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長期連載が迎える「有終の美」を、『バクマン。』は飾ったか?

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 今週のジャンプの『めだかボックス』は意表を突くものでした。
 負ける要素がまるでないキャラ(安心院)が戦ったところで、「キャラ立ちのしていない新キャラを噛ませ犬に勝っても」しょっぱいし、逆に「新キャラの噛ませ犬になっても」しょっぱいこと確定なんですが……、竹熊健太郎さんの言う、「しょっぱい展開でも都庁や五万人のモブを本当に描けば許される」を地で行ったような趣きですね。

そうですね、どうにもならなかったら、「マンガだからなんでもできる男」の次の敵をですね、東京都庁を取り囲む武田の騎馬武者軍団十万騎とかにしなさい。東京都庁はお前、アシスタント殺しと言われているんだぞ。あの何千何万という角度が微妙に異なった窓ガラスに夕日を受けて映りこむ騎馬武者十万騎。こいつと戦わせるんだ! もちろんノーCGで。

夢オチはなぜ悪いのか?(1): たけくまメモ

創業と守勢、有終の美

 さて、それよりも『バクマン。』最終回の話なんですが、中国古典のひとつに『貞観政要』という、政治の要点を説いた書物があります。


 国家や組織を樹立する「創業」と、その体制を維持存続する「守勢」とではいずれが難しいのか? という問いから始まり、ひとつの目標(ビジョン)に向かってがむしゃらに戦え抜けばいいだけの「創業」に比べれば、配慮すべき事柄がはるかに多い「守勢」の方がよほど困難である……という観点で、「事業を維持する方法論」をまとめたものです。


 この『貞観政要』、日本では徳川家康がバイブルとしたことでも知られ、その考え方が江戸幕府250年の平和にも繋がったと思えば、プラグマティズムな現実性の高さが窺えるでしょう。
 簡単に学べるところでは、山本七平さんの『帝王学』という本が良い参考になりますね。


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 ここでいう「創業」を漫画の連載に置き換えると、以前このブログで書いた「連載を軌道に載せる」フェーズに当てはまると言えるでしょう。


 そして連載が軌道に載ってしまえば、あとは読者からの支持を固める「守勢」のフェーズに入ると言えます。
 がむしゃらに頑張るのではなく、様々な気配りや目配りや、変化に対応する機微が必要になってくる段階です。


 では、この「守勢」にも成功し、長く支持を受けた長期連載を、終わらせる場合はどうすればいいのか?
 『貞観政要』の論じるところでも、あらゆる事業には「終わり」があることを踏まえ、「有終の美を飾る」ことの大事さが説かれています。


 立つ鳥、跡を濁さず。
 今回のエントリでは、長期連載における「有終の美」を、大場つぐみ原作作品を参考にして考えてみたいと思います。

ライバル劇の『リバーシ』、群像劇の『バクマン。』と『HUNTERXHUNTER』

 まず『バクマン。』最終回に関しては、前作『DEATH NOTE』と劇中作『リバーシ』との対照で見ることができます。


 そもそも『リバーシ』はなぜ長期連載化を拒み、「長期化しなかったからこそ傑作となった」というロジックを与えられているのか?


 前作『DEATH NOTE』は「キラとLの宿命の対決」という、「メインテーマ」に決着を付けてもなお終止符を打たず、「第二部」まで続いた作品です。「ライバル対決」に物語の焦点を絞れなかった結果、この「第二部」に批判が集まりもしました。
 あたかもその反省のように、「宿命の対決にテーマを絞って完結させたのが良かった」という根拠が『リバーシ』には与えられ、「ジャンプ史に残る傑作」という扱いを正当化させています。


 要するに『リバーシ』は、「本来なら大場・小畑コンビが傑作にしていたはずの『DEATH NOTE』」なんです。
 もちろん『DEATH NOTE』もジャンプ史に残るヒット作でしょう。しかし大場つぐみが『リバーシ』に仮託しているのは「ケチのつけようのない傑作」であって、例えば「第二部は蛇足だった」と読者から批判されるようなケースではなく、「誰もが納得する傑作」なんです。
 そんな作品として、「有終の美」を飾った名作として、劇中で『リバーシ』は評価されています。


