哲学の「て」 「倫理について語るときに我々の語ること(メッタメタ倫理にしてやんよ)」を視聴しました(vol.4)

これは"vol.3まとめ"の続きです。
リンクの動画が見られなくなってきたのでそのうち他の記事も文章だけにしていくつもりです。

例の通り、誤りや適切でない箇所があるかもしれませんそのときは指摘していただけるとうれしいです。

[ムーアの未決問題]

ムーアの未決問題は、G.E.ムーアによって1903年に提出された自然主義を批判した
文章(「プリンキピア・エチカ」)に関わる問題なのです。
前回も記述したように自然主義者と呼ばれる人々は、「善い」ということを
「自然科学的に分析できるようなものとして扱うことができる」と考える人々のことを指します。
つまり、ムーアは、「善い」という道徳的な性質は、自然的性質によって還元して分析することはできないということを論証したのです。


ムーアの論証のすべてを見ていく前に
まず、以下の三つの前提(Premise)を見ていきましょう。

P1 「善い」という言葉がある自然的性質を意味する形容詞「N」と同義として、分析可能だとする。
P2 もしP1ならば、ある行動について「xは善い」というのは「xはNである」という主張の意味の一部である。
P3 もしP2ならば、「xはNだが、はたしてxは善いだろうか?」という問いはおかしい(概念的な混乱がある)。

#ここでは自然的な性質ということを、「我々が普通にイメージする自然科学によって示される性質」と考えてください。
例えば、「水の分子は、水素原子二つと、酸素原子一個で構成されている」というようなことです。

以上の三つの前提について考えていきます。
例えば、次のように独身(bachelor)の概念を考えてみます。

ある人xが独身であるとは、「xは結婚していない」という状態のことと同義として分析可能なわけです。
そうすると当然、「xは独身である」というのは「xが結婚していない状態である」ということ主張の意味の一部と
して考えることができるのです。
さらに、「xは結婚していないが、はたしてxは独身だろうか?」ということを問う人は、
独身であるということを理解しているとは言えないわけです。
なぜなら、理解していれば、そもそも「はたして独身だろうか?」という問いは提出しないはずだからです。
P1~3のものはこの独身の議論と本質的に同じものです。


さて、今までのことを理解した上でムーアが提出した論証を見ていきましょう。
それは以下のようなものです。

P1 「善い」という言葉がある自然的性質を意味する形容詞「N」と同義として、還元し分析可能だと仮定する。
P2 もしP1ならば、「xは善い」というのは「xはNである」という主張の意味の一部である。
P3 もしP2ならば、「xはNだが、はたしてxは善いだろうか?」と問うことはおかしい(概念的な混乱がある)。
P4 しかしながら、いかなる自然的な性質Nに関しても、「はたしてNであるもの善いだろうか?」という問いは、
  概念的混乱をいっさい含まずにたてることが出来る。つまり、「Nであるものは善いか?」という問いは常に
  未決(open)である。
P5 P4はP1と矛盾する。よって、P1は真でありえない。

C1 したがって、善いという性質は「Nである」という性質には分析的に還元できない。

#Nについて、例えば、「脳内化学物質がある脳部位に作用すること」と定義してみましょう。
この場合であっても同様に「ある行動xはNであるが、果たしてxは善いだろうか?」という主張は
成立するわけです。

この論証でムーアは、「善を分析的に還元させられるものとして捉えると、本来でてこない「Nはであるものが善いか?」という未決な部分が生じてしまう」ということを明らかにしました。
つまり、独身の概念を例に説明したときとは異なり、「善い」という概念では、
「はたしてxは善いだろうか?」という問いは概念的な混乱なく成立してしまうわけです。

ムーアが提出した論証であり、彼はこれを元に「自然主義」を批判したといわれるのです。
以上をもって、自然主義的な還元が「善い」概念に適応できるとする判断は誤りであると見なされるわけです。


しかし、このムーアが提出した論証に異議を唱える哲学者たちも当然いるわけです。
そのような主張の三つほど見ていきます。


それは以下のようなものです。
1. P4への反論 「Nであるものは善いか?」ということが常に未決ではない状況が想定できる。
2. P3への反論 P3の主張は誤りである。
3. ムーアの未決問題とその反論に対する批判 どちらも誤りである。

