困ったものだ

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20090616
ここに書いてあることですが、週刊朝日のぼくのコラムをどう読めばこんな感想が出てくるのか、意味不明です。
そもそも該当コラムでは、ぼくは「1Q84」にはっきりと否定的です*1。他方、村上春樹について、いままで正当な評価がされてこなかったことは、それとはぜんぜん別の次元でよく言われていることです。リンク先のブログの著者が村上批判を書いてマスコミで干された経験があるだかないだか、という話は、ぼくのコラムとは100パーセント関係がありません。
つまり、ぼくは今作については村上春樹を批判しています。しかし村上春樹の文学については、いまこそ正当な評価が必要だと感じています*2。それは両立する立場です。ちなみに、次号思想地図では、「村上春樹以後」をめぐる座談会を行う予定です。
とにもかくにも、リンク先の記事のぼくへの批判(?)は意味不明すぎます。ぼくの原稿をここで再録できれば話が早いのですが、いま売られている号の週刊誌ですのでそうも行きません。興味のあるかたは該当誌をお読みください。
読者が「東浩紀は1Q84を褒めている」と誤解されると問題なので、注記しました。
それにしても、なんでみなこう党派的なんだろうな。村上春樹も党派のシンボルだったか。

*1:「がっかりした」と明記しているし、「60歳の作家が35歳のふりをして書いたコスプレ小説」とまで書いている。

*2:むろんこれは、すでに行われている「文学」的な村上評価から外れた、もっと越境的な枠での評価という意味です。たとえば、よく指摘されるように、1Q84の物語は明らかにあるタイプのエロゲーに似ている。そして、ぼくの『ゲーム的リアリズムの誕生』や『美少女ゲームの臨界点』の読者であればわかるように、それは決して偶然ではないし、また一般論で片付けられる話でもない。なぜならば、現在の萌えの基本パラダイム(のひとつ)を作ったKEYのゲームは、そもそも村上春樹の影響を多分に受けていたからです。つまり、村上がエロゲーに似ているのではなく、エロゲーが村上に似ているのです。そしてこの影響関係は、いままでの文学論では見えてこなかった村上評価を可能にする。今回の1Q84は、そういう影響関係を村上自身が自己証明してしまったような作品であって、その意味では重要と言うこともできる。――とかなんとか、こういう話はいまようやく議論の機が熟してきたと思います。ぼくがしたいのはそういう話です。