫だよ。まさしく「唐沢なんかが考える問題じゃないだろう」。まず自分のことをしっかりしてほしい。

岡田 僕は「オタク・イズ・デッド」というイベントをやっていて、それがお葬式であると同時に「よかったね」という話にしたかったんです。オタクが文化的なアイデンティティでなくなり、個人的アイデンティティになっているわけだから、誰もオタクを代表することはできない。
 オタキングなんかいらないし、本田透君であろうと、東(浩紀)さんであろうと、オタクを代表できないんですね。代表している人との差ばかり気になってしまうからです。オタク文化人のような人がエクスキューズしても、「だからこれはいいんだ」「そうだそうだ!」というアイデンティティをもう持てないわけですね。だったら個人個人が「僕はこれが好きです」と言うしかないんですよ。

 結局、そういう話になるのか。「オタキングは俺一代限り」宣言というか。まあ、本田透も東浩紀も「オタクの代表者」と呼ばれたくはないと思うけど。なんで、そんなに「オタクの代表」にこだわるのかなあ。残念なお知らせだけど、自分は岡田氏や唐沢俊一は「オタクとして有名な人」であっても、「オタクの代表」だと思ったことは一度もないし、岡田氏や唐沢の話も「そういう考え方もありますかねえ」程度に考えている。岡田氏や唐沢にはもはやオタクへの影響力はさほどないのだから、「オタクの代表」についてそんなに気にしなくてもいいと思う。個人個人が「僕はこれが好きです」と言っていくのは、今も昔もオタクの基本スタイルだし、そのことはそんなに悲観すべきことでもないだろう。…岡田氏の話でいつもひっかかるのは「誰かがオタクを代表しなくちゃいけない」「オタクはまとまっていないといけない」という強い思い込みがあることだ。それらの「思い込み」については『オタクはすでに死んでいる』の検証で深く考えてみたいと思う。

唐沢 ただ、「みうらじゅん」という個人で引き受けてしまうと、彼の欠点は大きなことが言えない。あくまでも「マイブーム」なんです。「マイ」というマイナーな分野で食っているから、それは、みうらじゅんが言ってることであって、世代なり国家なり地域なりという何者も代表できない。あれはあれで自分を鎖で縛ってしまったわけですよ。「マイ」という言葉で。
 僕はもう少し高所に立った見解・見地を言いたいなと思うので、みうらじゅん的なマイブームではなくて、自分の好きなものを語るときにもそこに共通項や文化的な必要性を語りたい。そこがみうらじゅんと唐沢俊一の完全に違うところであり、すごく似ているようであり相容れないところでしょうね。全く同じ世代で、同じようなものを見て育ってるんですけど、彼とは話が合わないんですよ。

 このくだりはものすごく面白い。だって、高所に立って客観的なことを言おうとしている唐沢俊一よりも、「マイブーム」として自分自身を追求しているみうらじゅんの方がはるかに普遍性のある意見を言っていて、世間に受け入れられているのだから。もちろん、みうらじゅんの「マイブーム」全てが受け入れられているわけではない。しかし、みうらじゅんには「自分はこれが好きだ」という確信があって、その確信が時には「マイブーム」を本当の「ブーム」へと変化させていくのだと思う。ケンドーコバヤシのおかげで越中詩郎がブレイクしたのも似たようなものかな。岡田氏も唐沢も「自分はこれが好きだ」という確信が決定的に欠けているから、若いオタクに対して余計なことを言いたくなるんじゃないか?確信さえあれば他人のことなんか気にならないはずだよ。まあ、みうらじゅんやケンコバと比較した場合、単純に才能の有無の問題なのかも知れない。能力のない人間が高所に立ったところで転げ落ちて大怪我するだけだ。


…ツッコミどころが多すぎて、またしても長文になってしまった。今回の記事で大事なのは、唐沢俊一が「自分は実はオタクではない」と思っていたことである。じゃあ、どうしてオタクじゃないのにオタクの代表者を名乗ったのか、いつからオタクを名乗りだしたのか、などなど、いろいろと気になることが出てきた。たしかに、唐沢俊一はデビュー当時からオタクを名乗っていたわけではないのだ。やっぱり「オタクアミーゴス」あたりからか?岡田斗司夫については『オタクはすでに死んでいる』の検証でより深く突っ込んでいきたいと思っている。この人もかなりの面白物件だったんだなあ。
 それにしても、この2人が「オタクの第一人者」としてメディアに登場しているというのはどうにもおかしなことである。なぜそういう事態になっているのか、そのことも今後考えていかなければなるまい。…ガラでもなくマジメにさせられてしまう対談であった。

オタク論!

オタク論!

オタクはすでに死んでいる (新潮新書)

オタクはすでに死んでいる (新潮新書)

蜀碧・嘉定屠城紀略・揚州十日記  (東洋文庫 (36))

蜀碧・嘉定屠城紀略・揚州十日記  (東洋文庫 (36))

マイブームの魂 (角川文庫)

マイブームの魂 (角川文庫)

やってやるって!!

やってやるって!!