3.について別にページをとって説明したいと思います。

1. P4への反論

P4への反論は、「「Nであるものは善いか?」ということが常に未決ではない状況が想定できる」ということです。
どういうことでしょうか。
P4のムーアの主張では、「Nであるものは善いか?」ということは常に未決(open)です。

しかしながら、一部の哲学者たちは、次のように問います。

「Nであるものは善いか?」が未決であるとあなた思うのは、予めその主張が未決であると考えているからではないか。
結論で述べるべき、「善い」という性質が、自然的性質Nによって分析的に還元できないと考えているからP4のような
前提が真だと考えているのではないか。

と主張するわけです。

つまり、ムーアの前提としているP4に対して、「どうしてP4は正しいのか?」と問うと
「なぜなら、「善い」という性質が、自然的性質Nによって分析的に還元できない」という応答になってしまうのではないか
というわけです。
これは論点先取と呼ばれる「論証すべき内容が、前提のうちに使われている」というタイプの誤謬です。


2. P3への反論

ムーアの主張によれば、P3が成立するが、
ある哲学者たちはムーアの前提P3には、以下のような前提があると主張し、批判します。

その前提は、
ムーアの前提:真であり、かつ新しい情報を付与する定義的(還元的)分析はありえない。
というものです。

つまり、ムーアは
もし「善い=Nである」ならば、「善い」ということを理解している人にとっては、「善いとはNであることである」という文は、なんら新しい情報を与えない。
と考えていると主張しているのです。

議論に入る前に、
次のような言葉の機能をわけて考えてみましょう。

それは、sense(意味) / referent(指示対象)です。

例えば、犬という言葉を考えていましょう。犬という言葉には「犬」の存在そのものを"意味"します。
他にも”犬のようだ”というように”何かに従属する様”を”意味”することがあるわけです。
さらに、我々が”犬だ!”と呼ぶとき、"犬"は「犬」の存在そのものではありませんから、
”犬”という存在を指し示しているわけです。
我々は、このように言葉を、その言葉が持っている様々な内容(意味)とその言葉が指し示している"対象"(指示対象)という二つの機能を分けて考えることができるのです。

これをもとに次のことを考えてみましょう。
それは水とH2Oに関することです。
我々は、水はH2Oに還元して分析可能であること知っています。
よってムーアの前提P3倣って、「「xは水だが、はたしてxはH2Oだろうか?」と問うことはおかしい(概念的な混乱がある)
主張できるはずです。

しかし、ある哲学者たちは「いやおかしくない」といいます。それは、sense/referentの違いと新しい定義が加わるという現象から概念的誤謬を含まずに説明できると主張するのです。
みていきましょう。

水とH2Oというのはというのは、指示している対象物が同一である。
(「xは水である」は「xはH2Oである」という主張を含む)
しかし、水というのがH2Oであると発見される前後の人々にとっては、水という言葉が持っているいくつかのsenseとH20がもっているsenseが同一であるかは必ずしも明らかではない。
よって、「xは水であるが、はたしてxはH2Oだろうか?」という問いは成立する。

つまり、ある言葉がもつsenseが、他の言葉がもつ異なるsenseとが同一であるかを問うのは可能であるというわけです。

これと同じように、P3で問題とされているところの
「xはNだが、はたしてxは善いだろうか?」
ということも同様に考えられるはずだとなるわけです。
それはつまり、「xのある意味はNだが、果たしてxのある意味は善いだろうか?」という新たに知ることができたxについて問う場合には、現実には「xが善いものである」としても「xはNだが、はたしてxは善いだろうか」と問うことが可能なのです。
そして、その場合新たな情報を与えることになるわけです。

このように哲学者たちは、「ムーアは指示対象と意味の区別を考えていない」と主張し、この区別を導入することで、「どうしてこの論証で未決の部分がでてくるのだろうか」ということに対して解答できるとしているのです。



さて次のまとめでは、ムーアの未決問題とさらにその反論が共通にもっている前提を批判する問題について纏めていきます。

実はこの主張が最初に取り上げた4.「道徳的判断と動因」に関する議論に繋がっていくのです。