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John 8:32 Then you will know the truth, and the truth will set you free."  複数ブログの過去記事を移管し、管理の委託を受けています/※場合により、語る対象の「ネタバレ」も在ります。ご了承ください 

「人間が奴隷になる話」―断片的な随想と雑感

これがはてなのホットエントリで、人気の書評になっています

■「人身売買・奴隷・拉致の日本史」渡辺大門 いかなる時に奴隷化は許されたのか
http://type-100.hatenablog.com/entry/2014/06/01/042247

人身売買・奴隷・拉致の日本史

人身売買・奴隷・拉致の日本史

日本人奴隷は、ポルトガル商人によって東南アジア・インド・ヨーロッパへと売り飛ばされたが、悪いのは売ってくる日本人である!?日本人が日本人を襲い、日本人が中国人・朝鮮人を掠奪する。そんな暗黒の時代。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
渡邊/大門
1967年、神奈川県横浜市生まれ。1990年、関西学院大学文学部史学科日本史学専攻卒業。2008年、佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

はてブも活発。
http://b.hatena.ne.jp/entry/type-100.hatenablog.com/entry/2014/06/01/042247

自分はここで、こんなふうに書きました。

gryphon
これは前から知りたかった。戦国時代に戦争の結果として拉致や人身売買があった、のはわかるが その人の奴隷身分を固定する「制度」はどんなものだったか ?アメリカの奴隷とイスラム的奴隷はまた違うだろうし

これに関連した話をまとまりなく、思いつくまま語っていきたい。

「カムイ外伝」の1エピソード

普通に学校で日本史を習うレベルでは、もちろん奴婢とかという言葉も出てくるけど、少なくとも制度が安定した江戸時代以降は「士農工商」(という身分制度の実質も、疑義があったりしてややこしいんだが…!)被差別身分、という話は出てくるものの、いわゆるアメリカの奴隷制的な、かっちりとした「奴隷身分」の話は出てこない。吉原遊郭への身売りはどうか、という話はまた別に考えよう。


ただ、とある作品で、江戸時代(だよな?)の奴隷を描いたエピソードが出ていた。

カムイ外伝、文庫版だと2巻だったかな?

カムイ外伝 (2) (小学館文庫)

カムイ外伝 (2) (小学館文庫)

かなり初期の話だが、ちょっと苦味のある、特に印象的な話だ。
自分はTVアニメで、最初にこの話を見たという記憶がある。


カムイは抜け忍狩りの追跡者を返り討ちにしたものの、一時的に眼が見えなくなり、行き倒れた。そこをとある農民に拾われる。

これで家族の一員となり…が普通のお約束だと思うが、農民がカムイを助けてくれたのは、「無料の労働力ゲットだぜ!!」という意味合いであり、子どもたちはそういうことがよく分からず慕うが、あくまでも「下人」としての扱いだった。

ただし、働きによって身分が上昇し、家などをもてるという可能性も示唆している。自分も元は下人(奴隷)で、、自由身分になりあがったのだという出自も明かしている。
だからお前もまじめに働け、ということだ。
 

しかし「ムラの会議」ではその非人道的待遇が問題となり、また落ちていたものを拾っただけ、という取得経緯も指摘され…さらには「かつてお前の家はムラから援助を受けただではないか」という問答無用の圧力まで発揮されて、この行き倒れの若者は「ムラの共有財産」となる。
コドモゴコロにこのシーンをテレビで見たとき「ムラの人々は、人道主義の偽善を振りかざしながらそれで自己の利益を得ようとしてるな」と感じたものだった(笑)。

そして才能やイケメンさ(笑)によっては確かに評価もされるし、人間的な愛情も受けないわけではなかった。その一方で「みんなのもの」となったカムイは「3日に一回ちゃんとしたものを食わせる」などの待遇改善もされたものの、逃亡を防ぐ鎖もつけられる…。



さて、白土三平氏の資料の充実ぶりや博学さはもちろん驚くべきものがあるが、同時に、当時の忍者ものに、史的な正確さを求めるのも筋違いではあろう(笑)。ひょっとしたら西洋映画の翻案、ということだってあるので、まあ雰囲気を味わう程度にしておくのがいいと思う。
ただ、仮にこのカムイ外伝エピソードが事実だと考えるとして
・「ちゃんとしたもの」を食わせたり、健康に気を使ってもらえるのか?
・働きぶりによっては「家が持てる」ような身分になるのか?
・普通の村民女性と戯れたり、親しく会話したり出来るのか?
・そもそも、普通の村人と、この「下人」はどのように身分が違うのか…何がそれを定めているのか。
・それは一般的な日本国の、あるいは諸藩の制度であったのか。


