情報を伝える意味、伝えられる意味

たとえば、容疑者の逮捕の瞬間の映像なり、写真にどれほどの意味があるのか、とか、事件事故の過剰なまでの詳細にどれほど意味があるのだろうか、という問いに対して明確に答えるのは難しいと思うのです。少なくとも、私には必要のないものだとは思うのですが、かといってそうしたものがあるのであれば、何の気なしにそうしたものに引き寄せられてついつい目にしてしまうものです。
ではその一方で、何を伝えれば意味があることになるのか、というとそれも難しい問題です。ある人は、事実を伝えればよいというかもしれません。しかしその事実なるものだって、際限のないものです。どれほどのものが事実として認められるのでしょうか。例に挙げた容疑者逮捕の生々しい瞬間だって「事実」なのですから。

その情報は必要なのか

さて、私たちが常日頃触れている報道やその類のもの、多くの人はそれを必要だと感じているでしょう。しかし、果たしてどのような点で必要なのでしょうか。これもなかなか難問です。今現在の、Yahooのトピックスを見てみます。「通り魔、ネットで「実況中継」」「凶器ナイフ 銃刀法の規制外」「北朝鮮、核放棄応じない姿勢」「原油高 米投資家を名指し非難」「松下、白熱灯の販売4割減へ」「問われるブロガーの人権感覚」「水着選択 板挟みで選手は苦悩」「薬丸裕英、第5子誕生に感涙」。もちろん、こうした記事だけではなく、はてなブックマークのホットエントリー一覧でもいいでしょう。そうした無数にある記事の中から、皆さんは自らの読みたい記事を読むわけです。しかし、その記事、あなたにとってどのような必要性があって、読もうと思うのでしょうか。
私などは特にそうかもしれませんが、常日頃から読んでいる記事の大半が、私の生活に、私の人生にはそれほど直接的なかかわりが無いものが多いようにも思えます*1。P2Pやコンテンツ配信、著作権に関する話題は、私の生活にはそれほど関係ありません。ただ、それはどこそこで事故があったとか、あそこで起こった殺人事件はこんな風に首を絞められたんだとか、政治家がこんな愛人を囲っているというスキャンダルとか、船場吉兆がどうとか、そういったものと同程度の関係の無さでもあるのです。もちろん、趣味趣向は人それぞれですから、その対象も人それぞれでしょう。しかし、そういった一見無関係なものに対して、我々は興味を持ち、それについて知りたがります。
そうした報道に触れることが如何に人々の役に立っているのか、という一応の説明することはできるでしょう。ただ、それは結果的に役立っていることの説明であり、私たちが一見関係のない報道を見たがる理由とは別のもののように思えます。私たちは「結果的に役立つ」から、そうした報道を見ようと思うわけではないですから。
では、なぜそういった記事を読むのか、という問いに答えるとしたら、それは好奇心を持ったから、というより他はないと思います。面白そうだ、興味深い、何か気になる、そういった動機のもとに*2それらの報道に触れるのではないでしょうか。
更に突き詰めると、その好奇心はどこから来ているのか、という問題に直面することになります。もちろん、これを真剣に考えるためには、進化、環境、文脈を考慮しなければならないのでしょうが、ここではもう少し一般的な、というよりも経験的なレベルで考えることにします。

2つの動機

私が追いかけているトピックにThe Pirate Bayの問題があります。彼らはいわば海賊たちの思想的リーダー*3的な存在となっています。私が彼らを追いかけるのは、1つにはP2Pと著作権の問題を考える上でのキーパーソンだと考えているためです。そうした問題を考え、議論することで、私自身の知的充足を得る、それが1つの目的かもしれません。
しかし、それとはまた別の側面も存在します。それは彼らのパフォーマンスが単純に面白いということです。換言すれば、エンターテイメント、娯楽として、野次馬的にとらえている要素があるということでしょう。ある意味ではこれは不謹慎なことです。確かに、The Pirate Bayが著作権侵害に対して責任があるのかどうかは未だわかりませんが、それでもThe Pirate Bayの運営によって大規模な著作権侵害が生じているということは事実としてあるでしょう。そういった彼らが、著作権者をおちょくり、茶化し、挑発する。そうしたダークヒーローぶりを純粋に娯楽として面白い、と思ってしまうのです。ともすれば、タブロイドに求めるような、そんな感覚でしょうか。
そのようなわけで、同じThe Pirate Bayに関する記事を書く、といっても、上述した2つの好奇心、その両方を満たしている、ということになります*4。

