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東浩紀・伊藤剛・竹熊健太郎らによるヱヴァ鼎談 簡易レポ

 先日、25日夜に朝日カルチャーセンターで行われた、鼎談講座「ヱヴァ」をめぐって − あれから14年の手元のメモと記憶によった簡易レポートです。

講座内容

テレビ放送から14年、今夏「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」が公開されました。今、ヱヴァをめぐって何か起きているのか。14年の間に起きた変化とは。「大人になる」こととは何か。本作をきっかけに出会った3人が語ります。

 実際の内容を振り返ると、この「大人になることとは何か」「作り手が、受け手が、大人になることで何が変わったのか」というのが一番重要なテーマのはずで、(伊藤剛さんはなるべくそっちに振ろうとしていましたが)でもちっともそういう話にならなかったのはモッタイナカッタですね。
 「私達はこんな大人になりました」っていうのは自分側からあまり語りたくないようなことなんでしょうか。


 個人的には、トミノが大人に(まるく)なり……、そして庵野さんも大人になり、っていう変化が今年代のアニメ界で最大の事件性だったと思うのですけどね。


 ……と、簡易レポートのはずが、指摘(しかもかなり結論)から始めてしまいましたが、以下、講座の箇条書きです。
 主催側が録音しているかどうかわからないのですが、個人的なメモと記憶による再現であることを重々ご承知ください。文責は筆者にあります。

「ヱヴァ」をめぐって − あれから14年 簡易レポート(敬称略)