わかんないことばかりですなあ。
そもそも奴隷とはなんぞや。


「それは自由と権利を奪われた人のことだ」というのが最大公約数なのだろうけど。
それはアンクル・トムやリンカーン、南北戦争、「ルーツ」…その他もろもろによって、奴隷制の最も生々しいイメージがアメリカの奴隷制度だ、ということも大きいのだろう。


藤子・F・不二雄先生の「T・Pぼん」という作品は、タイムパトロールが「歴史にあからさまに干渉すると変化がおきてしまうから、あくまでもさりげない形で当時の人に協力し、目的を達しなければならない」という、ちょっと変わったアイデアをもとに描かれた作品。ここでアメリカの逃亡奴隷をたすける話での制度の描かれ方は、やはり先生の少年向け作品らしく「最大公約数」をうまく表現しているようだ。
自分のこのコマは文庫本だがシリーズに欠落回があり、最近出た全集でようやく全話が読めるようになった

藤子・F・不二雄大全集 T・Pぼん 3

藤子・F・不二雄大全集 T・Pぼん 3


「権利や権限ある奴隷」について

しかし、制度として自由や権利がないこともあれば、制度は自由でも貧困や借金で実質自由がないこともある。
さらにややこしいのは、世の中の歴史上、「えらい奴隷」「人々の上に立つ奴隷」「お金持ちの奴隷」なんぞもいたりしたことだす。

自分もやっぱり「アメリカ南部的奴隷」を念頭においていたので、世界史授業でこういう人々の存在が飲み込めず「????」だったものだった。
だいたい
「奴隷王朝」
という歴史用語からして…よく考えたら「焼いた氷」「黒い白馬」的なおそろしく矛盾に満ちたナニかでしょう
ただ、その「?」のおかげで、非常に印象に残っているのだ。

奴隷王朝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E7%8E%8B%E6%9C%9D
インドの奴隷王朝が理解出来ません。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1038030575

自分がその後、知った中でそういう存在は、オスマントルコ軍の中核を担った「イェニチェリ」だった
。自分が読んだ世界史資料集では「オスマン帝国は、物心つくかつかぬかのキリスト教徒の子どもを親元から引きはなし、改宗させて最前線へ向かわせた。身分はスルタンの直属奴隷。純粋培養の教育を受けたので大変に勇猛果敢で、諸外国を恐れさせた」
この「異教徒から子どもを徴兵」「強制改宗させて兵士とする」というのが実に非人道的に聞こえ、あまりに兵士たちやあわれ、と思ったのでした。だが…。
いや実際、たしかに平和な生活の選択肢を失い、奴隷兵士となるしかないというのは確かに悲劇だが…その一方でな。

一度紹介したこともあるんだけど、再紹介。

1826年5月、マフムト二世は新式軍の編成を勅した。…(略)しかし、スルタンの予想通り、イェニチェリは君命に従わず、新式軍への公然たる反対をあらわにした。
ここでイェニチェリは、奇妙なしぐさをしている。それは、スープ用の大なべをひっくり返して営庭にならべたことである。これは不平不満を公然と表す際に、イェニチェリが慣行としたしぐさである。
16世紀後半以降、イェニチェリはイスラーム暦で年に四回、3カ月分をまとめて俸給としてトプカプ宮殿で受け取った。支払いに満足したときは中庭に出されたスープの大なべとピラフを入れた器で料理を賞味するのが恒例であった。不満足なときは、このスープを「飲めるものか」とあらわに拒否したものだった。もっと不平不満が募ると、自分たちの部隊のシンボルでもあり、スープを実際に作っていた大鍋をひっくりかえして「もう我慢ならぬ」と反旗をひるがえしたのである。イェニチェリの将兵が黙ってスープをすするのを見て、大宰相たちはようやく安堵したという。そこで、トルコ語で「大鍋をひっくりかえす」(カザン・カルドゥルマ)といえば、反乱を起こすことを意味するようになった。