高尚さと不謹慎さと

なぜ、The Pirate Bayに注目しているのですか、という問いに、前者の答えを出したとします。そうすれば、はぁ、なるほど、いろいろと考えていらっしゃるのですねと、高尚な風を気取ることもできるのでしょう。
しかし、後者、単に面白がってるんですよ、などと答えようものなら、なんと低俗な、だの、不謹慎な、といった誹りを免れないでしょう。もしくは、あきれられてしまうでしょうか。私がそうした人に弁解するのであれば、いえいえ、不謹慎だから面白いんじゃないですか、そう答えるでしょう。不謹慎さそのものを弁解するつもりはありません。
さてこの後者の場合、お互いに不謹慎さは共有できているはずなんです。私も、私を不謹慎だと批判する人も。しかし、それを面白いと思えるかどうか、そこが分かれている。その辺は価値観というところなんでしょう。
それはともかくとして、その説明一つで、同じ行動であってもその良し悪しの判断が変わるわけです。もちろん、説明して、それを受け入れるかどうかにもかかっていますが、いずれにしても、高尚であるか、不謹慎であるか、の境目は非常に曖昧で、送り手の言い分、受け手の感じ方に左右されてしまうのです。

送り手の意図

では、更に考えを進めてみましょう。なぜ、説明一つで受け手の感じ方があるのでしょうか*5。さまざまな答えがあるのかもしれませんが、有益性が担保されるか否かということにあるのではないかと感じています。先ほども申し上げましたが、有益性があるかどうかという判断には、受け手の価値観が大きく作用するのでしょう。しかし、それでも有益性が存在すると認識されることで、安心してそれを引き受けることができるというわけです。
逆に、その有益性のよりどころを失わせるような不謹慎な一言を添えれば、その有益性はたちどころに霧散してしまうのです。その意図を知るだけで、有益どころか有害とすら感じるかもしれません。たとえ、伝えられる情報そのものが同じであっても。
あくまでも私の経験的なものではありますが、そうした有益性と有害性の評価というのは、背中合わせだという部分もあるのでしょう。特に報道などはそうです。それが単に受け手の野次馬的関心をそそるためのものであっても、それが報道の名の下に高尚な目的で行われているのだ、という錦の御旗があれば、それは有益なものだといえる/言い切れるのです。しかし、その一方で、その意図が野次馬的関心をあおるためという意図が透けて見える/見えてしまう場合には、有益性どころか有害性すら感じ、その不謹慎さが断じられるわけです。もちろん、現在では双方向な報道というのはほとんどありませんから、受け手の評価やインターネット内での議論で終わることがほどんどで、相手にそうした評価への反応を求めることは難しいという部分もあります。もちろん、窓口は存在するのですが、伝えた分のフィードバックは得られてはいないでしょう。