 そして『バクマン。』の終わらせ方自体が、この『リバーシ』と重ねられていると言ってもいいでしょう。
 「メインテーマに絞って完結させた」という点で、『リバーシ』と同じ根拠や正当さを与えたいようにも感じます。
 確かに『バクマン。』という物語は、主人公がヒロインとの結婚を目指す「青春ドラマ」であって、その意味ではメインテーマを貫いたと言うことはできるでしょう。


 しかしメインキャラクターが少なそうな『リバーシ』に対して、『バクマン。』は群像劇の趣があって、──最近では『HUNTERXHUNTER』が「父親との再開」をそんな風に片付けていたように──、「メインテーマの決着」はあくまで過程、とりあえずのオチ、という程度に価値を下げた方が「作品の性質に相応しい」のではないか……と考えることもできます。

傑作を生む条件のひとつ、「最初から読み返す」

 まとめると、『バクマン。』のラストエピソードを飾った『リバーシ』の終わらせ方とは、『DEATH NOTE』第二部に対する大場つぐみの「愚痴」にも近いと思います。
 そして勘ぐって言ってしまうなら、『バクマン。』最終回に対する「弁明」にもなっている気がします。──『リバーシ』と同じように、蛇足を作らなかったからこのラストでいいんだ、という。


 ところで、それこそ「漫画史に残る傑作」と呼ばれるほどの作品の最終回には、いくつか成功則のようなものがあります。
 まずそもそもの話として、週刊漫画家というものは、自分が描いた話をあまり読み返さない(そんなヒマもない)ようなのですが、だからこそ、「最初から読み返す」という作業によって優れたラストエピソードが生み出されてきたようです。

『あしたのジョー』を傑作に変えた「連載の読み返し」

 『あしたのジョー』の場合は「最終回のアイディアが浮かばないちばてつやに代わって、編集者が『あしたのジョー』を最初から読み返した」というエピソードが伝えられています。


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 大事なポイントは、ちばてつや本人さえ忘れていた描写(=カーロス戦のあとの紀子とジョーの会話)が、その行為によって見事に掘り返されたということ。


 『あしたのジョー』はこの編集者によるアシストがあったからこそ、「真っ白に燃え尽きる」という、さりげない作中の台詞を、物語を締めくくる「テーマ」にまで押し上げることができたわけです。
 同じように、『うしおととら』の藤田和日郎も、物語の最終決戦を描く直前まで友達に電話をかけまくって、「何か伏線はないか?」と訊いてまわっていたそうです。*1

大場つぐみも『バクマン。』を最初から読み返したのだろうか? - ピアノ・ファイア


 作者の想像を超えるレベルのラスト、作品のポテンシャルを100%以上に引き出した結末、というのは、こうした第三者の目線や、視野の広い目によって授けられるのかもしれません。


 劇中で『あしたのジョー』へのリスペクトを隠さない『バクマン。』ですが、では大場つぐみも、最終回の前に「最初から読み返す」という作業をした(あるいは、誰かにさせた)のでしょうか?


 さっき引用したエントリは、『バクマン。』で描かれた「一話完結じゃない一話完結」というテクニックに対して、「おそらく『あしたのジョー』の逸話から得た着想でしょうね」と推測したものでしたが、同じように、『あしたのジョー』のラストを大場つぐみが意識しなかったはずはない、と思います。


 しかし、『バクマン。』が選んだメインテーマと、『あしたのジョー』が選んだメインテーマには明確な違いがあります。
 異なる作品同士を比較するというのも、礼を欠く話だとは思いますが、あくまで後学のためという名目で、「何が違うのか」ということを踏み込んで考えてみましょう。

1巻だけ振り返る『バクマン。』と14巻まで振り返る『あしたのジョー』

 一言で片付けてしまえば、『バクマン。』の最終話は1巻あたりのエピソードを読み返すことで描くことのできる内容です。
 一方、『あしたのジョー』は全20巻中の14巻まで読み返さないと出てこない、なんてことのない会話を拾っていたわけで、その点が『バクマン。』と大きく異なるのです。


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 『あしたのジョー』も、1巻あたりのメインテーマで終わらせたら「丹下との師弟の絆」でENDですからね。
 元々、『週刊少年マガジン』の編集者が梶原一騎と打ち合わせた作品のテーマは「師弟愛」だったそうですから。


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 実際、ちばてつやが考えたラストではなく、梶原一騎が最初に提出したラストは「丹下がジョーの勝利を認めて終わり」という、師弟関係に基づくものでした。