奴隷身分がなんでこんな反乱を大宰相に起こせるねん??というふうに違和感ばりばりだったんだが、こういうことは珍らしくないんだな、と分かってきた。

つまりだな。
・奴隷は人の嫌がることをさせられる
・それは往々にして重要な部分である
・その結果、奴隷なしでは立ち行かなくなる…

という。そして、その「人は嫌がるが、重要な」仕事の筆頭格が、死ぬかもしれない「戦争」というものだ。戦争に人を動員するために「奴隷で軍隊を構成する」ということがままあった。
しかし、世の中クーデターや革命に見られるように、武力とは究極的に人を支配しうる力だ。そして「究極の実力主義の場」でもある戦場では、身分が奴隷だろうとなんだろうと、指揮官や戦士として頭角を現すこともできる。
そもそも「死」が最高の厳罰であるはずのこの世で、死と隣り合わせの戦場に「奴隷」を強制で赴かせ、しかも士気を保つ、というのもいろいろ苦労があったりするとは思うのだが。そこもまた軍の「統制」というものだろうし、「自由民を徴兵で戦場に向かわせるのも、奴隷を買って戦場に向かわせるのも大して変わらない」という部分もあるんだろう。



そして日常の「仕事」の中でも、それは同じで…
だれだったか、奴隷を「0.2馬力の、精密コンピューターつき高級汎用機械」と考えると理解しやすい」と言った人がいまして、そういう機械の中で、とくに性能のいいコンピュータは、その性能をいかした仕事をしてもらうほうが、機械の持ち主としても得なのである。
だから奴隷の中でも才能あるものは、仕事や家事を取り仕切る立場にさせよう…と奴隷所有者は、人道主義ゼロの状態でもそう思ったりするのですわ。


さらにいえば、今でもよくある話だけど、会社によっては「社長直轄の秘書」が専務や常務より実質上は偉かったりするわけですよね(笑)。「皇帝直属の奴隷」は、その考えでいえば、えらいのか偉くないのか…。宦官だって結局はそういうものだろうかな。
逆にそういうものが身分制度の抜け穴になったりもする。身分が低いものも、あえて「皇帝の奴隷」的立場の中で頭角を現せば、一国を牛耳ることも可能になる。


帝政ローマ時代が舞台の「拳闘士セスタス」でも、先代の奴隷主に眼をかけられ、苦労知らずの若旦那に対して「この人に苦労を味あわせず、安楽に一生を過ごさせてやるのが俺の仕事さ!」と自嘲と誇りの入り混じった自己認識を語る家宰奴隷…解放奴隷だったかな?もいましたね。


サウジアラビアの奴隷制は1960年まで続いてた?中田考氏語る

中田考 @HASSANKONAKATA · 5月31æ—¥

"@MARWAN_ABE: Darkness: ぼろぼろになるまで虐待され、レイプされる現代のメイド http://www.bllackz.com/2010/11/blog-post_18.html?m=1 …

というニュースに対して
イスラーム世界にも「人権」という概念がない。" 領域国民国家制が移動の自由と国民間の平等を奪い、家父長制的奴隷制度を廃止したせい


https://twitter.com/HASSANKONAKATA
中田考 @HASSANKONAKATA · 5月31æ—¥
私は1992ー4年とサウジアラビアの日本大使館で専門調査員を勤め、外国人労働力者虐待、異教徒、異端の差別、幼児誘拐レイプ殺人など様々な問題を見聞したが、サウジには1960年まで正式に奴隷制度があったにも拘わらず、元奴隷に対する差別も元奴隷からの怨嗟の声も一度も聞いたことがなかった

中田氏はこんな人。

中田考 @HASSANKONAKATA
イスラーム学徒、放浪のグローバル無職ホームレス野良博士ラノベ作家、「カワユイ(^◇^)金貨の伝道師」、「皆んなのカワユイ(^◇^)カリフ道」家元。イスラームの話は殆どしませんが、全てはイスラームの話です。

聖地ネオ・シャーム
bit.ly/9S1NHG

twitterの自己紹介では何がなんだかわからん(笑)
再度、こんな人。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%94%B0%E8%80%83



「セスタス」シリーズの奴隷制描写も非常にすばらしい(そもそもセスタス自身が、自由な身分になることを目標に拳闘士として戦いを重ねているのだ。おそらく「スパルタカス」や「グラジエーター」などのローマ映画を参考にしているのだとう)


だが…、なんといっても今、その息もつかせぬストーリーと細部まで気を配った描写、魅力的なキャラクター、そして休載の多さ(爆笑)でアフタヌーンの2トップをひた走る「ヒストリエ」と「ヴィンランド・サガ」は、「奴隷制度」「奴隷的存在」の描き方、という点でもまたセスタスに負けない、2トップだったりするんですわ。


ヒストリエではかなり最初のころ、裕福なギリシャ市民の息子だと思われていたエウネメスが、実は両親と血縁関係にないことで奴隷身分に落とされる。そのギャップがあるから、逆に奴隷制度の意味が浮き彫りになる。
もっとも、実際に奴隷としての苦難を味わう前に、別の奴隷がエウネメスの買主に対して反乱を起こしてなし崩しに解放されるのだが…


