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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「漢文教育なんかやめちまえ」。BY百田尚樹…はその辺にほっといて(笑)、高島俊男と倉石武四郎の論の紹介(※片方は孫引き)

タイトルで、既に話の流れが分かる人は分かるのだろうが、トリックは途中で言わないように(笑)
えーと少し前、このへんの話が話題を読んで…検索

百田尚樹氏「中国文化は日本人に合わぬ。漢文の授業廃止を」(NEWS ポストセブン) - Yahoo!ニュース https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170406-00000001-pseven-cn

さすが本屋大賞受賞者、はてブも大にぎわい。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170406-00000001-pseven-cn


さて、自分は得たりとばかり、とある資料を紹介したい・・・・・と思ったら資料樹海に迷い込んで、本日ようやく入手した。そしたら祭りは終わった気配だ。
しかし、或る意味ニセ救世主や、ニセ皇帝の陳勝、李自成が現れたあとにこそ真のキリストや、劉邦、朱元璋が世に現れる・・・・・・例によって、穴だらけのザル並みの議論をされた百田尚樹氏の主張は数日で消費されて一向にかまわない、残った成果が「永遠の0(ゼロ)」で一向にかまわないんだが(笑)、それに便乗して、もっと濃い、本質的な意味での<漢文教育不要論>を、ざっくりと紹介したいのです…といっても、自分も表層的な話題を知ってるだけなので、ダイジェスト的になりますが。


それはタイトルにあったように、元ネタは高島俊男氏…といっても、それは氏の一般向けエッセイを当方が読んだというだけで、議論のもとは倉石武四郎氏らしいのです。

高島氏は、倉石氏のこの言葉を、自分の好きなことばのひとつだと紹介する。

漢文訓読は、玄界灘に投げすててきました。

その意味は何か?
・・・・・・・・・・・・・・つったって、この主張はシンプル、あんまりひねりがない。そして言うまでもないが、マクラを終えて百田尚樹氏のいうことはすでに不要となったので、意識から捨てていい(笑)。


要は
「いわゆる”漢文”を教える、学ぶなら、あちらの発音で読めや」。


はい
正論。
・・・・・・・・・・・・正論なんだが、そういわれると困る、じゃないか。個人的にも「それはなあ…」と思う、わけだが。

でも、その議論を聞いてみましょ。

訓読は、支那の文章の中から、もつぱら国語と同じところを取り出して教へる方法であつて、この方法が用ひられるかぎり、何年漢文を学ばうとも、一年英語を学んだだけの語学的効果を奏しない筈である。語学教育は、国語と違ふところを取り出して教へなければ、更に効果を見ない。

まーねー。
僕流に、いわんとすることを英文に置き換えてみると、たしかに I love you は英語に暗いぼくでも、いちおう アイラブユーという音で受け取って脳内で意味を解するのであって、返り点をつけて「アイは ユウをラブする」と言い換えて、脳内変換して意味を取るというのはちょいと非効率であり、少なくとも語学の本道ではないわねえ、というのはわかる。いや、アイだのラブだのは上等で、漢文というのは、「ONE DAY」を「オネダイ」と読み、PEOPLEをぺオプレと読み、それで読んでいけば不自由なかろう、と思うようなものだ、と…(高島俊男「漱石の夏やすみ」 文庫本108P)



でも漢文はそれこそいいじゃないか、というのを、倉石氏は業界では有名らしい「あの」喩えで語る。
それは「漢文塩鮭論」として知られる。(もう旧かなづかひはタイプしにくいので無視します)

持ち味を棄て、平面化したものになれると、そのほうが好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いわば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思う様なものである。

唐突に信州Disがはじまり、その土地の方には申し訳ないが、これは倉石氏の出身である越後方面の当時の共通認識に近かったらしい(笑)


以上、これらは倉石氏本人の著作ではなく、高島俊男氏の

本と中国と日本人と (ちくま文庫)

本と中国と日本人と (ちくま文庫)

から孫引いたものです。
高島氏と倉石氏は面識があるらしいが

中国の人名や書名を倉石先生は常に原語で言われた。わたしがお話をうかがったのは先生の晩年であるが、「シェイ・シェンのシュオ・ウェン・ジエ・ツーに…」などと言われて「アワワワ」と大あわてで頭のなかの漢字をさがしまわり、「ああ許慎の説文解字か」とさがしあてて一安心したりしたものだ。

というから、なかなかつらくも楽しそう(笑)