  • 司会を任されているということで、始まる前から進行の心配をしている伊藤剛
    • 伊「この二人相手だと、打ち合わせしても脱線していくだろうことは目に見えているので……」
  • とりあえず「今の状況について」と「今までを振り返って」という二軸で話を進めようということで同意を得る
  • まず早速、エヴァ放送当時はオウム事件の印象と不可分だったと語り出す竹熊
    • 竹「本人から聞いた話だけど、サリン事件当日に庵野監督はエヴァの第一話のアフレコに向かう最中で、もし一本電車に乗り遅れていたら、サリンに巻き込まれていたらしい」
  • 東と竹熊の出会いは、東がメールを出したことから
  • 竹熊がエヴァに興味が持ったのは、岡田斗司夫に呼ばれてロフトプラスワンを見にいった時のエヴァ語りから
    • 竹「そこではどっちかというと、エヴァをバカにして笑うような空気だったんだけど、自分はなにか特別な興味を感じた」
  • すぐにエヴァのビデオを鑑賞して、ロフトのイベントの一ヶ月後、岡田と対談。その対談をしたホテルの外で庵野監督とばったり出会い、その場にいた四人で食事に行く。そこで庵野と竹熊が意気投合
    • 伊「まずTV版のビデオをどうやって手に入れたかっていうのが問題だよね」
    • 東「僕はダビングのダビングのダビングみたいな……」
  • QJの赤田編集長にエヴァの企画を持ち込もうとする竹熊。しかしオタクではない編集長は乗り気でない
    • 竹「しかたないので赤田さんを監禁して、庵野作品を二日かけて全部観せた」
    • ?「当時はよくあったことなんですね、監禁というのは(笑)」
  • 庵野の学生時代の作品から始まって、エヴァの第弐拾四話までは反応の弱かった編集長だったが、最終二話が始まった途端に目を輝かせたらしい。「竹熊さん、これは面白いですよ!」と言ってQJのエヴァ特集が決定
  • QJを先駆けにいろんな雑誌がエヴァ特集を組みはじめたが、ロッキンオンは乗り遅れる。ちなみに一番最初は『デラべっぴん』
  • パソ通のニフティは当時異様な雰囲気だった
  • エヴァはサブカル方面など、カジュアルに開かれていたオタクアニメだった
    • 伊「と同時に、エヴァからオタクになった子供が今はいて、『エヴァによって今のオタクというものが始まった』とか語りだす学生までいる」
  • アニメプロパー・アニメファンではなく、思想系の人がエヴァを語る流れだった
  • 現代的な表現として持ち上げていて、庵野自身もそういった言論に協力していた所がある
    • 竹「今は逆で、思想家はみんな沈黙してますね。例えば斎藤環さんとか」(※註:ちなみに『ゲームラボ』の8月号で斎藤環はヱヴァ破への肯定的意見を軽く語っている)
  • 「オタク大絶賛、思想家沈黙」という見立て。ここから東浩紀に矛先が向く
    • 東「レスポンスの必要を感じない。例えば、『東のエデン』とか『けいおん!』とかの方が、批評家としての立場を語れる(このアニメ大丈夫か? 的な意味で)」
    • 伊「ヱヴァは批評にならないって言うけど、例えばいま東くんが頑張って批評しているような、平成ライダーと同じようには語れないの?」
    • 東「直観的にできないと判断してます。ヱヴァはリメイクだから」
  • 庵野が出てこなくて、マスコミが困っている、と竹熊が話を移す
    • 竹「旧エヴァは庵野監督の私小説だった。でも今回は、僕も本人と接触できないから、何も想像できない。マリは奥さんの影響? とか色々妄想できることはあるんだけど」
  • 竹熊いわく、庵野はアマチュアからプロになろうと七転八倒していた。その苦労が見て取れるのがナディアで、途中で作業できなくなって「島編」になったり、終了後は四年間仕事できなかったりした。旧エヴァでも最終的には私小説をやってしまった
    • 竹「でも、新劇場版はなんでも好きなことをやれる状況なのに、庵野さんはプロの仕事をしている」
    • 伊「(他人のお金じゃなくて)自分の責任だからこそ、ヒットを狙ってプロの仕事をするとも言えるのでは? 例えば、大手の同人作家が感じるプレッシャーは『自由』ではない。むしろ同人よりも、商業の方が好き勝手できてしまう、というようなことがあるので」
  • 竹熊いわく、旧作はファンと対峙していた。罵倒、挑発していた
    • 竹「聞いた話だと、映画界はヱヴァに対して騒然としてるらしい。(ファンとはケンカしてないが)配給会社にはケンカ売ってるのかもしれない。庵野さんはマスコミに対しても厳しくて、画像を使用するだけでも、やりすぎと言っていいくらいの検閲をしてたりする。完結してから、本当は何をやっていたのかを訊きたいですね」
  • ここからまた東に矛先が。最初は「奥歯にものが挟まったような言い方 by 竹熊」で「ヱヴァ破は素晴らしいと思いますよ」と言っていた東だが、ストーリーについて突っ込まれた途端に「つまらないでしょ」と言い出す
    • 東「つまらない、と言うことに批評家としての立場的な意味が無いから、言いたくない。点数つけるとしたら、59点くらいでしょ」
    • 竹「珍しいよね、東くんがこういう言い方するの」
  • 竹熊いわく、今もエヴァは時代と関係している。それは間違いない。
    • 竹「ただし、熱い関係ではないのかもしれない。逆に『王立宇宙軍』は、ガイナの創立メンバーが自分と同世代だから、関係としてはおっきくなっちゃう。王立は、作品自体はそれほど面白くもないけど、ずっとひきずっちゃう。それは、人生そのものなわけだから」
    • 東「僕がつまらない、とか言うとウザいと言われる。批評する気なんかないんだけど、やろうと思えばいくらでもやれる……(以下、早口でアスカについての感想をまくし立てる東)……でも、こういうのは遊びなんだよ」
    • 伊「それって遊びでもないんじゃないの?」
  • この講座のためにヱヴァ破をまた観にいってみたら、「翼をください」の所で泣いたという伊藤
  • 東いわく、庵野監督は映像の天才。それに対して批評家は何も語ることがない(※註:これはあくまで東浩紀の「批評家」観であることに注意)
    • 東「例えばダイコンフィルムに対して語るべき所は何もないし、ヱヴァ破にもそんな感じがした」
  • 東の見立てでは、宮崎アニメは「無意識」の映像快楽で、庵野アニメは「ドラッグ」の映像快楽。無意識の映像は意味を探ることができるが、ドラッグ映像は意味を探ることに意味が無い(※註:ここも東浩紀が、強引に二項対立させた見立てであることに注意)
  • 「パロディコンプレックス」というフレーズを出す竹熊。庵野作品は「コピーなんだけど、ただのコピーじゃない」という「魂」が入っている。エヴァでもリツコに「ただのコピーとは違うわ、人の意志が込められているもの」という台詞を言わせていたりする。(※註:直接言及されなかったが、『トップをねらえ!』を「パロディだったはずのものがオリジナルになってしまった」成果の代表として挙げておくべきだろう)
  • この後、東が「庵野は映像作家であることに割り切った。だから物語性はないけど、映像はすばらしい。だから映像のみがすばらしいとだけ言えばいい」と断定するのに対して、伊藤は「表現と物語を対立させすぎでは? ドラッグと無意識が完全に分かれるということもないはず」と反論
    • 伊「物語が無いってことはないでしょう」
    • 東「いや、あるよ。凡庸な物語ならある」
    • 伊「そういう物語の中にも深みは出てくるものでしょ?」
  • 東によると、氷川竜介の「ヱヴァは体験する映画です」という発言も、鶴巻監督の「庵野さんは作家性だけでなくて、むしろ編集や音響の技術力に優れている人」という発言も、庵野が「物語性を放棄したドラッグ映像を作ることに割り切っている」ことの傍証になるそうだ
  • 「破」がダイコンフィルムだとしたら、「Q」は帰りマンか大日本で、紫色のジャージを着た庵野秀明が実写で出てくる、原点回帰だ、というネタで会場が笑いに包まれた所で、タイムオーバー

