いい加減、「敵」と「仮想敵」の区別くらいつけようぜ。相手は生身の左翼なんだぞ!!

リベラルの攻撃性‐国家鮟鱇(tonmanaanglerの日記)

いや、だからさ、僕が言いたいのはたった一言なんですよ、実は。

「イメージで対象を語るな」

これだけ。

別に語ってもいいんだけど、それは単なる「イメージ」なので、対象を理解するきっかけにはなっても対象の行動や思想に関する「解」にはなり得ない。本来であればそのイメージを契機にしてさらに対象に近づき、その思想のベースや行動原理、戦略なんかを読み解きながら批判するものだと思うんだけどね。「イメージ」で対象を批判したって、現実的には何の意味も無いどころか、その態度こそがid:tonmanaanglerさんやid:kagamiさんの感じる「絶対化」の元凶だと僕は睨んでいるのだけれど。

で、結論から言えば、やはりそこには「絶対的」なものがあって、そこから外れるものは認めない(というか見えない)のだろうと思う。

彼らの言う「話し合い」とは、彼らの許容範囲内での「話し合い」であって、それ以外のものは「意見」ではないのであろう。「意見ではない」とは、自分と異なる意見を認めないということではなくて、「意見ですらない」という意味。じゃあ何かといえば、具体的に言えば「別の意図を隠すまやかし」、「権力者に騙されている可哀想な人」あるいは「狂人」のたわごとということ。

国家鮟鱇(tonmanaanglerの日記)

逆に、リベラルな理想主義の場合は、どこにも実際には存在しない”理想”が出発点
となるゆえに、その理想は決して誰からもどこからも試されることはない。理想には
実体がないゆえに常に絶対的なものであり、現実からの眼差しで相対化されることはない。
それが皮肉なことに、自由の理念からは最も遠い、絶対主義への扉を開けてしまうのかなと。

ロリコンファル

この辺からして、完全に「無理解」がベースにあることがわかる。もしこれが純粋に「リベラル」の思想性を表すものだとしているんならちょっと無知だと思うし、その無知を知りつつ自説を展開しているのならばむしろ「攻撃的」なのは彼等ということになるんじゃないだろうか。

僕は「リベラリスト」を自認しているけど、「リベラル」が「どこにも存在しない”理想”」を出発点にしているなんて知らなかったし。

まあ、冷静に文章が読める人なら、「あれ?全体化や絶対化って、右派・保守もよくやることじゃなかったっけか?」という疑問が頭に浮かぶはず。いつの間にか、戦前の言論統制・思想統制の事実は忘れ去られてしまったのかな。思想の絶対化・全体化は右・左問わず起こりえる事実だってことは自明だよね。だから、僕は前のエントリで、『id:kagamiさんは、左派的思考と攻撃性の因果関係について事実を絡めて説明するのと、それから「リベラルの攻撃性」が一体誰に、何を目的に向けられているのかをきちんと理解する必要がある』と言っているわけだ。僕も「左派による思想の絶対化」の事実そのものを否定する気は毛頭ないんだけど、別にそれは左派に限ったことではなく、右派だろうが保守だろうが起こりえる(事実起こっている)ことだと思っているから、それがまるで左派独特のものであり、しかもその思想性が攻撃性の源泉になっているかのように語るid:kagamiさんの言説には首を傾げたくなったわけですよ。例えば「国旗・国歌法の制定」って、あれ「思想の絶対化」でないとしたら一体何なんだろうね?(その「機能」に関しては別問題としても)

ちなみに、Wikipediaによれば、

リベラリズム(Social libealism, New liberalism, Reform liberalism):個人の自由で独立した選択を実質的に保障するためには、単に自由放任にする(→新自由主義・自由至上主義)のではなく、そうした選択や自由を阻害する偏見や社会的、経済的強制を排除するなど公的な権力の介入も必要であるという社会的公正を指向する思想。ジョン・ロールズに拠れば、「公正」とは「立場入れ替え可能性の確保」を意味し、人々に「社会のどこに生まれても自分は耐えられるか」という反実仮想を迫るものである。よって、リベラリズムは自己決定を推奨し、国家による富の再配分を肯定する。乃ち、古典的自由主義の想定とは裏腹に市場原理主義では失業問題や構造的貧困等様々な社会問題を解決できず、それは人々の社会的自由を阻害するということから、古典的自由主義を修正する思想である。

宮台センセイのBlogより抜粋すると、

戦後の日本では、日の丸に寄り縋るヘタレが右、赤色旗に寄り縋るヘタレが左と呼ばれてきました。大いなるものに寄り縋るヘタレぶりにおいて目糞鼻糞。時に応じて大いなるものが共産党やコミンテルンから国家へと変じたに過ぎない。であれば、右や左とは何か。政治的再配分を肯定するのが左、否定するのが右です。ネオリベで言えば、否定するから「小さな政府」となり、小さな政府では担えない分を伝統的共同体や性別役割分業に負わせて「保守」となる。古典的右翼とネオリベとの違いは、前者が「伝統共同体の護持→小さな政府→集権的再配分の否定」となるのに対し、後者が「集権的再配分の否定(財政逼迫)→小さな政府→伝統的共同体の護持」となること。似ているようで、精神性において違います。極右とは古典的右翼のラディカル部分で、アメリカで言えば「憲法修正第二条に基づいてリンチや謀叛を肯定する」ミリシア(民兵)、日本で言えば「愛郷の志に基づ く謀叛を肯定する」2・26青年将校や三島由紀夫の立場ですね。

政治的再配分を肯定する左には、マルクス主義からリベラリズムまで含まれますが、今日ではそれよりも、以下の二つの立場を区別する必要があります。すなわち、国家による 集権的再配分を重視するのか、ローカルな自律的相互扶助に基づく分権的再配分を重視するのかです。マルクス主義は集権的再配分、社会福祉政策も集権的再配分、田中角栄から経世会に連なる補助金交付金行政も集権的再配分です。どれも自律的相互扶助のシステムを壊滅させる点で共通します。これに対し、アジア主義者、アンチ・スターリニズムを主張した極左の一部、ネオリベに対抗する新社会民主主義としての「第三の道」を主張する者は、自律的相互扶助のシステムを擁護してきました。

すると興味深いことに、国家による集権的再配分に抗してローカルな共同体の自律的相互扶助を擁護する点、極右と極左は円環するのです。違いは「内在」ならざる「超越」を肯定するか否かにある。

となっている。どこにも、「攻撃性との関連」や「思想の絶対化」が類推される記述はないですね。(この定義に異議がある方は別途どうぞ)

で、「無知や無理解をベースにしたイメージによるレッテル貼り」は、ある特定の思想を攻撃する、あるいは思想の絶対化・全体化を進める為の第一歩であると僕は考えているので、この場合「リベラルは攻撃的」としているid:tonmanaanglerさんやid:kagamiさんの言説そのものがより「攻撃的」なんじゃないかと思うわけですよ。

もし何かを批判するのであれば、自分がベースとしている価値観や思想以上に相手の思想や行動原理を見極め、理解し、その上で批判しなければ、真に意味のある批判にはなりえないと思うんだけど。

繰り返すよ。

『相手は生身の左翼なんだぞ!!』

※追記:こういう話を書いていつも思うのが、「リベラル」とか「左翼」とか「右翼」とか「保守」とかの定義が統一されていなくて非常に理解しづらいということ。ニュアンスで使われているケースが多くて、噛合わないことが多々ある。