 しかし誰もが認めるように、『あしたのジョー』は「力石」が登場して「力石の死」を描いてからというもの、この師弟愛がサブテーマに下降し、「ジョーにとっての力石」がメインテーマに上昇しました。
 作品のテーマが途中で変わった『あしたのジョー』のメカニズムについては、島本和彦が独自の解釈で、詳しく解説されています。


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 ジョーが固執した「真っ白に燃え尽きる」という生き方も、その根底には「力石の死」が埋め込まれているわけです。


 『バクマン。』にも、ヒロインとの結婚がサブテーマに下降した(と読者が思い込む)フェーズがどこかにありました。
 その時点で『バクマン。』は、「運命の恋愛」を描く青春ドラマではなく、群像的な青春ドラマに変質し、だからこそ『リバーシ』でいう「宿命の対決にテーマを絞る」という方法論が当てはまらない(=運命の恋愛にテーマを絞っても同じ効果は得られない)連載になったわけです。


 例えば、サイコーが高校の同窓会に出たときや、後輩の漫画家と語り合ったときに描かれた、「最初は個人的な夢のためだったし、特に自己表現をしたいタイプでもないし、それでもシュージンと人気の出る作品を描くことにはやり甲斐を感じる」という感情はメインテーマになりうる重みを持っていました。
 もしそれすらもサブテーマに過ぎないとしたら、この先のサイコーは、エイジと競わずに「そこそこ売れる連載」を描き続けていればいい、という「ヒロインが最優先」のキャラクターになってしまうでしょうね。

メインテーマを探す試み

 では、真にメインテーマとして妥当なのは何か? と考えてみると、後出しジャンケンになってしまって、何を書いても愚考ではありますが……。
 強いて言うならば、サイコーとシュージンとの絆であり、更には「亜城木夢叶」というペンネームに込められた想い、が有力ではないでしょうか。


 ライバルとしての新妻エイジは? という意見もあるでしょうが、エイジは典型的なライバル像を計算して作られた雰囲気があり、まぁ言ってしまえば「死なない力石」です。
 「力石の死」に匹敵するほど(サイコーの人生を狂わせるほど)の衝撃的な事件もなく、「ヒロインとの結婚」を上回るほどの重みのない関係性だったと言えます。
 その点で、先述した「エイジと競わなくてもいい」というのは、サイコーにとってそれほど間違っていないと思います。
(※どちらかといえば、川口たろうとの関係性において、サイコーが人気漫画家であろうとするテーマが立っているようですし。)


 で、「亜城木夢叶」というペンネームといえば、最終回手前でサイコーがカヤちゃんに感謝するシーンがありました。
 あそこはラストエピソードで最も意表を突くものでしたし、面白かった。
 「亜城木夢叶」は、亜豆、サイコー、シュージン、カヤちゃんの四人で作ったペンネームであって、確かにサイコーは(自分の恋愛を優先するだけではなく)カヤちゃんに感謝するべきだし、シュージンにももっと感謝するべきでした。


 つまり、「俺の夢を叶えてやりたいっていう二人の夢じゃなくて、シュージンとカヤちゃんの夢を今度は叶えてやりたい」と、サイコーは最後に言うべきだったかもしれません。
 もちろんそれは、二人に夢を叶えさせてもらった立場として、亜豆も一緒にです。

七峰システムと編集者の仕事

 最後に思うのは、こんな風に「メインテーマを探す視点」を作者に与えるのが、「七峰システム」の真の利用価値だったんじゃないかなということです。
 もっとも、『バクマン。』の作中では「編集者の二人三脚に七峰システムが優ることはない」という結論が与えられているのですが……。
 だとしたら、『あしたのジョー』の編集者(マガジンの編集者は複数担当制です)や、『うしおととら』における藤田和日郎の友人たちのような役割を、担当編集者一人でこなすことができるのだ、ということでしょう。
 しかし、必ずしも「その仕事」は果たされているのでしょうか?


 そういう「読者が本当に見たかったもの」をちゃんと拾い上げて、名作を名作に仕立て上げる(ポテンシャル以上のクオリティを発揮させる)ために必要な作業は何か?
 というのは、七峰システムにかぎらず、今後も問い続けられるべき問題なのだと言えるはずです。

*1:『オトナファミ2010 January』のインタビューより