 要約すると、「崩壊していて狂っていた旧エヴァはとにかく事件性に満ちていて、でもそんな狂気を感じられない新劇場版は評価する気になれない(そういう作品には素晴らしいとだけ言っておけばいい)」という雰囲気の東浩紀と、「旧エヴァは庵野さんが凄いことをやっていたのがわかったけど、今回の庵野さんは何をやってるのかわからない以上、自分には語りにくい」と正直に述べる竹熊健太郎に押される形で、あまりヱヴァ破そのものの問題には踏み込まない講座でした。

 途中、漫画家の西島大介が乱入したり、鶴巻監督についても言及すべき、といった流れもありましたが、その時はメモを取っていなかったので、どのタイミングの発言だったのか思い出せません。


 ちなみに、東浩紀の言う「ヱヴァ破の物語」に関するぼくの反論は、簡単には以下のように述べられます。

  1. 凡庸という評価とレッテルが、そもそも印象批評でしかないだろうということ。個人が抱く「凡庸さ」をヱヴァ破の内容に重ねて見てしまう(同一視してしまう)かどうかの問題でしかない。「凡庸とは何か?」というエクスキューズがなければ取り合うことができない
  2. 庵野総監督は脚本レベルの表現を諦めて、映像表現のみに専念しているのだ、という憶測も、(スタッフインタビューから垣間見える)強い責任感を感じているさまや、執筆に苦闘する様子などをこれでもかというくらいに無視した結論であって、こうした「無視」があるだけでも、「物語に語るべきものは無い」という意見は退けていい(ここで再度用心しなければならないのは、「東浩紀個人の文脈や価値観にとっての凡庸さ」と、「個人以外の価値基準における凡庸さ」は別物であって、個人一人の価値観における是非を云々していては議論が進まないということだ。東浩紀はいくらでも「自分の批評的文脈における語る価値の無さ」を取り出せるのだが、それはアニメ作品を語ることとは無関係な文脈なのだ)
  3. もし仮に凡庸で陳腐だとしても、「それをいまやること」「旧作から変化させたこと」という現象には、事件としての意義があるのでは? 本当の意味で「語るべき価値が無い」というのは、ヱヴァ破を含めた現代の作品のほとんどが「軒並みに凡庸である」ような状況……つまりヱヴァ破が「凡百の作品」と呼ばれるような場合においてだが、今はヱヴァ破が「凡百」といえるほど、周囲の作品群が凡庸揃いだとは考えられない。つまり言葉の定義上、凡庸と凡百は価値が異なる。「凡庸ではあるが凡百ではない」という評価は充分成立するし、周囲から逸脱した「凡庸さ」は事件に足る出来事になりうるだろう、という視点を欠いてはいけない


 正直なところ、竹熊・東の両氏にとって、新劇場版について言及するのは「今回で一区切り」にしたい、というくらいの気持ちのようで、これ以上の語りを要請する必要は特に無いと言っていいかもしれませんね。
 重要なのは、彼らに語らせることではなく、もっと他の語りを進めることだろう、という思いを今回新たにしたのですが、いかがでしょうか。

関連(このサイトでのヱヴァ破語り)