有益性と有害性と

さて、先ほど私は報道される記事の必要性について論じました。結局、それは必要だからというよりは、それに好奇心を持ったから、という結論に至りました*6。必要だから接するというだけでは、説明がつかないからです。
では、この有益性というのはどうでしょうか。本当にそれは私たちの生活に、人生に有益な報道なのでしょうか。これも、大半の報道の必要性よろしく、それほどのものではなさそうです。有益そうだから有益だと思う、という程度のもので、それが実際に誰にとってどう有益であるか、という点はそれほど重要ではないような気がします。それよりも、何かしらの興味が湧き、なんだか有益そうだというだけで結構なのではないでしょうか。たとえその有益さが、私の好奇心を満たすというだけのものであっても。
一方で、私たちにとってそれがどう有害であるのか、ということも考える必要があるでしょう。一つにはこれまでに述べてきた不謹慎さというものがあります。ある種の不快感を伴う報道、もしくはそれに準ずるものを目にしたとき、それを不謹慎なものだと批判されるでしょう。少なくとも不快にさせたという点では、有害なものでしょう。もちろん、これを社会から取り除けなどとは申しません。それを不愉快、つまり有害であると判断するのは、ある種の価値観を有する人であって、それが全体に及ぶわけではありません。そういった人を見かけたら、不愉快くらいは我慢なさい、それを表明する場は十分にあるのですよ、と声をかけてあげるとよいのかもしれません。
さて、もう一つあげてみましょう。報道される側のプライバシーの問題です。たとえば、私が道端で突然倒れたとしましょう。それはもうひどい顔で苦しんでいます。白目をむいているかもしれません。泡を吹いているかもしれません。救急車が到着し、私は処置を受けています。そこに通りすがった方が、これは誰かに伝えなければならないと思い、私にカメラを向け、全世界に発信します。それはもうひどい顔を。私のひどい顔を伝えている方は、それが純粋な使命感に燃えているのかもしれませんし、下世話な野次馬根性に支配されているのかもしれません。ただ、私にしてみればどうでもいいことです。どのような動機づけであっても、やめてくれ、私を写さないでくれと思うでしょう。残念なことに、こうした純粋な使命感も、下世話な野次馬根性も、ある程度は認めている私でさえ、このざまです*7。
最後にもう一つ。報道した側の問題です。上記の例を続けましょう。白目をむき、泡を吹きながら、私は死にました。その模様はカメラを通じてしっかりと世界中に配信されました。純粋な使命感であれ、下世話な野次馬根性であれ、何かを伝えるということに対しては私は認めるところではありますが、それが意義あるものかどうか、という判断とは別物です。少なくとも、街中で突然倒れて泡を吹いている人をカメラで写し、それを世界中の人に伝える意義を感じませんし、いかなる説明をされたところでその動機を野次馬根性だと考えるでしょう。これは不謹慎な行為だ、と。ある種の人はその不快を言葉にするでしょう。不快感を表明する場は十分にあるのですから。その場が双方向のメディアであれば、なおさら恐ろしいことです。どんな意図があったにせよ、そんなことになるとは思わなかった、そう思う人もいるかもしれません。良心の呵責、そしてそこに向けて振るわれるコトバ。
情報を享受する側、情報の対象、そして情報を提供する側、それぞれに害となりうる部分について考えてみました。もちろん、極端な例も出しましたし、それが現実を反映したものかどうか、という部分では不明瞭な部分もあります。ただ、その可能性は考えられる時代にある、と考えています。思い違いをしていただきたくないのは、決してこうした極端な例をあげて、それを悪とする思惑があってのことではないのです。ただ、こうした状況を様々なケースを上げて考える必要がある、そう考えているのです。

自由であること

使命感であれ、野次馬根性であれ、その動機はどうでもよいことです。私はどちらも認める立場をとります。そこには結果としての行為しかないのですから。しかし、その結果としての行為に対して、不快感を抱くことに関しても私は認める立場にあります。野次馬根性だから許されないが、使命感であればいい、そんなものはうがった考えです。使命感であっても批判されるべきは批判されて当然です。だから批判したい人は、その動機が使命感であれ、野次馬根性であれ、自由に批判してよいのです。その一方で、どのような動機であれ、伝えられた情報に意義を感じる人もいるでしょう。自由に評価してよいのです。
使命感であれ野次馬根性であれ、アマチュアであれプロフェッショナルであれ、批判であれ擁護であれ、どのようなバックグラウンドを持っていても、そこにもたらされるのは結果としての行為でしかありません。バックグラウンドはもたらされた結果としての行為への解釈を割引、割増してくれるかもしれませんが、行為そのものを変えるものではありませんし、私としては、割引、割増必要があるのかどうかも甚だ疑問に思うところです。そういったバックグランドを抜きにして、その受け手である個々人がそれぞれの評価、解釈すればよいのです。
何をするにしても、何を伝えるにしても、どのようなバックグラウンドを持っていても、法に反しない限りはおそらくは自由なのでしょう。ただ、自由であることは、無批判でいられることも、無責任でいられることも保証してくれるものではないのです。

*1:もちろん、直接関係するものもあるでしょう。

*2:ともすれば機会が与えられると自動的に評価を下し

*3:比較的緩いつながりではありますが

*4:もちろん、知的充足と野次馬的娯楽は独立したものというよりは、後者が前者に内包されているのでしょうが。

*5:もちろん、言い方一つでは変わりようが無いこともありますが。

*6:当然のことですが、好奇心を満たすことも必要に応じていことになるとは思っています。ここではあえて別に扱うことにしています。

*7:この例はひどいと思われた方もいらっしゃると思います。では、あなたはどこで線を引きますか?