『哲学の誤読』入試問題の哲学的読み

入不二基義さんの新刊『哲学の誤読:入試現代文で哲学する』は、なかなかの傑作である。大学の入試問題に実際に出た、野矢茂樹「他者という謎」、永井均「解釈学・系譜学・考古学」、中島義道「幻想としての未来」、大森荘蔵「「後の祭り」を祈る」という文章を題材にして、予備校の解答例がいかにそれらの哲学的文章を読めてないかを指摘し、哲学の文章が、哲学ではない文章へと変換されていく仕組みを考察したものである。この仕組みの原因のひとつは、哲学の文章の意味するところのものがプロの解説者によってさえ往々にして理解されていないところにあるのだが、それと同時に、入試の現代文というパラダイムそれ自体にも原因はある。

そのあたりの迫り方はユニークである。入試問題文を素材にして哲学入門を書くというのは、たしかに世界でもはじめての試みかもしれない。その意味でこれはたしかに哲学書である。海外の思想家のものを解釈して輸入することを哲学と呼ぶのをやめて、こういう本を哲学書と呼ぶようにしなくてはならない。

あと思うのは、これは入不二さんのバイアスであろうが、4つの問題文や、それについての入不二さんの思索の範囲が、かなり特定のものに偏っていることである。というか、入不二さんがこれまで書かれてきた哲学的問題に触れるもののみが話題になっているとも言える。さらには、入不二さんも書かれているように、全員がおそらく大森荘蔵の圏域内にあり、さらにはヴィトゲンシュタインの手のひらの上にあるということである。われわれ(含む私)の最大の課題のひとつは、いかにしてヴィトゲンシュタインから逃れつつ哲学できるかということであるように私はひしひしと思う。

あとは、入不二さん自身書かれているが、彼自身が以前に予備校教師をしていたということがある。この異様な執念は、そのときの体験があるのだろうし、予備校の模範解答を作っている人々の実際の顔が目に浮かぶからだろう。さらには、これらの文章を入試問題に出す大学教員の姿も目に浮かぶからだろう。入不二さんが禁欲したこの点をめぐって、さらに一冊本が書けるように思える。