こちらでは、主人公トルフィンが中盤で、親友となるエイナルと同じ奴隷仲間としてめぐり合う。


どちらも奴隷の悲しみ、苦しみも十分に描かれているが…
ただ、とくに「ヴィンランド・サガ」の農奴の描かれ方に関しては、非常に興味深く、たぶんあまり他の漫画や小説では出てこないような類例のない展開が用意されている。

「労働は自由にする」という幻想と実態。

「労働は自由にする」、というスローガンはのちに非常に悪い状況で使われて不吉もいいところの言葉になってしまった(各自調査)が、この「ヴィンランド・サガ」に関しては、それのある意味、理想的なカタチが描かれていた。

まず大前提として、実はヴィンランド・サガで主人公らを買った農村主が、珍しいことにとても「いいひと」であった…という、そういう前提がある。

と、こんなふうにして開拓をすすめていくのだが、この主人には2人のバカ息子がおり、さらにはこの主人も、女奴隷への愛情ゆえの妄執に落ちて・・・というふうに話は進んでいく。ただし、この稿ではその話はとりあえず関係ない。
どこまで一般的な例かは分からないが、日々の労働に対して対価を与え、それの蓄積によって身分を自由なものにする(自分を買い戻す)という仕組みがあった、ということをまず押さえておこう。

なぜこんな制度があったのかというと…、やはり人間の「モチベーション」はそういうものだという、人間性の本質が関わってくるようなのだ。

「自由」を餌にした奴隷の使役方法〜「神による贖(あがな)い」という言葉を生んだ制度

奴隷は言うまでも無く生涯奴隷のはずだが、ローマ帝政期には、意外なほど奴隷の解放が多かった。これにはいろいろな理由があり、また解放の動機・ケースは種々さまざまだが、最も大きな理由の一つは、解放したほうが奴隷所有者にとって有利な場合が多かったからである。
 
というと奇妙なようだが、俗に言う「ただより高いものはない」の一例であって、不能率・超低生産性の奴隷労働は、意外なほどコストの高いものについたらしい。確かに単純作業なら鞭もある程度は有効かも知れぬが、特殊技術を必要とする労働における特技をもった奴隷の能率向上は強制、威嚇、体罰では不可能である。さらに学問奴隷や技術奴隷となると…(略)彼らが能率を上げてくれないと商売が成り立たない・・・いかに奴隷所有者でも知識や技術は暴力で吐き出さすことも、取り上げて他に与えることも不可能だからである…(略)
 
とすると、報酬の幾分かを奴隷に与えて能率を上げさせるほうが、結局奴隷所有者にとっても有利ということになる。…こうなれば奴隷のほうも一心に能率を上げて収入を増やそうとする。とすると必然的に仕事は繁盛し、所有主の収入も増えることになる。一方奴隷のほうがその収入を貯蓄して、それによって自由を買い戻す……のがごく当然の願望になってくる。

非常にわかりやすいまとめだが、
ここからがまたおもしろい。

だが、ここで一つ障害が出てくるのである。何しろ奴隷は主人の家畜同様だから、自分の意思で契約を結ぶことも出来ないし、財産を所有することも、所有権をはじめとする何らかの権利を主張することも一切出来ない。したがって、たとえば報酬を主人に預けて積み立てておいても、途中で主人の気が変わって彼を売り飛ばせば、一切はおしまいで体よく積立金も没収…(略)そういう危惧があっては、だれも一心に働く気にはならない。だがそれでは所有主のほうも困る。

そのため(だけではないと思うが)積み立て貯金を神に預かってもらうという方法がとられた。
(略)
奴隷は得た報酬を神に預託する。そして一定金額に達すると、神様がその金で彼を贖い(買い戻し)自由にしてくれた。したがって解放奴隷とは、形式的には「神の奴隷」であり、実質的には自由民であった。
新約聖書が記される200年以上昔・・・ニケーアという名のローマ人の女奴隷が、アルフィのアポロンに自分を買ってもらったという形で自由を獲得したことを記す刻文を示そう。

ピティアのアポロンはアンフィッサのソシビオスからニケーアというローマ人の女奴隷の自由を3.5銀ミナで贖った。法による前売却人はアンフィッサのエウムナストス。彼(ソシビオス)はその代価を受領した。自由を贖う代価を、ニケーアはアポロンに委託した。