そんなこんなで、基本的に高島俊男氏もこの議論の骨子を容認し、自分でも受け入れて教育、研究してきたそうだ。だから漢文不要論を、氏は著作のところどころで語ってきたと記憶してる。そこを丁寧に集めて一覧上に並べれば一番いいのだが、こちらはあまり覚えていないので
上述した「本と中国と日本人と」と、正岡子規や夏目漱石の漢文漢詩からこの話題を語った

そして、もうひとつの資料に限って紹介しましょう。そしてこの資料こそ、ずっと死蔵してて、今回ようやく探しあてたものである。

高島俊男と呉智英が対談。「なるべく支那文字を使わない」「李白は支那語なら『リペイ』」…これ、岩波の「世界」に掲載!(驚愕)

探してた資料というのは、岩波書店の雑誌「世界」1996年3月号に掲載された、高島俊男氏と呉智英氏の対談「日本語をダメにしたヤツら」でした。

これ、誤記誤植じゃないですよ、ほんとに岩波書店の「世界」に掲載されたんです。ちなみに写真の呉智英氏はまだ髪がふさふさ…とまでは言わないがそれなりにあった(笑)

これは対談という形式なので分かりやすいというだけでなく、呉智英氏が「漢文肯定論者」として反論しているから議論が明確になっているのです。


司会の、『倉石武四郎先生は漢字をつかわない中国語の学習を唱えましたが、高島さんが初めて習った時、戸惑いはなかったですか』という問いから…画像へ

高島氏
「(倉石氏の教え方は)当然そうあるべきだと思った。言葉というのは耳で聞いて口で話すものだからね。だから自分が教師になってからも、入門段階では漢字は出さなかった。」
これに対して
 
呉氏
「倉石先生の考えはもっともだと思うけれども、日本の場合、漢文訓読みが千年以上にも亘って日本語の独特の読み方として文化の中で血肉化している面がある。それが日本語をつくっているわけです。『子曰』は『シノタマワク』であって『ツーユエ』とは読まない。少なくとも教養人といわれるひとたちは何らかの形でそれを継承していかないと、日本語はやせ細る。」
 
高島氏
「それは非常に難しい問題で、ぼくは支那語を日本式に読むというのがもともと好きでないし、長年中国語の教師をしてきて、漢文訓読はダメだぞと言ってきた者ですからね。まあなかなか一概には言えないんだよ。そういうものに愛着を持っている人がいる事実は認めます」

なかなか面白いけど、ここでもクリアな結論や合意は出てないでしょ。
そういえば、日本文化の中で血肉化した漢文といえば、それに否定的な高島氏ですら…
たしかスペインだかポルトガルの留学生がそのことを実感して「日本語でも中国語でもなく、『漢文』を教えてくれ」と高島氏に頼み、高島氏が個人教諭をした…という話をどこかに書いていたっけ。


まあぶっちゃけ、自分はこの呉智英氏の「漢文を遺さないと日本語がやせ細る」という話に共感するのだけど、それはなんか「調子がいいやね」的なノリ、リズム的なものであり、要は「四谷赤坂麹町、チャラチャラ流れる御茶ノ水…」とそらんじられたら、ちょいと粋だネ、という話以上でも以下でもない。
だから

もし孔子や老子の思想、哲学や司馬遷の「史記」などの史書を学びたいのなら、通常使われている散文日本語に普通に翻訳したものをテキストにして学ぶべきではないですか?
それでは理解が浅くなるというなら、直接この言葉を(旧時代の)外国語として学び、その発音で読んで理解すべきではありませんか?
ソクラテスやアリストテレスの哲学、ヘロドトスの歴史を我々はそうやって学んでいるのではありませんか?

と聞かれたらウッと詰まりそう。
百田尚樹氏の発想からは、こんな問いが出てくる可能性は1%も無いけどな(笑)!!


そしてそういう漢文調、あるいは文語文が「滅ぶ」「滅んだ」、あるいは「滅ぶべきや否や」という問いにはこの本もご参照ありたい。

完本 文語文 (文春文庫)

完本 文語文 (文春文庫)

祖国とは国語である。明治大正は新旧の思想風俗言語が衝突して、新が旧に勝った時代である。戦前早く漢字の知識は減りつつあったが、戦後それは限りなく無に近くなった。日本人は文語文を捨てて何を失ったか。樋口一葉、佐藤春夫、中島敦たちの諸家の名文を引き、失った父祖の語彙を枚挙し、現代口語文の欠点を衝く。