こういう制度がそもそもあったからこそ聖書の「主によりて贖われる」とか「キリストは義と正と贖いである」という言葉は、なんとなく今では抽象的、神秘的な概念のように扱われるけど、当時としては極めて具体的なイメージだった…と解説されている。
以上、

の「歴史における『生活の座』」より引用した。
【追記】のちにこういうまとめを見つけた。同じく山本七平の本から。

山本七平botまとめ/『神・主人・奴隷の三角形』〜解放奴隷(リベルテ)と上下契約〜 - Togetterまとめ http://togetter.com/li/265612 @togetter_jpさんから

そういえば、奴隷は私物の所有権があるか、というとまたいろいろ違ったりするようですね。ロシアとかの農奴は、私物の所有権があった、とどこかで聞いたような気がする。その範囲にもよるか。
逆に、塩野七生「コンスタンチノープルの陥落」を読んだら、スルタンに緊急に呼び出された宰相が銀貨山盛りのお盆をうやうやしく掲げ

スルタン「これは何か」
宰相「夜中にスルタンに召しだされたものは、すなわち全財産を献上せよとの慣習があります」
スルタン「私は貴方の銀貨などほしくない、むしろその2倍だってあげられる…かわりにあの街がほしい(敵国の首都コンスタンチノープル)」

という名場面がある。
日本のお中元レベルの感覚なのかもしれないが、逆にやはりオスマンには「皇帝(スルタン)の下は、みな奴隷である」というふうな伝統があるんかもしれない。それが建前や名目的なものか、そのへんはわからんちんです。


また、上の「奴隷は主人と対等に交渉や約束ができず、主人は勝手気ままにふるまえてしまう。そこで『主人よりさらに上位に位置する存在、主人も命令に従うべき存在』を、架空であっても設定し、それによって権力の暴走を防ぐ」…というのは、のちのアメリカ独立宣言や人権宣言、立憲主義の源流となったのかもしれません。


ただし、ヴィンランド・サガはこの「農場奴隷編」が終わった後、故郷に帰ったトルフィンが「相手を借金漬けにして奴隷状態に置く」というもう一つの形態と対面することになります。この話も興味深いのだが、これはあとで独立して語れれば、と思う。


奴隷制度といえば、書き方に賛否両論があったが「まおゆう」で勇者や魔王の下で働く姉妹は逃亡奴隷だった、という設定があったっけ。

いま検索したところ、ここだけが独立したスピンオフ作品(朗読劇?)になっているらしい、ということがわかりますた。

http://maoyu.jp/goods/rodokugeki.php

わたしは…『人間』だからっ!!
“まおゆう”ファンの心を掴んで離さないそのセリフは原作小説のみならず、ドラマCD、TVアニメ、そしてこの朗読劇でも描かれることとなった。
豊かで恵まれた現代に生きる我々の心に“刃”を突き立てたメイド姉による『人間宣言』が、戸松遥ほか実力派キャストの手によって鮮烈に蘇る!

戦争と飢餓が蔓延し閉塞感が漂う世界―――
自我さえも殺さねば生きてゆけない『人間』以下の存在、『農奴』という身分で生まれたメイド姉とメイド妹。
そこから逃げ出し、魔王と勇者の庇護のもとで安寧を掴んだかに思えた二人だったが、メイド姉は『人間』になろうとするが故に荊棘の道を進むことになる…。

人間の尊厳とは何か?が、少女の魂の叫びによって描かれる!

追記 「アルスラーン戦記」もあったね


単純化されてるところも勿論あるが、例えば奴隷という、今の(表の)日本社会ではなかなか体験、見聞しがたい制度をティーンエイジャーが考える際の手がかりとしては十分なものがあると思う。荒川弘の漫画版もはじまったわけだし。
ストーリーの中核部分に、これ絡んでるんだよ。

王都炎上・王子二人 ―アルスラーン戦記(1)(2) (カッパ・ノベルス)

王都炎上・王子二人 ―アルスラーン戦記(1)(2) (カッパ・ノベルス)


まとめ

とまれ、人が人の自由を奪って「奴隷」とするという仕組みや思想…これは人間社会が長い歴史の中で生み出しつつ、徐々に克服していったものだった。
上で紹介した戦国時代の拉致や人身売買制度もしかり


ただし、いろいろな国や歴史では、その制度から何物かが「はみ出して」いった。それは人間の才能であり、愛情であり、あるいは自由を欲する意思だったのかもしれない。

藤子・F・不二雄先生ではないが、奴隷制度という歴史の中から……、特にその制度のほころびや裂け目から「人間社会が徐々によくなっていく」希望を見い出したい。