んで、今回の話題が最初に報じられた際に、「ほう(いくらアレとはいえ)、本屋大賞のベストセラー作家様が語っているのだから、この議論に何かを付け加えてくれるのかな?」と(一寸だけ)思って関連記事をのぞいた時の…、私の
( ゚д゚)
な表情をご想像いただきたい(笑)
こりゃあ、この死蔵資料をどうにかして探さねば、と発掘作業に乗り出し、その結果話題に乗り遅れたしだいだ(笑)


この対談では、こんな議論もしている

高島氏
「ついでにいうと、僕は『漢字』というより『支那文字』というほうが適当だと思う。『漢字』というと日本語を書きあらわすための文字の一種、という印象を与える。しかしあれは支那語という、日本語とは性格も系統もことなる言語を表記するためのものだから、もともと日本語とのおりあいはよくない。『支那文字』と呼んだほうがそこのところがはっきりする(後略)」
 
呉智英氏
「(略)朝鮮でも同じことが起きている。漢字の支那読みと朝鮮読みは違うから、李白というのは支那語だったら『リパイ』ですが、朝鮮語なら『イペク』です。今、李白さんという人が朝鮮にいるとすると、それをハングルで書くとなるとイペクで、詩人の場合はリパイと書かなければいけません(後略)」

余談その1「欧米人『日本でマンガが発達したのは、漢字が難しいからその代わりでしょ?』」

呉智英氏

日本のマンガに関心をもっている欧米のジャーナリストが私のところによく話を聞きに来るんです。
それで「なぜ日本ではこんなにマンガが盛んですか?」ときかれる。なぜこいつらいつも同じことばかり聞くのかなと思って逆に反問したら、日本人は漢字という難しい字を使っている、しかし漢字の読めないやつが多いからみんなマンガを読むんだろう、というんだよ。なぜそんなバカなことを言うのかと思ったら、マーシャル・アンガーという学者が日本人がマンガを読むのは字が難しいからだと言っているんです。アンガーというのは、コンピュータに文字をどう教え込ませるかということを研究していて…(略)彼の本の推薦者が梅棹(忠夫)先生なんだよ。ああそうかそういう構図なのかと、そこは納得したんですがね

いやあ、どこもバカな取材ってあるもんですね。とはいえ1996年から11年たち、さすがにこういう無知は淘汰されていっているでしょう。


余談その2 雑誌「世界」(1996年)誌上に、『支那』という文字が飛び交う快挙(?) 同誌自身は、こう表明した、が……

あまりに堂々としてるし、そもそも登場してる段階で予想がつく展開だが、さあ飛び交う「支那文字」「支那語」「支那読み」・・・ちびくろサンボを抹殺したり「報道写真家」という本を屠畜にまつわる表現の問題で全部回収、絶版した岩波がどーしたことよ、といえば、この対談に、異例の「編集部見解表明」を挿入していた。


かつて岩波書店に君臨した「金日成のしっぽ」こと安江良介社長の晩年…とはいえまだ存命中であり、よくこんなことやれたものだ。
wikipedia:安江良介

にしても・・・・・これは世界(岩波書店)が、支那ということばは使わないという表明としてはまあそれなりの話だが、その見解そのものではなく
「こういう見解を表明したうえで、高島俊男氏や呉智英氏が使った形での『支那』表現を、岩波書店「世界」が許容し、掲載した」ということ自体が、非常に重要な前例であろう、ということ。
議論の余地もまったくない…と、岩波が思っている(重要)、いわゆる『差別表現』なら、岩波書店は「報道写真家」や「ちびくろサンボ」並みの措置をとったこともある。そこが、こうやったという実例は、燦然と輝き、歴史に刻み込まれている。

当時の岩波「世界」編集部には、ナカナカの豪傑が居たもようです。


余談その3 高島俊男氏がブログを持っていた(!!)

少し前からやってたねん。
http://okotobasaishin.blog.fc2.com/
いや彼、超〜ーーーーーーーーーーーーーーーアナログ人間(※微妙に誤用な表現だが)で、本来ならブログできるとは思えないが、どうも協力者がいるとかいないとかって話、以前のエッセイに出てきたような。
(たぶんアップされたブログ画面や、コメントなどは見てはいないと思う…)
にしてもありがたい。一番人の目に触れる週刊文春の連載は終了してるしね。

さっそく、情報的に取り逃していた新刊情報を得た。

http://okotobasaishin.blog.fc2.com/blog-entry-59.html

お言葉ですが…別巻7
『本はおもしろければよい』
が2017年3月10日、連合出版より新刊発売されました。定価(2200円+税)です。ご覧いただければ幸いです。